小さい頃の土曜日夜8時は、ドリフターズの「8時だよ、全員集合」を見ていた。
テレビのチャンネル権が家父長にあったボクの家にあっては、珍しいことだった。
どーいうわけか、「全員集合」は許されていた。
「全員集合」が形骸化してしまい、見なくなったのは80年代の訪れと共にだった。
その後、番組は終わる。
元々カトちゃんと志村けんさんが人気がある中、5人の仲の悪さは誰もが分かった。
ドリフがほぼ解散状態になった後、
カトちゃんと志村けんさん2人で、土曜日夜8時のゴールデンタイムに番組をやっていた時期があったっけ。
そこで付き添いの合いの手を入れていたのが、TBS入社新人の渡辺真理さんだった。
さらに時代が進むと、元々独自の世界があった志村さんを単独の番組作りに押し上げる。
最初は、日中の時間帯だったが、次第に深夜の枠にシフトしていく。
今思えば、だが、元々、下品さ(悪い言い方かもしれないが)が混じったコントには、日中より深夜枠の方が向いていたのかもしれない。
***
ボクが特に好きだった時期は、滅茶苦茶かわいい石野陽子さんとの息の合ったコンビネーションの頃、そして、これまたかわいい優香ちゃんとの最近の息の合ったシリーズ。
「息が合った」と表現したが、それもそのはず、石野陽子さんと志村さんがコンビを組んでいた頃、2人は同棲生活をしていた。
志村けん独特の特徴として挙げられるのが、孤独であり・1人になると寡黙でシャイ。
しかし、女性にとにかくモテる。
しかも、みんな若い綺麗な女性。
魅力のある人なのだろう。
最近では「みひろ」という女性に「志村さんと結婚したい」と言われていたが。
ところがどっこい、志村けんという人は、ネコ的。
女性と付き合ったとしても、個であるほうへと最終的に向かってしまう。
***
YOUTUBEのおかげで、深夜見られなかった彼の番組をたくさん見て、DVDに焼いてきた。
2008年の志村社長の小さな運送会社のお話し・・・「志村運送物語」。
その後のお団子屋さんのシリーズ、ラーメン屋さん「志村軒」シリーズ。
ほのぼのとしていて、みんなが忘れてしまった生活の匂いがココにはあって、ほっとして癒される。
会社だろうが、お店だろうが、そこには他人同士が集まりながらも「一家」と呼べる家族的世界が広がっている。
癒しの源の1つはそこにある。
優香ちゃんとの相性の良さもあるが、志村一家として番組を固める周囲のメンバーも味があって素晴らしい。
特に、上島竜兵さんの芸には「お見事!」と言いたくなる。
■「だんごのしむら屋」より■
■ラーメン屋さん「志村軒」より■
マドンナの登場の仕方は、極めて恣意的だった。
80年代のマリリン・モンロー、という風をよそおい、
自分で自分を「マドンナ」と名乗り、
性的要素いっぱいの姿でありながら「まるでヴァージンのように(Like a Virgin)」と真逆なものをあえてぶつけて歌う。
そのバックには、そうあやつるプロデューサーが当然居た訳だが。
いわゆる「イロモノ」という匂いがぷんぷんと漂い、自分は拒否感を覚えた。
当時「ベストヒットUSA」で盛んにマドンナが出ていた。
***
そんなマドンナに興味を覚えたのは、死を越えながらも廃人状態だった大学時代。
1987年。
音楽体験が少なかった1987→1990年。
既に密なる80年代が終焉をむかえようとしていた1986年6月のサード・アルバム。
出会ったのは、高校で同級生で家が近かった友人宅。
手打ちうどんのお店をやっていた家に訪れ、彼の部屋で雑談と悩み相談をしていた。
彼がバックでかけてくれたのが、そのサード・アルバム「トゥルー・ブルー」。
二重構造を抱えながら進んだ80年代が終わるのを示唆するかのように、マドンナはここで、それまであった「マドンナ」という仮面を剥いで(先日のEPOさんのように)素(す)の顔で曲を創り・歌っていた。
タイトル「トゥルー・ブルー」そのままのように。
繰り返しかかるCDプレイヤーから流れるアルバムの新鮮さにトリコになり、CDプレイヤーを持たない自分は、友人にカセットテープに録音してもらった。
そのカセットテープを持って、数少ない安心できる夜の暗闇のとある道を歩いて帰った記憶。
亡霊のような死相のただよう姿で。
***
たんなる「イロモノ」ではない彼女が秘めていたアーチスト・パワーは、ここから始まったように思う。
その後、周囲のスタッフは様々な変化や着色をするものの、逆にそれが彼女の存在感を浮き立たせる。
キャンキャンとMTVで踊り・アイドルちっくだった、あやつり人形としての姿とは程遠い・稀有な女性ミュージシャンとしてのスタイルを確立する。
■Madonna 「Live To Tell」■
個人的には想い出深い1998年の作品「レイ・オブ・ライト」。
ウィリアム・オービットがプロデュースしたものだが、これを聴いて、プリンスが命懸けで、起きている時間は全て音楽創りに割き続けた作品のエネルギーに近い感覚を感じた。
それは「何かを永続的に表現し得ないで、死んでたまるか」という強固な意志。
***
PS:「エネルギー」というと、ドラムを猛烈にバシンバシンと叩いたり・ギターをめちゃくちゃにかき鳴らしたり・奇妙な音を鳴らせばいいんだな・・・
