うどん 熊五郎のブログ

日替わりメニューの紹介や店での出来事など徒然なるままにつづりたいと思います。

連載9

2012年07月30日 | 学習室
熊五郎と12名の仲間達

 遠足実施当日、十二名の仲間達を含めた総勢三十一名の参加者はマイクロバスで埼玉古墳群に向かった。駐車場から降りると正面に小さな林が目に入った。
「みんな、あの林はなんだか解るかな。」
「林は林。ただの林じゃないの。」
横にいた森下がポツリとつぶやいた。
「違うんだ。みんなよく見てごらん。あれも古墳なんだよ。ちっちゃいけれど立派な古墳だよ。確か愛宕山古墳って言ったかな。」
一行は綺麗に整備された「さきたま風土記の丘」を三百メートル程歩くと前方にお椀を伏せたようなこんもり盛り上がった丸墓山の前に立った。
「この古墳は日本で一番大きい円墳なんだよ。階段登って上までいけるから行ってみよう。」
熊五郎の説明が終わらないうちに男子組は登り始めている。
「おーい。急いで怪我するなよ。」
「はーい。」
後から登り始めた女子組も皆、熊五郎を追い抜いていく。どん尻で頂上までたどりつくと辺りを見回して
「みんな、あそこを見てごらん。細長い土手が見えるだろう。あれはね、石田堤っていって四百年くらい前に豊臣秀吉の家来で石田三成って言う人が城を攻めるとき築いた土手なんだ。」
「先生。何で土手なんか作るの。」
関が不思議そうに尋ねた。
「この近くに忍城っていう城があってね、攻めるのにとても難しくてなかなか攻め込めなかったんだ。そこで、石田三成は周りに土手を作って川から水を引いて水攻めって言う方法で戦おうとしたんだ。」
「それでどうなったの。」
「結局、土手が壊れたりして城を攻め切ることは出来なかったんだ。」
「ふーん。」
「遠くから見ると水の中にお城が浮いている様に見えるんで忍の浮き城って言われてたんだよ。」
実際に目の前にある光景を子ども達は説明を聞きながら戦国の世を想像したかは定かではない。中学で本格的に歴史を勉強したとき、思い出してくれればいい。次は最も大きい双子山古墳に向かった。復元された古墳の周りには堀がめぐらされ、柵の外から見学するだけなのだがその大きさに圧倒されている。
「先生。この古墳、人間が作ったの。」
田島が信じられないといった顔で尋ねてきた。
「そうだよ。今みたいにショベルカーやブルドーザーなんか無い時代にこんな大きなお墓作ったんだから凄いよね。どんな偉い人だったんだろうね。完成するまでどれくらいかかったんだろうね。みんな想像してごらん。」
熊五郎の問に皆、無言でいる。きっとそれぞれが、その光景を想像していたに違いない。
 翌週、熊五郎は妻の友人、松宮さんの家を夫婦で訪れた。彼女は以前から陶芸教室に通っていた。自宅の玄関を入るとすぐ右側に四畳半ほどの和室があり、窓際に置かれたテーブルの上には三〇センチはあろうか、大きな作りかけの埴輪が置かれていた。それを見たとたん熊五郎の目の色が変わった。小学一年生から四年生までは瓦の産地で育ったこともあり、元々土いじりには興味を持っていた。その影響で小さい頃はよく粘土で動物を作っては風呂釜で焼いたことを覚えている。
「松宮さん。すてきな作品ですね。」
「ありがとう。でも、まだ完成には二~三週間掛かりそうなの。」
「完成したら是非、見せてもらえますか。」
「そうね。もしかしたら今回のはバランスが悪くて崩れちゃうかも知れないの。」
「なぜですか。」
「上半身が大き過ぎちゃって下の土が持たないかも知れないの。」
「へえー。そうなんですか。粘土って難しいもんなんですね。」
「そうよ。先生はいつも土は生き物だっておっしゃっているのやっと最近解りかけてきたみたい。駄目だったら、もう一度粘土買いに行って作り直そうと思ってる。」
既に、熊五郎の脳裏には、粘土をいじくり回している自分の姿が浮かび上がっていた。
「その時でいいですからご一緒させて頂けませんか。」
「いいわよ。どうせ粘土買いに行かなくちゃならないから。その時で良かったら。」
彼女は、お供をすることを快諾してくれた。67
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連載8

