デジカメぶらりぶらり

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脇役

2010-12-12 08:20:56 | Weblog
中国・広州アジア大会が終わったが、領土を巡る険悪な空気は感じられず、日本勢にも結構声援があったという。

もっとも、お山の大将を気取る国だから、応援の主役は中国で、よその国は引き立て役。脇役の分際で日本が優勝すると、観客は途端に不機嫌になる始末。

露骨なひいきもあってか、メダル争いで日本は振るわなかった。サッカーW杯誘致合戦も、金持ち王国の引き立て役で終わった。

大相撲は外国人力士の天下が続き、時節、日本人が脇役として顔を出す。主役を生かす脇役も大事だから、声援も受けるし、重んじられる。

大相撲の大関は、2場所続けて負け越さないと地位は失わない。一度負け越すと「カド番」となり、奮起を促される。それで白星を重ねて主役になる道があり、カド番の重圧に耐えられずに地位を失う脇役もいる。

低い支持率、失言、問責決議と黒星を重ねても、カド番のない世界がある。だから、奮起も重圧の気配も伝わらない。

スポーツ界の不振まで政治の責任ではないが、あの人たちが列島の闘志をかき立てているかどうかは、すこぶる怪しい。

故郷

2010-12-10 06:55:47 | Weblog
「私がはじめて故郷を目にしたのは、汽車に乗ったときである」。青森に生まれた詩人、寺山修司の言葉である。

夢を追って夜行列車に乗り込んだ青年は、車窓から遠ざかる景色に、初めて自分の故郷を意識したのである。

「おいらの故郷は汽車の中」とも詠んだ。東京と青森は遠かった。「望郷の果てへゆく汽車葱(ねぎ)青し」(修司)。岩手生まれの石川啄木は「ふるさとのなまりなつかし」と上野駅の人混みで歌った。

望郷の風景で表現する詩人が東北には多い。東京へのあこがれと故郷を捨てる切なさが、長くて時間の掛る東北本線に象徴されていたに違いない。

新幹線が青森まで開通し3時間20分で東京とつながった。この時間では、車窓に消える故郷を心に刻む余裕も感傷的になる暇もない。

かつて夢と現実をつないだ鉄道は、今や朝に出て、夜に帰る気軽な「足」になった。高速交通網の整備は、時間の感覚ばかりか土地と人間の関係を変えていく。

秋ふかし

2010-12-08 06:58:02 | Weblog
「秋ふかし隣はなにをする人ぞ」という俳句がある。そんな風情を楽しむ時節である、が、風情に縁のない身には、なぜ秋が深まると隣が気になるのか分からない。

古池にカエルが飛び込む句を学校で教わった、とずっとクビをかしげている。風流の道は険しそうだが、意外な人がたしなんでいる。

信州・小諸に「寅さん」渥美清さんの記念碑館があり、そこで渥美さんの句がある。「餅を焼くしょうゆうの匂い人恋し」「お遍路が一列に行く虹の中」。寅さんは詩人である。

俳句を愛する政治家も以前は多かったという。「したたかといわれて久し栗をむく」は、中曽根康弘元首相の句。汚職事件に巻き込まれた藤波孝生元官房長官には、「控え目に生くる幸せ根深汁」の句がある。

入り組んだ心のヒダがのぞけそうで、政治家に俳句は案外似合う、今もそんな人物がいるのだろうか。一票の格差は問題だが、選ばれた議員諸氏はむしろ格差が望ましい。

昨今は、向いても同じようなクリが顔を出す。身誤っているのなら幸いである。

数字

2010-12-06 08:12:33 | Weblog
領海を「0.001ミリ」でも侵略すれば躊躇(ちゅうちょ)なく軍事的打撃を加えると叫んだのは、韓国領土を砲撃した北朝鮮である。

これに対し韓国政府は「挑発には応分の対価を」と抑制をきかせたが、軍は2兵士の告別式で「100倍、1000倍」にして返すと憤りをあらわにした。

北朝鮮に非があるのは言うまでもないが、極端な数字が飛び交うのは危険なことである。日本にも登場した。管首相の「支持率が1%になっても辞めない」の発言である。意図と違って伝わったと釈明したが、とんでもない数字である。

あり得ない話だが、今の管首相ならあり得ると。国民が思うところに問題がある。極端な数字が飛び出す背景には、それを受け入れる社会の興奮状態がある。戦中戦後に「一億一心」や「一億総懺悔(ざんげ)」の空疎な数字がスローガンになった苦い時代がある。大言壮語を増幅させる異様な数字は、社会の危険信号だ。

首相の1%発言は覚悟を示す言葉であって「数字に意味はない」と官邸筋は打ち消しに躍起だった。確かに数字に意味はない。が、意図はある。極端な数字は末期現象の象徴とも言えまいか。

雪雲

2010-12-04 07:36:14 | Weblog
冬の雷がやってきた。すぐに雪。西高東低の天気図との付き合いが始まる。雪雲の空を「鉛色」と言い表す。

雪国の専売特許だろう。時候のあいさつにそう書いて、遊びにおいで、と知人に頼りを出したら「そんな空は敬遠したい」と言われたことがある。

たしかに「鉛色」は重苦しい気分にさせる。薄いねずみ色を指す別の言葉がないものか。辞書を開いたら、鉛色の仲間がたくさん出てきた。

銀鼠(ぎんねずみ)、絹鼠(きぬねずみ)、薄墨(うすずみ)色、源氏鼠(げんじねずみ)という風雅な色もある。わが先人たちは言葉遣いの達人である。

裏日本の冬空も、重苦しい鉛色だけではない。雲の切れ間から薄日が差したり、西から晴れ間が広がってくれば、趣は変わる。みんなまとめて鉛色では、いかにも芸がない。

国境のトンネルを抜けると雪国、とよその人はいう。私たちはトンネルの先に晴れの国を見る。時にうらやましいが、冬の関東平野は何とも陰影に乏しく、雲の色も単調に映る。

裏日本の冬空には、美しいねずみ色の名が似合いそうである。使わないのはもったいない。銀鼠の空がもたらす恵み。そう褒めてやると、カニもブリも一段と美味を増しそうである。

トイレ

2010-12-02 07:43:55 | Weblog
大みそか恒例の紅白歌合戦、ことしは「トイレの神様」を歌った植村花菜さんにスポットが当たっている。

トイレを美しく掃除する子はべっぴんさんになると、おばあちゃんに言われて育った女の子が、その祖母を見送る歌である。

年寄りは涙ぐみ、若い核家族世代も「おばあちゃんと」と「トイレの神様」の詞が新鮮に聞こえて人気が広がった、また「便所を美しくする娘は、美しい子どもを産むといった母親を思いだす」と歌った人もいる。

あるいは「便所の神様」を思い浮かべた年配もいたに違いない。便所に夫婦一対の小さな泥人形を埋めた伝承である。北陸には、大みそかに便所に灯明をともす伝承もあった。

どれも、一番汚れやすい所を一番きれいにし、他人に見られない所も磨いておく大事さを言っている。素手で洗う。心が洗われる。「静かなうれしい気持ち」と記した戦後の労働者詩人と同じ心が平成の少女に、祖母から孫へと継がれている。それがうれしい。