そう勘違いしているヤカラが一部居るが、そういう方々には小津さんの映画「東京物語」やアラーキーの写真集やイーノの音楽を、ぜひオススメしたい。
エネルギーとは静寂の中にあるチカラを理解すること。
80年代のマリリン・モンロー、という風をよそおい、
自分で自分を「マドンナ」と名乗り、
性的要素いっぱいの姿でありながら「まるでヴァージンのように(Like a Virgin)」と真逆なものをあえてぶつけて歌う。
そのバックには、そうあやつるプロデューサーが当然居た訳だが。
いわゆる「イロモノ」という匂いがぷんぷんと漂い、自分は拒否感を覚えた。
当時「ベストヒットUSA」で盛んにマドンナが出ていた。
***
そんなマドンナに興味を覚えたのは、死を越えながらも廃人状態だった大学時代。
1987年。
音楽体験が少なかった1987→1990年。
既に密なる80年代が終焉をむかえようとしていた1986年6月のサード・アルバム。
出会ったのは、高校で同級生で家が近かった友人宅。
手打ちうどんのお店をやっていた家に訪れ、彼の部屋で雑談と悩み相談をしていた。
彼がバックでかけてくれたのが、そのサード・アルバム「トゥルー・ブルー」。
二重構造を抱えながら進んだ80年代が終わるのを示唆するかのように、マドンナはここで、それまであった「マドンナ」という仮面を剥いで(先日のEPOさんのように)素(す)の顔で曲を創り・歌っていた。
タイトル「トゥルー・ブルー」そのままのように。
繰り返しかかるCDプレイヤーから流れるアルバムの新鮮さにトリコになり、CDプレイヤーを持たない自分は、友人にカセットテープに録音してもらった。
そのカセットテープを持って、数少ない安心できる夜の暗闇のとある道を歩いて帰った記憶。
亡霊のような死相のただよう姿で。
***
たんなる「イロモノ」ではない彼女が秘めていたアーチスト・パワーは、ここから始まったように思う。
その後、周囲のスタッフは様々な変化や着色をするものの、逆にそれが彼女の存在感を浮き立たせる。
キャンキャンとMTVで踊り・アイドルちっくだった、あやつり人形としての姿とは程遠い・稀有な女性ミュージシャンとしてのスタイルを確立する。
■Madonna 「Live To Tell」■
個人的には想い出深い1998年の作品「レイ・オブ・ライト」。
ウィリアム・オービットがプロデュースしたものだが、これを聴いて、プリンスが命懸けで、起きている時間は全て音楽創りに割き続けた作品のエネルギーに近い感覚を感じた。
それは「何かを永続的に表現し得ないで、死んでたまるか」という強固な意志。
***
PS:「エネルギー」というと、ドラムを猛烈にバシンバシンと叩いたり・ギターをめちゃくちゃにかき鳴らしたり・奇妙な音を鳴らせばいいんだな・・・
そう勘違いしているヤカラが一部居るが、そういう方々には小津さんの映画「東京物語」やアラーキーの写真集やイーノの音楽を、ぜひオススメしたい。
エネルギーとは静寂の中にあるチカラを理解すること。
金曜日は、午後定期検査のために通院・採血・・・etc。
さんざん歩いて帰ると、バタンキュー。エネルギーはマイナス10パーセント。
暗闇で静かに横になり。
起きると夜明けの5:30.
窓から写真を数枚シャッターを切る。
睡眠薬を飲まないで寝たので、調子悪い。
「睡眠は量ではなく・質」と言われるが、起きても眼精疲労がひどく・キツイ。
それでも起きてむかえ酒でチューハイを飲んでいたら、若干フツーの感覚を取り戻しつつある。
***
スティーヴィー・ワンダーの80年代の仕事は、あまり好きにはなれない。
素晴らしいミュージシャンだが。
しかし、そんな中でも「オーヴァージョイド」は素晴らしい。
この曲を聴きながら、生きて迎えられた週末/終末に、感謝と共に、今週撮影した・瞬間瞬間の断面を。。。。
■Stevie wonder 「OverJoyed」■
コチャコさんは、さくりんさん家のママさんのように、ゴミだけの部屋に移動。
どうやら、今はココが良いらしい。
原節子さんの昭和24年映画「お嬢さん乾杯」を夜に見る。
2012年現代の画像処理世界でしか成立しない方々とは180度反対側。
何も加工しない映像で、こんな美しい人が居るのは驚異でしかない。
「永遠の処女」と呼ばれた原さんの表情・たたずまい・しぐさに、ただひたすら見とれて、映像の中に入り込んでしまう。
季節はまだ夏。
こんな蒸し暑い秋なんかあるものか。
つくばで仕事の際に行った和食のお店。
素材のどれもがちゃんとしたもので、調味料でごまかした食材三昧の中。
このお料理には、良質素材自体に味わいがあり、1000円とは安すぎる。
大ごちそう。
たまには、量を多めに食べるのも良い。
つくばの夕闇。
のらくろちゃんは、かわいく元気で居ます。
大好きな鳥・カモさんの箸置き。
夏のうろこ雲。
工事現場のハタが風になびいている。
さんざん歩いて帰ると、バタンキュー。エネルギーはマイナス10パーセント。
暗闇で静かに横になり。
起きると夜明けの5:30.
