うどん 熊五郎のブログ

日替わりメニューの紹介や店での出来事など徒然なるままにつづりたいと思います。

連載始めます

2012年07月16日 | 学習室
 常連のお客さんは既にご存知の方が多いようですが、本業は学習室の運営に当たっています。
開業して早、35年の月日が経ち、寄居町でも最も古い学習塾の一つになりました。
親子で教えた生徒も50名を越えています。2008年から書きためた文章を整理して昨年4月にCD版で読めるようにまとめてみました。
題名は「熊五郎と12名の仲間達」。
いい加減なうどん屋といい加減な学習塾の内容を垣間見ることが出来ると思います。

熊五郎と12名の仲間達


はじめに
 学習塾とは因果な商売である。保護者は常に我が子の成績の向上を願い、塾側は生徒の成績を伸ばそうとあの手この手を使って学力向上に努めなければならない。必然的にそこには希薄な人間関係が結ばれ、生徒という人格は否定されがちになってしまう。果たして人生を生き抜くいろいろな知識に裏付けられた人間力とは何なのだろうか。学力だけで測ることが出来ない人間力を学習塾に求めることは酷なことかも知れない。それは、日本の高度成長期、一流の学力を持ち、一流の大学を卒業し、一流の企業に入るための生存競争に打ち勝つ手段として学習塾は世の中に認められてきた背景があるからである。文部科学省は、偏差値を廃止し、学習指導要領の内容を大幅に見直し、ゆとり教育の推進に力を注ぎ、また、従来の相対評価から絶対評価に変わり、結果、不透明な学力評価が目立ち、保護者の評価基準も曖昧になり、ゆとりとは名ばかりの学級崩壊が問題化され、家庭環境の変化、横社会の希薄さから家庭崩壊や地域の崩壊が危惧され始め、ゆとり教育の見直しがなされている。そんな世の中の変化にも頑固として人間関係を重視する人間力を求める学習塾があってもいいのではないだろうか。山間にある小さな町にそんな目的で作られた小さな学習塾がある。指導者が超二流だからこそ、大の勉強嫌いであったからこそ実現できた学習塾である。
 この物語は、設定として、小学一年生から中学三年生までの九年間、入れ替わることなく指導した十二名の生徒を中心に描いている。本編に綴られた内容は学習室三十年の歴史の中で起こった事件、エピソードなど実話を元に、会話などもなるべく忠実に再現したつもりでいるが、指導時期や事件発生の時期等のずれもあり、多少の脚色をして指導に関わった人物と十二名の仲間の触れ合いと成長の記録、その時々で指導者がどのように関わってきたかを描いたつもりでいる。
 学習室の卒業生の約七割は小学一年生から関わってきた生徒である。一概に九年間と言っても子ども達にとっては大変な努力を要することである。生活に同化しなければとても続くものではない。
『私たちは、子ども達と共に考え、共に学び、共に歩み続けようと思います』これが指導方針の根幹である。
相互教育を基本理念として子ども達と共に歩んできた、この指導方針が少しでもお伝えできたとしたら本書を著した私としても幸せに思う次第である。
 なお、本編に出てくる人名は総て仮名であり、支障のない範囲で地名等は実名で記載した。





第1章  新たなる出発
  熊五郎は職業柄、サラリーマン時代に多くの人物と関わってきた。その中に郵便局の保険勧誘に携わっていた方がいた。全国でも十指に入るほど優秀な方なのだが、就職後二年経っても三年経っても保険の勧誘をしようとしないのである。保険に加入するなら当然お世話になっているこの方と決めていた。一週間に一度、必ずと言っていいほどどこかでお会いするのだが、いっこうに勧誘の「か」の字もない。娘が生まれ、保険のことを真剣に考えていたので、その疑問をぶつけることにした。
「どうして保険の勧誘をされないんですか。私は保険に入ろうと思っているんですけど、いっこうに話をして頂けないので不思議に思っているんですよ。」
すると、