2012年07月29日 | 学習室
熊五郎と12名の仲間達


 二学期に入り、再び彼等に再会すると、いつも通りの授業が展開されていった。相変わらず脱線の連続である。その日は午前中、たまたま外出していたため珍しく背広にネクタイ姿で授業をすることになった。いつもは作業着姿であったり、ジャージ姿であったり、服装に無頓着な熊五郎は一般の学習塾の講師のように背広にネクタイ姿で講義をすることはなかったのである。その姿を見るなり田島が
「先生。その姿どうしたの? なんか似合わないよ。」
と指を指しながら笑い出した。
「どうして? そんなにおかしいか?」
「だっていつもの先生じゃないもん。何か変。」
「たまにはいいだろう。俺だってこういう時もあるんだ。」
生徒達は初めて見る背広姿に戸惑いを隠さないでいる。そこに猪野沢が割って入った。
「先生もネクタイ持ってたんだ。」
「馬鹿言ってんじゃないよ。背広とネクタイぐらいは持ってるよ。」
「へエー。先生、何着ぐらい持ってんの。」
「上下揃ってるのはこれだけ。俺の一張羅なんだからよく拝んどきな。」
と言いながら熊五郎は黒板の前に立ち、モデルのように一回転した。大爆笑である。そしていつも通りの授業が始まった。『けじめを付けよう』が学習室の決まりである。
 裏山の木々も紅葉を始めた秋のことである。遠足で埼玉古墳群に出かけることになった。対象は小学一年生から三年生まである。歴史的な史跡を訪れる場合、必ず事前にその時代背景等を授業中に解説し、予備知識をつけることにしている。遠足を週末に控え熊五郎は古墳についての解説を始めた。
「みんな、古墳て知ってるかい。深井さん知ってる?」
「昔のお墓でしょ。」
ここから熊五郎の嘘八百講義が始まった。
「深井さん。それは違うんだよ。本当はね。昔のトイレだったんだ。」
「先生、それ本当?」
「実はね、昔はトイレなんか無いからみんな野原でしていたんだ。だけど野原だと人に見られて恥ずかしいよな。だからシャベル持って小さな丘の上に穴を掘ってうんこしてたんだ。」
「へえー知らなかった。」
横井は熊五郎の話を信じ切っているようだ。
「みんなが同じ丘にするから次の人が掘っても大丈夫なように掘った穴の上に土を盛り上げておくんだ。そうして何年もすると丘の片方の土が削られて平になり、うんこした方が段々高くなっていって今の形が出来たんだよ。よく考えてご覧。和式トイレって知ってるだろう。横から見るとそっくりだろう。あれは昔の人が古墳をまねして作った形なんだ。」
そう言いながら前方後円墳の上方からと横からの絵を黒板に描いた。なるほど、その形はどことなく和式トイレの形に似ている。説得力のある説明に深井まで熊五郎の話を信じ始めている。
「だから、古墳て言うのは元々『古い糞』古糞って書いたんだけど汚いイメージがあるから古墳て書かれるようになったんだよ。」
「先生。いろんな事よく知ってんだね」
志多は感心しきりのようである。熊五郎は内心『しめた!』と思った。騙されれば印象に強く残り真実をより鮮明に記憶に定着させることができる。熊五郎がよく使う指導法の一つでもある。
「解った? 今のは全部嘘。今の話、信じちゃいけないぞ。本当は深井さんの言ったことが正解。昔の人のお墓なんだよ。」
「俺もおかしいなって思った。確か学校の遠足で行ったとき、先生が昔のお墓って話してくれたもん。」
関口が安堵の表情を見せた。
「でも、もう忘れないだろう。古墳って何だか。」
さらに熊五郎は古墳の名付け方や前方後円墳、円墳、方墳などの違い、古墳時代の日本人の生活や身分制度などを説明していった。こうした型破りな指導法も彼等には既に普通のこととして受け入れられていた。64
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連載7

