こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2015年12月9日 水曜日 「ニューウェイヴ・カセットシリーズ ① 1981年11月10日 sideB」

2015-12-10 00:46:47 | 音楽帳

先般のっけたカセットテープのB面。筆舌にしがたい1981年の冬の刻印。

受験勉強と称しては、机に向かって何をしているかと言えば、FM雑誌に蛍光ペンでアンダーラインを引き、エアチェックにふける。火曜日は、教授のサウンドストリート~ふたりの部屋~そしてクロスオーバーイレブンというささやかな楽しみの夜。そのとある11月深夜に録音したものがB面にあたる。

しんしんと冷える冬の夜には、密閉型のヘッドフォンから漏れる音以外は何もない。
周囲が自然に囲まれた、引っ越し後の孤独な田舎生活の夜は、東京下町には味わうことなかった深さと戸惑い。誰も近くに知り合いがいない厳しさだった。孤立無援の戦い。

時折鉄橋を渡っていく電車の、ガタゴトする彼方の音がやってくる。
それはそれまで、三ノ輪の夜に南千住引き込み線から聞こえる「ガチャ」「ポポーッ」という貨物列車の音の優しい響きでは無かった。

とてつもなくしんしんと冷える部屋に、暖房器具は足元に置いた小さい電気ストーブ1個。
気遣ったのは親の方だったが、ジャパンの「My New Career」に感化されたのも含め、あえてじぶんを苦境に立たせるようにして”それでお前さんはどうするんだい”という自問自答を自らに課していた。マゾといえばマゾそのもの。自らを律するために、放っておけばありつける様々な恩恵・支給を拒否した。

渋谷(陽一)さんがラジオで言っていた「わたしは痛み止めを飲まない主義で・・・」に影響を受けるのはその後だが、それまで親や家庭状況に流されてきたものを捨て去り、すべての選択肢を自らで行わねばならない、と思った1981年であり、そんな初めての冬だった。
それでも状況は一介のコドモごときを許すわけがなく、じぶんを呑み込んでいくのだが、そう目指した夜の連なりだった。

クロスオーバーイレブンのジングルが終わり、始まった1曲目が初めて出会ったアイスハウス。
その後長い付き合いになっていくが、このとき彼らがオーストラリアの人と知らず”ブリティッシュ”という認識でいた。

■Icehouse 「Icehouse」1981■
どういう組み立てだったのか?当時、不思議とクロスオーバーイレブンは火曜日にニューウェイヴの新譜が掛かることが多かった。教授のラジオとリンクさせたのか否かは未だに不明である。



みうらじゅんさんが夜な夜な、自室でフォークソングを作って・それを録音していたことが、結果「仮性フォーク」として紹介されるのだが、現れ方は違えどおんなじような想いがこのカセットテープにはある。
DT仲間の伊集院光さんにはそれを捉えた言葉があり、それを解釈して揶揄する場面を多く視る。
しかし、悩める少年としては極めてまっとうな在り方でなかっただろうか?。

ヒトはみんなそんな痛い夜を超えて生きていくんだと思う。それを忘れてはならない。
コメント
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