「岩野君。私はこんな仕事をしているから普通の人より知人が多いと思うよ。だけど五千人も知り合いはいない。もし、一万人の知り合いがいたとしよう。村松市の人口を知ってるかい。」
「ハイ。約十万人です。」
「そうだよ。残り九万人もいるんだよ。私の知り合いを訪ねれば、義理で入って下さる人もいるだろうけれど対象はたった一万人だよ。それより、九万人を対象にした方がいいと思わないかい。知り合いは、入ってくれる意志がある限り、相手から声をかけてくれるよ。それより、九万人を対象にすれば範囲も広がるし自分のためにもなる。」
ごく当たり前の事のように平然と言われた。自分に甘えることなく、より可能性を秘めた未知なる世界を対象としているからこそ全国でも有数な保険勧誘の実績を毎年続けてこられたのだと改めて納得した。同じく、一人の鳶職の方と知り合うことが出来た。夏は毎年、盆踊り大会の企画を依頼され、いつものように前日から櫓を組み立てるため屋外で汗を流していた。櫓を組み立てている時のことである。真夏の暑い日差しを受け、喉は渇くし、全身汗まみれである。ちょっと木陰で休もうと現場を離れたとたん
「コラ!岩野!何処に行くんじゃ。」
「ちょっと休ませて下さい。」
「馬鹿言ってんじゃねえ。休憩はまだ早えんだよ。」
と言いながらゴツンとゲンコ一発、熊五郎におみまいして再び櫓に上がっていった。
「ブツブツ言ってるより早く仕事切り上げろ。」
しかし、その方は我々には決して危険な作業をさせないのである。
「素人に手伝わせて怪我でもされちゃたまんねえ。」
というのが口癖であった。その後もいろいろなイベントを通して一緒に仕事をさせて頂く機会があり、人と形が解ってくると、その方は少々乱暴な口ぶりで接していても、とても面倒見がよく人情家であることがひしひしと伝わって来る。時には、熊五郎が仕事中に起こした失敗も自分のこととして処理したりもして下さった。娘が一歳になり、熊五郎が釜山の実家に戻ることになった時もトラックを借りて引っ越しを手伝って下さった。荷物の搬入も終わり、お礼を渡そうとしても
「おめえには、いつも世話になってるから受け取れねえ。」
と頑として聞き入れてもらえず、差し出した菓子折だけを受け取り、一緒に手伝ってくれた熊五郎の同僚を乗せて戻って行かれた。どんなに美辞麗句を並べても、中身に乏しい表面だけの接し方より、心のこもった接し方こそ人を動かす原動力になる事を学んだ。
 この他に、熊五郎の意識を根本的に改革して下さった大先輩が三人いる。その中の一人が、佐山氏である。熊五郎が初めて就職先を訪れたときのことである。詰め襟の学生服姿の熊五郎に一人の初老の男性が応対して下さった。物腰が柔らかく穏和で、学生である熊五郎に対してとても親切に接して下さった。就職後、一年以上にわたり、佐山氏の隣で事務を執ることになった。右も左も解らない社会人一年生も二~三ヶ月が過ぎ、事務にやっと慣れた頃、小学校の校長を経験されていたことを聞かされてびっくりした。何故なら、就職して間もない未熟者に命令的な口調で言葉をかけてこられたことが記憶の中に一度も無いのである。ものを頼む時には必ず「申し訳ないけれど」という言葉を必ず添えて下さる。また、時間があるとお茶を入れて下さり、若い頃、樺太でスキーに出会ったことなど、いろいろな思い出話の他、スキーの技術論など話して下さり、一人前の人物として私と接して下さった。
 もう一人は、同じく、小学校の校長を二十年以上にわたり経験された朝倉氏である。朝倉氏は常に目標を持つことを教えて下さった。その中で印象深い言葉として『終わりは始めなり。』『他人と比較する事なかれ。』という言葉がある。一つの仕事が終わった時には次にやるべき新しい仕事が待ち受けている。常に目標がなくなることはない。そして、今の自分の立場を理解せず人と比較してしまうと、どんな境遇になっても不満が出るものだという教えであった。