2012年07月28日 | 学習室
熊五郎と12名の仲間達


 そして、今年もサマーキャンプの季節が来た。彼等の学年はもちろん全員参加である。昨年、熱を出してテントから出ることの出来なかった横井も元気に参加した。ところが、参加者の一人、藤野が事もあろうに川遊びに必需品である靴を忘れてしまったのだ。岩場の多い谷川では靴を履かなければ川遊びは出来ない。本人もがっかりしている。こういう場合、熊五郎は救いの手を差し伸べない。忘れた責任は自分にあるからだ。下手に指導者が救いの手を差し伸べると子ども達は安易な考えに走ってしまう。縦社会、横社会が密であればあるほど仲間内で解決できる問題が多いのである。案の定、藤野は猪野沢の靴を借りて遊び始めた。猪野沢は自分が履いてきた靴で川に入っている。
「猪野沢君。大丈夫? 換えの靴無いんでしょ。」
心配そうに妻が聞くと
「大丈夫。すぐ乾くから。だって、藤野が川に入れないんじゃかわいそうじゃん。」
参加者達が川遊びに興じていると、紺の軽自動車がキャンプ場入り口で止まった。中から出てきたのは藤野の母親であった。実施要項に《川遊び用の靴》と書かれていたことに気づいて忘れ物を届けに来たのであった。
「ごめんなさい。つい、うっかりして息子の靴を入れ忘れたのを思い出して届けに来たの。」
藤野の母親は妻と日頃から親交があり、その関係で学習室に入れてくれていた。
「良かった。恭一君、川遊びできなくなるところだったのよ。とりあえず、お友達が貸してくれて仲良く遊んでるわ。」
「本当にごめんなさい。お詫びに夕食の手伝いしていくわ。」
思わぬ助っ人に妻は大喜びである。何しろ、四十人を超える大所帯である。熊五郎は、当時高校生になっていた甥達を動員して指導に当たっていた。しかし、所詮、高校生。中心になるのは事務を手伝っていた坂下と熊五郎夫婦の三人である。幸い、坂下は自衛隊時代の経験を生かし、飯炊きはプロであったが、他の炊事全般は総て妻が指揮していたのである。
「助かるわ。でも、旦那さんはいいの?」
「大丈夫よ。いつも仕事で遅いから。それに夕食の支度はしてあるから自分で食べてくれるわよ。」
「それじゃ悪いじゃない。」
「いいの。いいの。気にしないで。」
日も西に傾き、初日の夕食準備が始まった。五・六年生のモデル斑はすべて自分たちで準備をして夕食を作るのだが、三・四年生は米とぎ、火つけ、野菜の皮むきなど分担で行う。
「みんな、包丁を使うときは指を切らないように気をつけるのよ。」
「駄目、駄目、相手に包丁向けちゃ。」
妻の声が響く。一方、
「さてと。火をつけるにはどうすればいいかな。」
「新聞紙を丸めて、その上に薪を置く。」
「正解。」
「それじゃどんな薪かな。」
「細いやつ。」
「じゃ、細いのがないときは。」
「・・・・」
「こうして、周りに斧で傷を付ければいいんだ。」
「ふうん。よく知ってるね。」
坂下の周りには男子が群がって火つけの講習を受けている。熊五郎はモデル班と全体把握である。なるべく参加者達に経験を積ませるため指導者は最低限の助言と指導しかしない。炊事場は妻が働き蟻のようにあちらこちら歩き回って子ども達に助言している。藤野の母親はそんな光景を目の当たりにして引率者の大変さを身をもって体験したのであろう。夕食の片付けも終わり一段落したところで
「私、残るわ。」
思いもよらぬ発言に妻は
「だって、それじゃ、旦那さんに申し訳ないじゃない。」
済まなそうに答えた。
「いいのよ。どれだけ大変なのか解ったから、このままじゃ帰れないわ。」
「本当にいいの。」
「大丈夫。内の旦那、一人でご飯作るの慣れてるから。」
「あなた、どうする。藤野さん、こうおっしゃってるんだけど。」
「本当にいいんですか。私が怒られそうな気がする。」
「塾長、本当に大丈夫。心配しないで。」
こうして、彼女は協力して下さる保護者の第一号になったのである。その後は毎年、協力を申し出て下さる保護者が現れ、熊五郎達の負担は大いに軽減されることになった。61
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連載6