窓から写真を数枚シャッターを切る。
睡眠薬を飲まないで寝たので、調子悪い。
「睡眠は量ではなく・質」と言われるが、起きても眼精疲労がひどく・キツイ。
それでも起きてむかえ酒でチューハイを飲んでいたら、若干フツーの感覚を取り戻しつつある。
***
スティーヴィー・ワンダーの80年代の仕事は、あまり好きにはなれない。
素晴らしいミュージシャンだが。
しかし、そんな中でも「オーヴァージョイド」は素晴らしい。
この曲を聴きながら、生きて迎えられた週末/終末に、感謝と共に、今週撮影した・瞬間瞬間の断面を。。。。
■Stevie wonder 「OverJoyed」■
コチャコさんは、さくりんさん家のママさんのように、ゴミだけの部屋に移動。
どうやら、今はココが良いらしい。
原節子さんの昭和24年映画「お嬢さん乾杯」を夜に見る。
2012年現代の画像処理世界でしか成立しない方々とは180度反対側。
何も加工しない映像で、こんな美しい人が居るのは驚異でしかない。
「永遠の処女」と呼ばれた原さんの表情・たたずまい・しぐさに、ただひたすら見とれて、映像の中に入り込んでしまう。
季節はまだ夏。
こんな蒸し暑い秋なんかあるものか。
つくばで仕事の際に行った和食のお店。
素材のどれもがちゃんとしたもので、調味料でごまかした食材三昧の中。
このお料理には、良質素材自体に味わいがあり、1000円とは安すぎる。
大ごちそう。
たまには、量を多めに食べるのも良い。
つくばの夕闇。
のらくろちゃんは、かわいく元気で居ます。
大好きな鳥・カモさんの箸置き。
夏のうろこ雲。
工事現場のハタが風になびいている。
1983年の夏頃だった。
「高橋幸宏のオールナイトニッポン」で、ロンドンに居るトシ矢嶋さんと電話で情報交換をした後。
幸宏宛にトシさんが送ってきた新着レコードから、ハワード・ジョーンズの「ニュー・ソング」(シングル)が掛かった。
正直この時点で、まさかハワード・ジョーンズが日本で大衆受けするとは思わなかった。
「ニュー・ソング」は、様々なニューウェイヴサウンドが出る中で、特段気を引くような曲でもなかった。
但し、この後に、1984年に彼が発表したファースト・アルバム「かくれんぼ」は、ルパート・ハインがプロデュースに関わっているのもあり、シングル「ニュー・ソング」だけでは見えなかった世界が現れたのは事実だった。
このアルバムを、当時のミュージックマガジンの編集長・中村とうようが、大きく評価していた。
私(かたちんば)自身は?
と言えば、想い出深い良い曲もあるのだが、全曲良いとは思っていない。
「コンディショニング」「ホワット・イズ・ラヴ」「パールと貝がら」「ハイド&シーク」「雨を見ないで」は極めて名曲。
しかし、音楽的広がりが出てくるミュージシャンとは思えなかった。
そう言いながらも、その後出たアルバムやシングルは随時聴いていったが。
***
かつて、90年代後半、幸宏と細野さんの対談の中。
幸宏が言った「テクノを野外で演じる明るい音楽にした契機は、ハワード・ジョーンズの登場辺りだったように思う」というくだりに自分は同感した。
クラフトワークという存在。
そして「I want to be machine」と冷徹な目をしたジョン・フォックス率いた第一期ウルトラヴォックス。
ジョン・フォックスに影響を受けたゲイリー・ニューマンの登場。
彼のヒット曲「カーズ」。
そこには、車の中の密閉された空間こそが自分に戻れる世界、といった感覚。
そして、YMO。。。。
テクノとは、密室的であったり、人間であることを拒否したり、現実を揶揄する世界の象徴でもあった。
この1984年にヒットしたトンプソン・ツインズもハワード・ジョーンズも、キーボードをショルダー式に首から下げながら、オープンスペースで演奏するおおらかな世界。
それが、多くの人に受け入れられた。
また、血の通った・・・という世界を創るにもかかわらず、エレクトロニクスを用いているのを強調した点。
(それまでにもあったが)確かにここが1つのテクノの転換点だったのかもしれない。
ウーマンリブならぬヒューマンズリブとまで言う、ハワード・ジョーンズに象徴された時代感覚への移ろい。
***
元デペッシュ・モード、その後のヤズー、アッセンブリー、・・・イレイジャーと音楽を創ってきたヴィンツ・クラーク、ミュートレーベル創始者ダニエル・ミラーが初期テクノらしい音とエレクトロニクス・ポップの音の違いにこだわった意味合いにも繋がる。
過去のシンセサイザーが出す音と、その後、マシンの発展でより現実音に近づいていけるようになった音。
その2つは別物なのだという認識。
ハワード・ジョーンズのファースト・アルバムには、その2つが混在しているが、既に電子楽器の音や価格が珍しくなく一般化し、電子楽器演奏が「テクノだ」「エレクトロニクスだ」という発言に直結する世界は既に脱しようとしている地点だった。
■HOWARD JONES 「HIDE AND SEEK」■
逆に、もはや電子楽器を使っただけではテクノであり得ない・インパクトが弱いがゆえに、フェアライトを多用したり、インダストリアルだったり、ハードでヘヴィな音へとニューウェイヴが進んでいったものとも言える。
クレプスキュール・レーベルを知った頃。
聴き関わったアーティストたち。
アンナ・ドミノ、ミカド、ドゥルティ・コラム、アンテナ、ポール・ヘイグ、タキシードムーン&ブレイン・L・レニンガー、ソフト・ヴァーディクト(=ウィム・メルテン)、プレジャー・グラウンド、キャバレー・ボルテール、ウィンストン・トン等々。
その時代、日本で輸入・紹介を一手に行っていたのが「あくまで当時の」新星堂だった。
広告もコピーも、荒いビット数のワープロ的文字で出来たレコード帯にも、手作り感があった。
そんな中で、アングラ雑誌のレコードレビューで読んだ、ポール・ヘイグの12インチシングル「ジャスティス」。
ジャケットの泣きそうな女性の表情にも惹かれて、(たぶん)池袋の新星堂に、当時1500~1600円くらいしたこの12インチシングルを買いに行った。
今思えば、1500~1600円で3曲か4曲という割高な賭け(ギャンブル)。
当たらなかった時の痛手は、少年にはかなりキツイものだった。
決して「ジャスティス」が悪い曲とは思えなかったが、じゃあ1500~1600円を投入しただけの感動があったか?