 三人目は、我々の媒酌をして下さった当時、取締役の要職に就かれていた香山氏である。就職間もない熊五郎にとっては雲の上の存在でしかなかった。髭を伸ばすと、
「お前はそんなに偉いのか。」
と叱られ、ある時には
「お前が電話に出ると俺のところまで聞こえる。他の社員に迷惑だからその声を何とかしなさい。」
と注意を受け、
「岩野君。」
と声をかけられるだけで、また何か失態をしでかしたのかなと思うくらい怖い存在であった。それが、我々の結婚を契機に最も信頼のおける上司として見方が変わったのだ。香山氏は、実によく熊五郎のことを観察して下さっていた。もちろん、全ての部下を実によく把握しておられた。そして、仕事上での責任もきちんと取って下さった。また、自分の言動に責任を持って行動されていた。だから、安心してついて行くことが出来た。ある時は厳しく、ある時は優しく、そして自分の信念を持ち、あらゆる人に平等で、常に目標を持ち、周囲に気を配り、一人ひとりの性格や行動などを的確に把握しながら常に前進することを三人三様の人生の生き方から学ばせて頂いた。それらの体験を基に相互教育という柱を作り学習室運営の構想を練った。
 まず初めに取り組んだのは会社設立のための設立登記の書類作成である。書類作成事務などは司法書士に依頼するのが普通なのだが、設立事務に詳しい従兄弟の指導を仰ぎながら二週間掛けて定款まで作り上げた。熊五郎の夢はどんどん膨らんでいった。最初に取り組んだことは立地条件の不便さを補うためにマイクロバス送迎を念頭に置いた大型免許の取得である。父の勤め先である自動車教習所で二週間という短期間で取得した。次に、山沿いに確保した予定地に必要な物はと言えば子ども達を受け入れる建物である。プレハブ業者に連絡を取ると翌日、担当者が早速やってきた。そこで部材だけを売って欲しいと交渉に入った。業者は、今まで素人にプレハブの部材だけを販売したことがない。過去に販売した時、部材だけ持って行かれて代金を貰えないことがあったと信用してくれなかった。しかし、地元で祖父が民生委員を永年勤めていたことや、父が警察署長を歴任していたことなど、その心配もない人物であることを理解してくれたのであろう、ようやく交渉に応じてくれた。数日後プレハブの部材が運ばれてきた。六坪のプレハブ塾舎をたった一人で組み立てる準備が始められた。先ず初めに山と積まれた部材の脇で基礎コンクリートの上にブロックを組み上げる作業から始まった。勿論、生コンなど買える余裕もなく、総て手作業である。プレハブは組み立て図など無いのが常識である。部材を見つめ、手探り状態の作業が続いた。基礎が固まってからどうにか三日かがりで上物が出来上がった。塾舎以外の付属の建物を作り、上下水道や電気配線などは高校時代の仲間に依頼した。
 だが、すぐに壁にぶつかったのである。生来の勉強嫌いが事もあろうに学習塾を開こうとしたのである。小学生の指導はともかくとしても、中学生の指導となると、その内容を学校のロッカーにそっくり置いてきてしまっていたことに気づいたのである。しかも大学は体育大学であり、教員資格を持っていると言っても保健体育の教諭免許である。それが、学習塾では主流の国語、数学(算数)を教えなければならないのである。とにかく一歩ずつ前進するのみである。年を越した二月。新聞折り込みで小学生のみの募集を始めた。熊五郎の意気込みと反して応募してきた小学生は十七名。妻と娘一人、食べることもままならない状態である。心は落ち込んでいた。父が転勤族であったため地元の中学校を卒業していない。それでも地元で知り合った数少ない知人、友人たちにお願いして回ればもう少し人数を増やせたかもしれない。結果的には、このことが生徒数を大きく伸ばすことになった。甘えることなくいろいろ工夫をせざるを得ない環境を作ることによって新しいアイデアも生まれ、現在の学習室の基礎が築けたと思っている。