2012年07月27日 | 学習室
熊五郎と12名の仲間達


 二年生に進学した彼等は後輩も出来、少しずつ小学生らしくなって来た。五月になると畑の境に植えられている桑の枝が勢いよく伸びてくる。養蚕が盛んであった頃にはたくさんの桑畑があったが、今ではその名残りは境界線だけに留めている。『みつまた』『こうぞ』と言えば何の原料か、お解りになると思う。釜山町の近隣には紙漉き体験をできる和紙工房がたくさんある。娘が小学生の頃、夏休みに『一研究』という宿題が毎年出されていた。全員が何かを研究したり、体験したことをまとめて休み明けに発表するのである。これが親として一番の頭痛の種。一緒になって考えたり、ヒントを出したり、時には親自身も体験しなければならないこともある。ある日のこと、道路脇の桑の枝がじゃまになるので鋸で切っていたところ、歯に桑の皮が引っかかり、樹皮がきれいにむけて枝が丸裸になってしまった。その時、脳裏をかすめたのが紙漉工房で体験した和紙のことである。『同じ木の皮だからたぶん和紙が出来るに違いない。』と和紙工房で伺った話の記憶をたどりながら実験開始。見事、茶色がかった和紙を漉くことに成功し、早速、娘の一研究に採用することを決めた。その後、いろいろ自分なりに改良を加え白色の和紙が出来るようになり、小学二年生の創造教室に取り入れることになった。原料の採取から行う和紙漉き体験は我が学習室だけと自負している。体験した子ども達は、桑の皮をむきながら、本当にこれが紙に変身するのか半信半疑で必ずと言っていい程、毎年のように
「先生、本当に紙になるの?」
と質問してくる。乾燥して苛性ソーダを加えて煮込み、繊維質を取り出すまでは時間の関係や、劇薬を使用し危険な作業があるため学習室側で行うが、途中の行程は全てカメラに収め、桑の木の皮が変わっていく様子をパンフレットのようにまとめて渡している。そして、バケツの中に原形をとどめることなく漂白され、変わり果てた姿のまま水の中で綿のように浮かんでいる様子を見て納得してくれる。
 この日、十二名の仲間達は桑紙製作のための桑の木の皮をむく事になっていた。
「ようし。みんなで今日は桑の皮をむくから靴を履いて外に集合。」
「やった!」
歓声と共に子ども達は先を争う様に一斉に玄関に集合した。農家の許しを得て熊五郎は鋸で桑の枝を切る。切った枝は子ども達が次々と玄関先に運んでいく。みるみる間に桑の枝の山になった。
「それじゃ皮のむき方を教えるからよく見とくんだぞ。」
熊五郎は手頃な枝を一本つかみ、彼等の前で解りやすく実演して見せた。
「まず、余分な葉っぱを取ること。そして、元の方からこうやってむくときれいに剥がれるからね。それから、むいた枝はこの段ボール箱にまとめておくこと。」
説明を一通り受けた後、切り取られた桑の枝の周りに蟻のように群がって楽しそうに皮をむいている。すると関口が皮をむいた枝を見つめて
「てえ、ほんとによくむけらあ。むけた枝、先生みてえにツルッツルじゃん。」
と大きな声で叫んだ途端、その場は爆笑の渦となった。熊五郎も
「ほんとだ。俺の頭みたいだな。しっかり最後までむくんだぞ。」
とハッパをかける。子ども達は先を争って皮むきに挑戦した。翌週、漂白されて綿のように浮かんだ変わり果てた姿を見て、皆驚いている。
「先生。ほんとに先週むいたのがこんなになっちゃったの?」
森下が不思議そうに語りかけてきた。今回は静止画像では伝えられない木の皮が綿のようになるまでの課程を映像で見せようと息子がビデオ画像としてその作業を収めていた。
「不思議と思うだろう。これからビデオ見せるからみんな教室に入んな。」
全員が席に着くと熊五郎はビデオの電源を入れた。初めに皮むきの様子が映し出された。
「アッ。俺が映ってらあ。」
映し出される自分たちの姿を食い入るようにビデオを見ている。やがてビデオの映像は次々と桑の皮の変化していく様子が映し出された。煮詰め、攪拌し、綿のようになる光景を見て皆びっくりしている。
「すっげえ。ほんとにああなっちゃうんだ。」
ビデオを見終わり、いよいよ手洗い場に設けられた臨時の紙漉工房で生徒達は手作りの葉書作りの挑戦が始まった。自分たちの採った枝から作った和紙は見栄えは良くないが立派に葉書として使えた。翌週には乾燥された葉書に住所を書き、投函した。
「先生。俺ん家、次の日届いてたよ。」
「私の家も届いてた。お母さんビックリしてた。」
熊五郎が座った席の周りに群がって次々に自宅に届いた葉書のことを報告してきた。こうして和紙作りは大成功に終わった。いろいろな経験をすることは生徒達の成長の過程においてはとても大切なことである。58
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;連載5