と言えば、正直満たされなかった。
その後、そんな風にして中途半端な思いが充満したレコードを全部処分した時期があった。
1枚100円か、そんな程度しか値段が付かないにしろ、自室にあること自体がムズムズしてしまっていた。
レコードコレクターとして、不満足なコレクションがあってはならないという潔白さに執着していたのだ。
ある意味、ヤケクソだったのだろう。
この「ジャスティス」も、その際に処分してしまった。
その後、処分をしたレコードがやけに気になってしまう。
「お前は邪魔だ!出ていけ!」
と追い払ったものへの郷愁。
「あんなことをしなければ良かった・・・」
無くなったゆえの感傷でしかないのだろうが、手元から消えたものほど、妙に気になるものである。
そして、2000年以降と思うが、とある中古レアレコード屋さんで手に入れた、下の写真のポール・ヘイグのレコード。
ここに収められた「ジャスティス」を久々に聴いた。
■Paul Haig 「JUSTICE」■
聴き関わったアーティストたち。
アンナ・ドミノ、ミカド、ドゥルティ・コラム、アンテナ、ポール・ヘイグ、タキシードムーン&ブレイン・L・レニンガー、ソフト・ヴァーディクト(=ウィム・メルテン)、プレジャー・グラウンド、キャバレー・ボルテール、ウィンストン・トン等々。
その時代、日本で輸入・紹介を一手に行っていたのが「あくまで当時の」新星堂だった。
広告もコピーも、荒いビット数のワープロ的文字で出来たレコード帯にも、手作り感があった。
そんな中で、アングラ雑誌のレコードレビューで読んだ、ポール・ヘイグの12インチシングル「ジャスティス」。
ジャケットの泣きそうな女性の表情にも惹かれて、(たぶん)池袋の新星堂に、当時1500~1600円くらいしたこの12インチシングルを買いに行った。
今思えば、1500~1600円で3曲か4曲という割高な賭け(ギャンブル)。
当たらなかった時の痛手は、少年にはかなりキツイものだった。
決して「ジャスティス」が悪い曲とは思えなかったが、じゃあ1500~1600円を投入しただけの感動があったか?
と言えば、正直満たされなかった。
その後、そんな風にして中途半端な思いが充満したレコードを全部処分した時期があった。
1枚100円か、そんな程度しか値段が付かないにしろ、自室にあること自体がムズムズしてしまっていた。
レコードコレクターとして、不満足なコレクションがあってはならないという潔白さに執着していたのだ。
ある意味、ヤケクソだったのだろう。
この「ジャスティス」も、その際に処分してしまった。
その後、処分をしたレコードがやけに気になってしまう。
「お前は邪魔だ!出ていけ!」
と追い払ったものへの郷愁。
「あんなことをしなければ良かった・・・」
無くなったゆえの感傷でしかないのだろうが、手元から消えたものほど、妙に気になるものである。
そして、2000年以降と思うが、とある中古レアレコード屋さんで手に入れた、下の写真のポール・ヘイグのレコード。
ここに収められた「ジャスティス」を久々に聴いた。
■Paul Haig 「JUSTICE」■
ぴゅーん、ぴゅーん。
週が始まり・社会の歯車が回り出す『へーじつ』のスタート。
スタートと共にいろんな角度から、矢が刺し込んでくる。
想定内もあれば・想定外もある。
気配を読みつつも、読めない部分も多いのだが。。。。
そういう流れの詠みを織り込み済みとして、刺し込んでくるであろう事柄を、朝一気に勢い付けてバンバンその担当者に電話する。
「ギャギャギャギャギャヽ(`Σ´)ノ!」と(役目を果たさぬ方々への押し付けも含めて)役割分担を振ると、一挙にメールも電話も少なくなり・ラクになる。
今朝は、そんなことがうまく行った朝だった。(心身重い鬱の朝には出来ないが。)
先手を打つことで、作業レベルのちまちました仕事・降り注ぐ被害を最小限にとどめられる。
「やられる前に、やってやる」
なる、浴びせ倒しが時には大事なのだろう。
しょっちゅうやっていたら効き目は薄いが。
頭がボケた月曜朝、という場面の活用。
まくしたてた相手は、その不意打ちに判断する間もなく、つい返すコトバを失い承諾。
ガチャンと切る自分。
この際に、刺したらちゃんとグリッと刃を回すこと。
カギを締めるように・必ずやらせる焼き後を残すことも、忘れないようにせねば。。。。
また、五手先にはどうせやり直しになることが明白だったり、あるいは、作っても無駄な結論しか導けない・同意しかねる資料は、20パーセントのチカラで「ペロリと」一丁上がらせたい。
どうせやり直しになることが分かっているのなら、やらないでも良いという意識程度で。
それなら、あとあと落ち込む・モチベーションを落とすレベルを下げられる。
そうやって、バランスを取りながら、無益なロスを除去すべきだろう。
なあーんて「ええかっこしい」で偉そ~うに語ることと・現実は乖離していますが。。。。。
そんな風に始まったブルー・マンデー。
***
どーでもいいボヤキをしてしまった。
お話しを音楽に戻そう。
ブライアン・フェリーが好きで好きでたまらないということが、即効明快にわかった1982年のABCのデビューアルバム。
ヴォーカル、マーティン・フライの歌い方。
曲構成はモロ、ブライアン・フェリー&ロキシー・ミュージック。
当時の「音楽評論家」さんは、さんざんにこのアルバムとヒット現象を叩いた。
最近自殺死した今野雄二というまがい者も、当然その中の1人だった。
今野雄二は、風俗バラエティレポーターよろしく、フェリーにしつこく付きまとい嫌われ、曲「東京ジョー」でクレイジーマン扱いで歌われた経緯を持つ男。
渋谷陽一がもっとも「クズ野郎」と罵倒した男。