 そして、その年の四月、たった十七名の子ども達との触れ合いが結婚までの短期間ではあったが教員生活を経験した妻と共に始められた。学習指導中心の学習塾業界にあって、マイクロバスを利用して遠足に出かけたり、キャンプをしたりと学習以外の取り組みが功を奏したのか徐々に生徒数も増え、年末には三十名を超える生徒が在籍していた。三学期も半ばを過ぎ、六年生には別れの時が近づいて来た。二月下旬、彼等への指導も数週間を残すのみとなり一抹の寂しさが熊五郎の胸に押し寄せていたある日、一人が口を開いた。
「先生。何でこの塾、中学生やんねえの。あれば続けてえんだけどな。」
他の子ども達も同意見である。しかし、指導する学力に自信がない。
「中学生の授業、学校に置いて来ちゃったから駄目なんだ。だから、他の塾へ行ってもらいたいんだ。」
「やだね。他の塾なら行かねえ。先生、中学部作ってよ。」
その言葉に熊五郎はある条件を出した。
「それじゃな、高校入試の過去問を五年間、総てやってみて百五十点以上(五科目で二百点満点)だったら中学部作ってもいい。だけど、俺、さっき言った通り、中学生の授業内容を教えられるかどうか自信がない。もし授業中、解らない箇所が出てきたら、みんなが学校の先生に聞いて俺に教えてくれるなら一緒にやっていこう。」
何とも指導者としてはあるまじき呆れ果てる言動である。それでも子ども達は大喜びである。早速、市販の過去問集を購入し、五年分をやってみた。現役を離れて十年以上の歳月が過ぎている。国語や公民などは年齢と共に知識が付いてくるものだか、他の科目ともなれば、日常生活では使うことがない内容も少なくない。熊五郎はあまり自身がなかった。しかし、結果は最高点が一八一、最低点が奇しくもちょうど百五十点であった。彼等との約束をクリアした以上は約束を守らなければならない。翌週、生徒達の前で言った。
「俺、やってみたら百五十点をクリアしたから、約束通り中学部立ち上げることにしたぞ。」
この言葉に子ども達の顔に安堵の表情がうかがえた。こうして四人の中学生が生まれたのである。当然、三学年を一度に立ち上げることは不可能であった。四人の生徒達と共に、三年間を要して中学部を立ち上げたのである。
 思い起こせば、熊五郎が高校受験の際、担任が母との面談の席上で
「岩野君は数学と英語を人並みに取れば、県内の公立は総て受かるだけの点を取れるから頑張るように伝えて下さい。そうすれば受験校にトップで入れるかも知れません。」
と担任の会話の内容を母から伝え聞いた途端、根っからの勉強嫌いの熊五郎は渡りに船とばかり、その忠告を守らず受験勉強というものを一切しなかった。逆に入試直前、遊び仲間とスケートに行って一日中遊んだあげく
「今日、こんだけ滑ったから入試は滑りようが無いよな。」
と軽口をたたいていた有様であった。だからこそ、自分を信じて中学まで続けてくれた事に応えてやりたい一心で、今までの人生で経験したことがないほど勉強をした。そして、三年後、初めて送り出す卒業生の一人が県北の進学校に入学したのである。そのことが大きな自信となった。こうして小学一年生から中学三年生まで一貫した教育体制が整った。かといって一般の学習塾のような成績向上を目指したのではない。理想とする教育は、相互教育という大前提があった。【教える者は教えられる者からも教育を受ける】と言う考え方である。パンフレットには【私たちは、子供達と共に学び、共に考え、共に歩み続けようと思います】という言葉が掲げられている。学校現場では呼び捨てにする教諭が少なくない。それが上下関係をもたらす元凶と思っていた。無理に上下関係を結ばせるのではなく、お互いの信頼関係から結ばれる上下関係こそ理想と考えていたのである。だから愛称で呼ぶことはあっても決して呼び捨てにすることはなかった。幼少期より遊びに明け暮れ、宿題などやったことのない熊五郎は、その経験を生かし一風変わった学習塾をその後も展開していったのである。
 開設四年目の新学期を前に、
「ねえ、そろそろスリッパでも揃えたら。」