2012年07月26日 | 学習室
熊五郎と12名の仲間達


 紅葉に色づき始めた秋、この日は、算数で数のしくみの授業が行われていた。
「みんなが使っている数ってどういう仕組みで作られているか解るかな。黒山さん。」
黒山はいつも笑顔を絶やさず、話し方もおっとりしている。周りの雰囲気をいつも和ませてくれるので男子生徒にも人気があった。
「・・・・・・・・・・。」
「そうだね。突然言われても解らないよね。それじゃヒントを出そう。みんな、お金って知ってるだろう。一円玉十個で十円玉一個と換えられるよね。じゃ、十円玉十個でなんと換えられる。」
「百円玉。」
「そうそう。百円玉十個では?」
「千円玉!」
「えっ。千円玉ってあったっけ。」
「あるよ。俺ん家の父ちゃん持ってるもん。」
越智がむきになって答えた。
「そっか。記念コインがあったよな。でも、普通は千円札を使うよね。みんなが使っている数は、下の位が十個集まると上の位に上がっていく仕組みになっているんだ。」
熊五郎は十進数の仕組みを貨幣に例えて話すのが常であった。身近なもので説明するほど生徒達の理解が早い。一通り数の仕組みを説明した後に、
「先生。高校時代、野球やってたんだろ。」
山上が突然話題を変えた。生徒達は脱線話を聞きたくて時々、授業とは関係ない話を振るようになっていた。山上は体が大きい割りに気の弱いところがある。しかし、何事にもこつこつ型で粘り強い性格である。小学校に入学してから街内のスポーツ少年団で野球をしていた。
「よく知ってたな。」
「だって、先週、先生が話してくれたよ。」
「そっか。忘れてた。」
ここから脱線が始まった。脱線話は高校時代や大学時代の内容が多かった。とりあえず進学校と呼ばれる高校にトップクラスで合格していたが根っからの勉強嫌い。一度も教科書を自宅に持ち帰ったことがない。当然成績は下がる一方で卒業時には三百番以上も成績は下がっていた。部活動は巻頭で述べたように恵まれた体格で一年生から補欠ではあったが背番号をもらいベンチ入りをしていた。三年生になるとエースとして活躍した。県下でも五指に入るスピードボールを投げ、いくつかの大学から視察に来たほどであった。
「俺は、球、速かったんだぞ。」
「どれくらい速かったの?」
「当時はスピードガンがなかったから解らないけど、高校で肘、大学で肩と膝を痛めて思いっきり投げることが出来なくなっても、息子が小学生だったから三十四~五歳位の頃だったかなあ。ゲームセンターで計ったら百二十八キロの数字が出てね、その日のベストワンになったことがあるんだ。だから高校時代は百三十キロは超えてたんじゃないかな。」
「へえ。本当の話?」
「嘘つく訳無いだろう。本当だよ。」
「すっげえ。」
「その代わり、練習もいっぱいしたぞ。俺、いつも弁当二つ、お母さんに作ってもらって学校に持っていったんだから。」
「その弁当いつ食うの?」
藤野が不思議そうに聞いた。彼はスポーツマンタイプで何をするにもそつなくこなした。また、長男のしっかり者でもあった。学校では先生の信頼が厚いらしく、クラス運営では中心的存在らしい。当然、学校では給食がある。だから彼の脳裏には弁当を二個持参することなど思いもつかないことだったのだ。
「まず一個目は、朝飯食べてないから授業が始まる前。みんな食休みって知ってるよな。食べた後はしっかり休まなければならないから一・二時間目はゆっくり休んで、三時間目が終わると二つ目を食べる。食べ終わったら食休みが必要だから四時間目はお昼寝。昼休みはグランド整備に行かなくちゃいけないから昼休みに弁当食べたこと無いんだ。そして、五・六時間目はクラブ活動のために体を休めておかなければならないから休憩。そしてクラブ活動。」
「先生。それじゃ勉強してねえじゃん。」
「とんでもない。睡眠学習をしてたんだよ。他の生徒に迷惑かけないようにいつも静かにしていたね。だから成績は下がったと思ったら次は沈んで、さらにその次は潜って、気がつけば底の方にいて水面が見えなくなっちゃってた。」
生徒の方も呆れているのか、軽蔑しているのか、はたまた感心しているのか複雑な顔をしている。最後に一言
「俺みたいになりたくなかったらきちんと勉強すること。」
二十分以上続いた脱線話にピリオドを打って再び学習に戻った。54
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