かたちんば自身は、ABCがフェリーの-影響下を通り越した-パクリの世界としても「ポップで分かりやすくて良いじゃないか」と、ABCが立て続けにシングル・カットしていった曲を好んで毎日聴いていた。
「ザ・ルック・オブ・ラブ」「バレンタイン・デイ」「ポイズン・アロウ」。。。
ABCには、ロキシー・ミュージックが背負った深みは無かったが、わかりやすさときらびやかさがあり、流麗なオーケスレーションやコーラス、ポップでメロディアスな世界が一体化して流れていた。
そんなアルバム「レキシコン・オブ・ラヴ」は爆発的にヒットした。
ただABCが「うさんくさい」と言われるゆえんは、実はそれだけではない。
プロデューサーが、後に(坂本龍一の左脳の結晶物「B-2UNIT」をそのままパクった)アート・オブ・ノイズという事件を起こす、ハラに一物(たくらみ)を抱えたトレヴァー・ホーンである点。
それが多くの人に疑いの目を向けられた理由でもあった。
しかし、この時点ではABCのドラマーだったデヴィッド・パーマーが、YMOと仕事をすることになろうとは思いもしないことだった。
■ABC 「Valentine's Day」■
週が始まり・社会の歯車が回り出す『へーじつ』のスタート。
スタートと共にいろんな角度から、矢が刺し込んでくる。
想定内もあれば・想定外もある。
気配を読みつつも、読めない部分も多いのだが。。。。
そういう流れの詠みを織り込み済みとして、刺し込んでくるであろう事柄を、朝一気に勢い付けてバンバンその担当者に電話する。
「ギャギャギャギャギャヽ(`Σ´)ノ!」と(役目を果たさぬ方々への押し付けも含めて)役割分担を振ると、一挙にメールも電話も少なくなり・ラクになる。
今朝は、そんなことがうまく行った朝だった。(心身重い鬱の朝には出来ないが。)
先手を打つことで、作業レベルのちまちました仕事・降り注ぐ被害を最小限にとどめられる。
「やられる前に、やってやる」
なる、浴びせ倒しが時には大事なのだろう。
しょっちゅうやっていたら効き目は薄いが。
頭がボケた月曜朝、という場面の活用。
まくしたてた相手は、その不意打ちに判断する間もなく、つい返すコトバを失い承諾。
ガチャンと切る自分。
この際に、刺したらちゃんとグリッと刃を回すこと。
カギを締めるように・必ずやらせる焼き後を残すことも、忘れないようにせねば。。。。
また、五手先にはどうせやり直しになることが明白だったり、あるいは、作っても無駄な結論しか導けない・同意しかねる資料は、20パーセントのチカラで「ペロリと」一丁上がらせたい。
どうせやり直しになることが分かっているのなら、やらないでも良いという意識程度で。
それなら、あとあと落ち込む・モチベーションを落とすレベルを下げられる。
そうやって、バランスを取りながら、無益なロスを除去すべきだろう。
なあーんて「ええかっこしい」で偉そ~うに語ることと・現実は乖離していますが。。。。。
そんな風に始まったブルー・マンデー。
***
どーでもいいボヤキをしてしまった。
お話しを音楽に戻そう。
ブライアン・フェリーが好きで好きでたまらないということが、即効明快にわかった1982年のABCのデビューアルバム。
ヴォーカル、マーティン・フライの歌い方。
曲構成はモロ、ブライアン・フェリー&ロキシー・ミュージック。
当時の「音楽評論家」さんは、さんざんにこのアルバムとヒット現象を叩いた。
最近自殺死した今野雄二というまがい者も、当然その中の1人だった。
今野雄二は、風俗バラエティレポーターよろしく、フェリーにしつこく付きまとい嫌われ、曲「東京ジョー」でクレイジーマン扱いで歌われた経緯を持つ男。
渋谷陽一がもっとも「クズ野郎」と罵倒した男。
かたちんば自身は、ABCがフェリーの-影響下を通り越した-パクリの世界としても「ポップで分かりやすくて良いじゃないか」と、ABCが立て続けにシングル・カットしていった曲を好んで毎日聴いていた。
「ザ・ルック・オブ・ラブ」「バレンタイン・デイ」「ポイズン・アロウ」。。。
ABCには、ロキシー・ミュージックが背負った深みは無かったが、わかりやすさときらびやかさがあり、流麗なオーケスレーションやコーラス、ポップでメロディアスな世界が一体化して流れていた。
そんなアルバム「レキシコン・オブ・ラヴ」は爆発的にヒットした。
ただABCが「うさんくさい」と言われるゆえんは、実はそれだけではない。
プロデューサーが、後に(坂本龍一の左脳の結晶物「B-2UNIT」をそのままパクった)アート・オブ・ノイズという事件を起こす、ハラに一物(たくらみ)を抱えたトレヴァー・ホーンである点。
それが多くの人に疑いの目を向けられた理由でもあった。
しかし、この時点ではABCのドラマーだったデヴィッド・パーマーが、YMOと仕事をすることになろうとは思いもしないことだった。
■ABC 「Valentine's Day」■
愛しのEPOさんを急に思い出したらば、脳はその同時期に聴いていたアルバムに繋がってしまう。
***
1982年「アヴァロン」という奇跡を残して空中分解したロキシー・ミュージック。
その3年後・1985年聴いていたブライアン・フェリーの「ボーイズ&ガールズ」。
ブライアン・フェリー。
自分が「あんなカッコ良いダンディなオトナの男になりたい」と思っていた中高生時代。
退廃的歴史深きヨーロッパを一身に背負った彼の姿は、自分の憧れだった。
吸えないタバコを吸い・度が強いウィスキーを呑んで、勝手に浸っていた高校時代。
早くオトナになりたかった。
結果、もともとの造形がブサイクな自分は、永遠に到達できぬまま、40代の下り坂に居る。
かつて髪が異様に多かった頭は坊主。