妻が提案した。当時、学習室にはスリッパは用意されていなかったのである。皆、自分の上履きを持参していたのである。
「そうだな。そろそろスリッパぐらい揃えた方がいいな。」
名入れで揃えたいと妻の希望を取り入れ、とりあえず五十足揃えることになった。街内の業者に発注して数週間後、待望の品物が届いた。二人で梱包をほどきながら
「やっぱり名入れのスリッパはいいな。」
「そうね。やっと揃ったわね。」
二人ともニコニコ顔で真新しいスリッパを手に取って眺めていた。ところがスリッパを数えていた妻が
「あなた! スリッパの数が多いのよ。確か五十足だったわよね。」
「そうだよ。どうせ、お前はおっちょこちょいだから数え間違えだろう。」
妻は独身時代、鰺フライを揚げるために買い物を頼まれ、既に開いてあり楽だろうと鰺の干物を買って意気揚々と帰宅した程のおっちょこちょいである。熊五郎はどうせ数え間違いだろうとしか思っていなかった。
「だったら数えてよ。」
妻に促されて数え始めると確かにスリッパの数が多いのだ。納得顔の私に向かって
「黙ってたら申し訳ないから電話した方がいいわね。」
妻の助言を素直に受け止め
「いいよ、ついでがあるから直接行って話してくる。」
話はまとまり、早速、業者に訳を話して余分に納品された分の代金を支払ってきた。業者も数間違えを平身低頭で謝って下さった。少々良いことをしたような気分で足取りも軽く学習室に戻ると妻が熊五郎の顔を見るなり笑い始めた。
「どうした、何かあった?」
すると妻は笑いながら
「私たち馬鹿みたい。さっきの原因が分かったの。納品されたスリッパの数は間違ってなかったわ。あなたが行った後、気付いて数え直したらちゃんと五十足だったわよ。」
「そんなことないだろう。さっき二人で数えて確認したんだから。」
「だって、スリッパは二つで一足でしょ。」
「・・・・・・・・。」
そうなのである。それに気付かず五十足が百足になってしまったのだ。業者に事の顛末を話し、謝りに出向いた事は言うまでもない。業者も笑いながら、もらい過ぎたお金はお返ししますと申し出て下さったが、失態を演じたのは我々である。どうせ支払ったお金、返してもらうのもどことなく恥ずかしく、消耗品ですぐまた注文することになるだろうと改めて五十足の注文をすることになった。
 学習室は、小学三年生までを妻が、四年生以上と中学生は熊五郎が指導を担当していた。二人とも、スリッパ事件のようにそそっかしい面がある。そんな指導が受け入れられたのであろう。開設五年目には会員数が百名を超え、順風満帆に時が過ぎていった。光陰矢の如しとはよく言ったものでる。アッと言う間に時は流れ、気がつけば開設から十年が過ぎようとしていた。その年の中学三年生は優秀な面々が揃っていた。業者テストの十名の平均偏差値は六〇を超え、一般の学習塾では進学コースに当たる生徒が集まっていたのである。二学期に入ると数学、英語を除き、理科、社会科の受験指導が始まり、国語を除く四教科体制に変わる。この優秀な学年をより高みを目指して指導するにはどうしたらよいかと模索していた。そこで考えついたのが本棚に積まれた過去十五年間の県立高校入試問題過去問集である。既に出題された問題ではあるが難易度などを実感させるためには格好の教材であった。しかし、難点もあった。購入年度や出版社によって活字の大きさが違うのである。だが、こうと決めたら猪突猛進。単細胞生物の特徴である。コピーをした原本を教科別、分野別に切り貼りして一冊の原本を作った。そして、人数分をコピーして生徒達に渡した。生徒達にも難易度が伝わり、より真剣に取り組む姿が一段と増し、得意の統計分野で出題傾向もある程度把握できたのである。そして、八名がそれぞれの学区のトップ校に入学を果たしてくれたのである。これを機にどうせなら独自色を出そうと活字の大きさを統一させるべくコンピューターでの問題集作りへ挑戦が始まったのである。
 その二年後、年齢は四十を迎えていた。そして、今まで二人三脚で学習室の指導に当たっていた妻は家事に専念することになり、遠足やキャンプなど人手を必要とする行事以外は熊五郎が小学生から中学生までを一人で担当することになった。今まで以上に重圧がのしかかってきた。さらに、この年は娘の高校入試の年でもあった。中学からは熊五郎が家庭での進路責任者である。初めての三者面談で担任に娘の現状と進学希望、そして、その可能性を正直に娘の前で話した。それ以降、三者面談が無くなった。おそらく、担任は、職業がら娘の現状も把握しているのでその必要がないと感じたのであろう。だが、これは重大な進路指導放棄である。さらに担任からはランクを下げて受験するように再三、妻に電話を掛けてきた。年度初めの三者面談以降、何の進路指導もしてもらえなかったことを感じ取ったのか、娘は頑なに志望校を変更することを拒否した。妻は心配の余りいろいろと言ってくる。熊五郎は娘の意思を尊重した。目標を持ったときに最も学力が伸びることを知っていたからだ。十二月に入ると娘と離れに移り本格的な受験勉強が始められた。妻は、夜食を届ける役目に代わった。仕事が終わると母屋に顔を出し、すぐに娘の居る離れに向かう。しかし、一向に指導する気配はない。熊五郎は娘の隣で、未完成の過去問集作りの作業をしていたのだ。娘は、一向に受験指導をしようとしない父親を見ていらだっていたに違いない。
「お父さん。ただ隣にいるだけなの?」
と話しかけてきた。
「その通り。受験は、お父さんがするんじゃない。お前だろう。人を当てにしたら駄目。お父さんが居るだけで安心するんじゃないか。」
「そりゃ、そうだけど。少しぐらい教えてくれたっていいんじゃない。」
「教えることは簡単だけど、一緒に解いてしまえば、いつの間にか理解したと錯覚して大切なことを見落としてしまっては本当の学力がつかない。先ずは自分でどこまで理解しているか把握できない限り指導はしない。」
「それじゃここにいる意味無いじゃない。」
「お前、さっき言ったろう。お父さんが居るだけで安心するって。お父さんはお前の精神安定剤になっていればいい。」
こんな会話をしながら二ヶ月が過ぎた。娘はその間、一度も指導を受けることなく見事志望校に合格を果たした。
 娘の受験勉強に付き合いながら、既に完成していた数学と歴史的分野に加え、英語が完成した。その後、公民的分野、地理的分野の社会すべてを完成させ、翌年には理科が完成した。残るは国語のみである。熊五郎のタイプ能力では、既に二十年近くたまった膨大な国語の問題を完成することは諦めていた。国語を完成させるきっかけは、娘の高校生時代の家庭教師、鈴元の力であった。鈴元はその作業を買って出てくれ、未完成の国語を二ヶ月ほどで打ち上げてしまった。こうして足かけ三年の歳月を経て五教科全てを完成させることが出来たのだった。活字の大きさも統一され、学習室独自の入試対策問題集が出来上がったのである。今では、過去三十年以上にわたり出題された県立高校の入試問題が教科別、分野別に分けられ、総ページ数が二千ページを超える膨大な問題がコンピューターに納められている。理科、社会は三年生に進級したときから使い始め、数学、英語、国語は主に二学期から使い始めている。過去問の利点は、実際に出題された問題なので生徒達も、より真剣に取り組むこと、そして、入試の難易度が実感できることである。さらに、入試問題には類題が多く、過去に全く同じ問題が出題されたことも数回あり、当日の点数アップに直結していたことである。自作問題集の成果は受験結果にも表れた。学習室開設以来、良い結果を得られなかった生徒は三名。五教科の問題集が完成し、自前のテキストで本格的な受験指導が出来るようになってからは、毎年、冒険組がいる中で一度も不合格者を出していない。
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