ただ、それはいくらブライアン・フェリーになりたいと願っても、DNAというものがある限り、今残る「ぼくのかけら」の中で、どうやって「良い歳の取り方をするか」しかない。
そうして、46の自分が「若さという熱病」から解脱して開き直ったのが、髪を気にせず・ヒゲをたくわえ・黒ずくめに帽子という姿。
姿のみでは無く、一切のマスメディア等のおちゃらけ茶番にサラバした世界、冷酷に異界という戻れる場所を確保しながら、ふざけた世界を生きている。
たぶん20代の自分が、今の自分を見たならば驚愕するだろう。
しかし、そんな反応をする彼には自分は言う。
「お前も、まだ生きていられるだけマシだよ。
お前よりも今の俺の方が良いぞ。」
そんな嫌味と挑発。
一方、永遠の若さを持ちたいと願い、40を越えて美輪明宏に「もう、こんな無様な歳の取り方はしたくない。もうダメだ。」と吐露した三島由紀夫。
その三島に「あなた死んだらダメよ。死ぬこと考えているんでしょ、三島さん。」
そういう会話が出来・彼を一番知り・一番見抜いていた、当時の美輪明宏の凄み。
***
80年代に花開いたニュー・ウェイヴ/テクノのミュージシャンの多くは、不老不死に近いエイリアン=デヴィッド・ボウイか、ロキシー・ミュージック≠ブライアン・フェリーに多大なる影響を受けている。
確かにこの2人の在り方・産み出したスタイルは、独自性を持ち、他に類を見ない存在だった。
高橋幸宏もその1人。
彼は、故・加藤和彦さんと共に、YMOより前にサディスティック・ミカ・バンドとしてロンドン公演を行っている。
そこから接触がじかには始まったものの、幸宏のロマンティシズムの源流はブライアン・フェリーであることは否定出来ない事実。
しかし、その後、影響を受けた側の幸宏が、細野さん・教授との交流をも通じながら獲得したフェリーにも無い世界は、幸宏独自の世界。
かつて、日本来日したブライアン・フェリーが幸宏に会った際に、なんとも言えない・まるで旧友に再会したかのような懐かしむ表情(笑顔)で幸宏に近づき、握手をしたという。
幸宏は、必ず素晴らしいカバー曲を1曲、毎回のアルバムに入れていた。
1983年のロマンティシズムの塊「バラ色の明日」には、ブライアン・フェリーの1978年作品「The Bride Stripped Bare」に入った名曲「This Island Earth(この地球という島)」が入っている。
ちなみに幸宏は、これも憧れの1人だったトッド・ラングレンにまで「幸宏の音楽が大好きだ。アルバムも全部持っているよ。」というくらいの、逆のファン構造に変化している。
刻は流れ、バトンは良い形で受け継がれていく。
***
1982年のロキシーの「アヴァロン」が1つの到達点を迎えたがゆえに、ロキシー・ミュージックなるユニットは解散した。
その「アヴァロン」後のブライアン・フェリーのソロ・アルバムには、大きな期待がかけられていたが、そうそう奇跡は二度は起きない。
そんな自分の思い通りに、1985年作品「ボーイズ&ガールズ」は自分には、中途半端な「アヴァロン」の焼き直し、という認識だった。
それなりに当然アルバムは、ある程度の人には受け入れられる分かりやすさを備えてはいたが。
自分は、決して全肯定できないもどかしさに、もやもやしていたアルバムだった。
***
この「ボーイズ&ガールズ」を聴きなおすのは、91年大阪での孤独な世界以降。
時間を経て、ある程度、俯瞰的に見られる時点から、このアルバムを聴きなおすと、「それでも、ブライアン・フェリーは偉大である」となった。
それは容姿うんぬんなどではなくて、あくまで音。
特に、このアルバムのシングルとして最初にカットされた「スレイヴ・トゥ・ラヴ(愛の奴隷)」は、12インチのロング・ヴァージョンが素晴らしい。
今ではクルマが大嫌いな自分も、営業当時クルマに乗らざるを得なかったが、よく天候が荒れた際に、自分はこの曲を大音量でかけていた。
色んな人が色んなことを言うだろう。
しかし、ブライアン・フェリーが我々の生き方・振る舞いの仕方にまで影響を及ぼしたチカラは極めて大きい。
現在70に近づいていくフェリーの姿を見てああだこうだというのはラクだが、そんな程度のものではない。
あんまりぬるくて甘いことを言ってもらっては困るのだ。
■Bryan Ferry 「Slave to Love (Extended Version)」'85■
***
1982年「アヴァロン」という奇跡を残して空中分解したロキシー・ミュージック。
その3年後・1985年聴いていたブライアン・フェリーの「ボーイズ&ガールズ」。
ブライアン・フェリー。
自分が「あんなカッコ良いダンディなオトナの男になりたい」と思っていた中高生時代。
退廃的歴史深きヨーロッパを一身に背負った彼の姿は、自分の憧れだった。
吸えないタバコを吸い・度が強いウィスキーを呑んで、勝手に浸っていた高校時代。
早くオトナになりたかった。
結果、もともとの造形がブサイクな自分は、永遠に到達できぬまま、40代の下り坂に居る。
かつて髪が異様に多かった頭は坊主。
ただ、それはいくらブライアン・フェリーになりたいと願っても、DNAというものがある限り、今残る「ぼくのかけら」の中で、どうやって「良い歳の取り方をするか」しかない。
そうして、46の自分が「若さという熱病」から解脱して開き直ったのが、髪を気にせず・ヒゲをたくわえ・黒ずくめに帽子という姿。
姿のみでは無く、一切のマスメディア等のおちゃらけ茶番にサラバした世界、冷酷に異界という戻れる場所を確保しながら、ふざけた世界を生きている。
たぶん20代の自分が、今の自分を見たならば驚愕するだろう。
しかし、そんな反応をする彼には自分は言う。
「お前も、まだ生きていられるだけマシだよ。
お前よりも今の俺の方が良いぞ。」
そんな嫌味と挑発。
一方、永遠の若さを持ちたいと願い、40を越えて美輪明宏に「もう、こんな無様な歳の取り方はしたくない。もうダメだ。」と吐露した三島由紀夫。
その三島に「あなた死んだらダメよ。死ぬこと考えているんでしょ、三島さん。」
そういう会話が出来・彼を一番知り・一番見抜いていた、当時の美輪明宏の凄み。
***
80年代に花開いたニュー・ウェイヴ/テクノのミュージシャンの多くは、不老不死に近いエイリアン=デヴィッド・ボウイか、ロキシー・ミュージック≠ブライアン・フェリーに多大なる影響を受けている。
確かにこの2人の在り方・産み出したスタイルは、独自性を持ち、他に類を見ない存在だった。
高橋幸宏もその1人。
彼は、故・加藤和彦さんと共に、YMOより前にサディスティック・ミカ・バンドとしてロンドン公演を行っている。
そこから接触がじかには始まったものの、幸宏のロマンティシズムの源流はブライアン・フェリーであることは否定出来ない事実。
しかし、その後、影響を受けた側の幸宏が、細野さん・教授との交流をも通じながら獲得したフェリーにも無い世界は、幸宏独自の世界。
かつて、日本来日したブライアン・フェリーが幸宏に会った際に、なんとも言えない・まるで旧友に再会したかのような懐かしむ表情(笑顔)で幸宏に近づき、握手をしたという。
幸宏は、必ず素晴らしいカバー曲を1曲、毎回のアルバムに入れていた。
1983年のロマンティシズムの塊「バラ色の明日」には、ブライアン・フェリーの1978年作品「The Bride Stripped Bare」に入った名曲「This Island Earth(この地球という島)」が入っている。
ちなみに幸宏は、これも憧れの1人だったトッド・ラングレンにまで「幸宏の音楽が大好きだ。アルバムも全部持っているよ。」というくらいの、逆のファン構造に変化している。
刻は流れ、バトンは良い形で受け継がれていく。
***
1982年のロキシーの「アヴァロン」が1つの到達点を迎えたがゆえに、ロキシー・ミュージックなるユニットは解散した。
その「アヴァロン」後のブライアン・フェリーのソロ・アルバムには、大きな期待がかけられていたが、そうそう奇跡は二度は起きない。
そんな自分の思い通りに、1985年作品「ボーイズ&ガールズ」は自分には、中途半端な「アヴァロン」の焼き直し、という認識だった。
それなりに当然アルバムは、ある程度の人には受け入れられる分かりやすさを備えてはいたが。
自分は、決して全肯定できないもどかしさに、もやもやしていたアルバムだった。
***
この「ボーイズ&ガールズ」を聴きなおすのは、91年大阪での孤独な世界以降。
時間を経て、ある程度、俯瞰的に見られる時点から、このアルバムを聴きなおすと、「それでも、ブライアン・フェリーは偉大である」となった。
それは容姿うんぬんなどではなくて、あくまで音。
特に、このアルバムのシングルとして最初にカットされた「スレイヴ・トゥ・ラヴ(愛の奴隷)」は、12インチのロング・ヴァージョンが素晴らしい。
今ではクルマが大嫌いな自分も、営業当時クルマに乗らざるを得なかったが、よく天候が荒れた際に、自分はこの曲を大音量でかけていた。
色んな人が色んなことを言うだろう。
しかし、ブライアン・フェリーが我々の生き方・振る舞いの仕方にまで影響を及ぼしたチカラは極めて大きい。
現在70に近づいていくフェリーの姿を見てああだこうだというのはラクだが、そんな程度のものではない。
あんまりぬるくて甘いことを言ってもらっては困るのだ。
■Bryan Ferry 「Slave to Love (Extended Version)」'85■
タイトルは、ムーンライダーズの武川雅寛さんの夏のソロアルバム「とにかくここがパラダイス」のパクリ。
しかし、やっと。
単なる一時的ではあっても。。。
<今>は社会の歯車から脱出した「パラダイス」。
それは、お酒をたんまり呑んだせいではない。
ビールごときで酔う自分では無い。
ただ、一時的でも、やっと今週の仕事を終えたシェルターでの開放感や「あ・か・る・い・よ」(By清志郎&教授)が自精神には満たされている<今>しかない感覚。
***
曲は、山椒魚=かたちんばの暗~い・暗~い、素浪人時代へ突入中の1985年8月。
そんなさまよえる時期に聴いた曲ではあるが、いとおしい音楽。
EPO(エポ)さんの「音楽のような風」。
夕焼けの海に恐竜たちがたたずむ・ナチュラル感しか漂わない素晴らしいビクターのCM曲。
鬱なのか精神分裂病なのか病名などどーでもいいのだが、
どん底だった逃げ場無い世界。
「NO WAY OUT=出口無し」世界。
その1985年の救いだった大事な曲。
たくさん・たくさん、癒してもらったEPO(エポ)さんの名アルバム「パンプ・パンプ」の中の1曲。
(「スウィート・エモーション」「切りすぎた前髪」「12月のエイプリルフール」も大好きだが)
体育大出身ということで、やたらと「元気!」やアクティヴというウソ臭い芝居。
それを演じることをレコード会社からイメージ戦略として強要されてきた彼女が、やっと「ほんとうの自分」の足がかりを掴んだアルバム。
教授が設立したMIDIレーベルからの作品。
それまでのイメージから一転して、アダルトなイメージ。
ストレートな髪で自然体で歌うEPOさん。
男しか居ない(女性の居ない)家庭も文武両道極道高校時代も含め・汗臭い男世界にしか居られなかった自分にとっての、1985年のEPOさんの輝き。
「きれいなお姉さん」的憧れの女性だったEPOさん。
それは、それまでのニセモノのイメージを捨て去り、新しく「素(す)」の姿で音楽と対峙したからこそ、音に反映した美しさ。
***
後に知ることだが、EPOさんは厳しく自分の娘を否定する母親との齟齬と抗いを繰り返し、苦悩を抱えていたという。
そこを越えて、真っ白な姿で化粧を落とし・仮面をはぎとり、自分の素顔を出せたのがアルバム「パンプ・パンプ」だった。
彼女の母親との葛藤は、その後、アッコちゃん(矢野顕子さん)がやっていた「出前コンサート」や、セラピスト(新興宗教ではない魂の癒し)などの仕事へと繋がっていく。
当時、NHK-FM日曜の夜に渋谷陽一さんがやっていたマルチメディア番組。
EPOさんがこのアルバムをたずさえた渋谷さんとの対談があった。
・・・これまたどこかに行ってしまったが、その録音テープ。
その対談に共感を覚えた自分は、想いのたけを書いてこの番組にハガキを出した。
そして、なんとEPOさんのサイン色紙のプレゼントに当たったのである。
大事な大事な宝物。。。。
(と言いながら、この巣窟のどっかに保存されていて、今は居場所は不明。)
「EPO April Fool In December(12月のエイプリルフール)」
と記載され、サンタさんの絵が描かれた色紙。
疲れて気弱なこんな夜には、せめて夢の中だけでも、
こんな素敵な曲・素敵なお姉さんに甘えさせて欲しい。
今でも、この頃のEPOさんの美しさ・風のような音楽は、自分の中で生きている。
しかし、やっと。
単なる一時的ではあっても。。。
<今>は社会の歯車から脱出した「パラダイス」。
それは、お酒をたんまり呑んだせいではない。
ビールごときで酔う自分では無い。
ただ、一時的でも、やっと今週の仕事を終えたシェルターでの開放感や「あ・か・る・い・よ」(By清志郎&教授)が自精神には満たされている<今>しかない感覚。
***
曲は、山椒魚=かたちんばの暗~い・暗~い、素浪人時代へ突入中の1985年8月。
そんなさまよえる時期に聴いた曲ではあるが、いとおしい音楽。
EPO(エポ)さんの「音楽のような風」。
夕焼けの海に恐竜たちがたたずむ・ナチュラル感しか漂わない素晴らしいビクターのCM曲。
鬱なのか精神分裂病なのか病名などどーでもいいのだが、
どん底だった逃げ場無い世界。
「NO WAY OUT=出口無し」世界。
その1985年の救いだった大事な曲。
たくさん・たくさん、癒してもらったEPO(エポ)さんの名アルバム「パンプ・パンプ」の中の1曲。
(「スウィート・エモーション」「切りすぎた前髪」「12月のエイプリルフール」も大好きだが)
体育大出身ということで、やたらと「元気!」やアクティヴというウソ臭い芝居。
それを演じることをレコード会社からイメージ戦略として強要されてきた彼女が、やっと「ほんとうの自分」の足がかりを掴んだアルバム。
教授が設立したMIDIレーベルからの作品。
それまでのイメージから一転して、アダルトなイメージ。
ストレートな髪で自然体で歌うEPOさん。
男しか居ない(女性の居ない)家庭も文武両道極道高校時代も含め・汗臭い男世界にしか居られなかった自分にとっての、1985年のEPOさんの輝き。
「きれいなお姉さん」的憧れの女性だったEPOさん。
それは、それまでのニセモノのイメージを捨て去り、新しく「素(す)」の姿で音楽と対峙したからこそ、音に反映した美しさ。
***
後に知ることだが、EPOさんは厳しく自分の娘を否定する母親との齟齬と抗いを繰り返し、苦悩を抱えていたという。
そこを越えて、真っ白な姿で化粧を落とし・仮面をはぎとり、自分の素顔を出せたのがアルバム「パンプ・パンプ」だった。
彼女の母親との葛藤は、その後、アッコちゃん(矢野顕子さん)がやっていた「出前コンサート」や、セラピスト(新興宗教ではない魂の癒し)などの仕事へと繋がっていく。
当時、NHK-FM日曜の夜に渋谷陽一さんがやっていたマルチメディア番組。
EPOさんがこのアルバムをたずさえた渋谷さんとの対談があった。
・・・これまたどこかに行ってしまったが、その録音テープ。
その対談に共感を覚えた自分は、想いのたけを書いてこの番組にハガキを出した。
そして、なんとEPOさんのサイン色紙のプレゼントに当たったのである。
大事な大事な宝物。。。。
(と言いながら、この巣窟のどっかに保存されていて、今は居場所は不明。)
「EPO April Fool In December(12月のエイプリルフール)」
と記載され、サンタさんの絵が描かれた色紙。
疲れて気弱なこんな夜には、せめて夢の中だけでも、
こんな素敵な曲・素敵なお姉さんに甘えさせて欲しい。
今でも、この頃のEPOさんの美しさ・風のような音楽は、自分の中で生きている。
上の写真は、テレビに真剣なまなざしのコチャコさん。
3・11後、ヒトに甘えるようになったのに加えて、テレビに熱中するようになった。
ネコさん向けDVDなどもあるように、ネコは鳥の動画に反応する。
ネコの特性。
じゃあ、コチャコさんは何に関心がいくのだろうか?
と、しばし、観察し、分析するが、理由がいまいち分からない。。。
鳥さん・動物・動くモノ・・・
これらに関心が行くのは理解出来るのだが、どーもそれだけではないのだ。
そこが、とても不思議。
どー考えても、ニュースを見ている。そういうことが多い。
動きがあるわけでもなく、キャスターの声に特徴があるわけでもなく・・・・。
どー考えても、競馬・競輪・競艇のギャンブル番組を見ている。
動く馬やボートなどならわかるが、それだけではなく予想や結果の静止画をじーっと聞いて・見ている。
その真剣なまなざしに、ついプッと吹き出しそうになることがある。
「また、コチャコさんお勉強中ですか」。
ほほえましい幸福な瞬間。
***
テレビの好きなカンタちゃんの動画を見つけたので、掲載する。
■テレビ好きネコさん■