愛しのEPOさんを急に思い出したらば、脳はその同時期に聴いていたアルバムに繋がってしまう。
***
1982年「アヴァロン」という奇跡を残して空中分解したロキシー・ミュージック。
その3年後・1985年聴いていたブライアン・フェリーの「ボーイズ&ガールズ」。
ブライアン・フェリー。
自分が「あんなカッコ良いダンディなオトナの男になりたい」と思っていた中高生時代。
退廃的歴史深きヨーロッパを一身に背負った彼の姿は、自分の憧れだった。
吸えないタバコを吸い・度が強いウィスキーを呑んで、勝手に浸っていた高校時代。
早くオトナになりたかった。
結果、もともとの造形がブサイクな自分は、永遠に到達できぬまま、40代の下り坂に居る。
かつて髪が異様に多かった頭は坊主。
ただ、それはいくらブライアン・フェリーになりたいと願っても、DNAというものがある限り、今残る「ぼくのかけら」の中で、どうやって「良い歳の取り方をするか」しかない。
そうして、46の自分が「若さという熱病」から解脱して開き直ったのが、髪を気にせず・ヒゲをたくわえ・黒ずくめに帽子という姿。
姿のみでは無く、一切のマスメディア等のおちゃらけ茶番にサラバした世界、冷酷に異界という戻れる場所を確保しながら、ふざけた世界を生きている。
たぶん20代の自分が、今の自分を見たならば驚愕するだろう。
しかし、そんな反応をする彼には自分は言う。
「お前も、まだ生きていられるだけマシだよ。
お前よりも今の俺の方が良いぞ。」
そんな嫌味と挑発。
一方、永遠の若さを持ちたいと願い、40を越えて美輪明宏に「もう、こんな無様な歳の取り方はしたくない。もうダメだ。」と吐露した三島由紀夫。
その三島に「あなた死んだらダメよ。死ぬこと考えているんでしょ、三島さん。」
そういう会話が出来・彼を一番知り・一番見抜いていた、当時の美輪明宏の凄み。
***
80年代に花開いたニュー・ウェイヴ/テクノのミュージシャンの多くは、不老不死に近いエイリアン=デヴィッド・ボウイか、ロキシー・ミュージック≠ブライアン・フェリーに多大なる影響を受けている。
確かにこの2人の在り方・産み出したスタイルは、独自性を持ち、他に類を見ない存在だった。
高橋幸宏もその1人。
彼は、故・加藤和彦さんと共に、YMOより前にサディスティック・ミカ・バンドとしてロンドン公演を行っている。
そこから接触がじかには始まったものの、幸宏のロマンティシズムの源流はブライアン・フェリーであることは否定出来ない事実。
しかし、その後、影響を受けた側の幸宏が、細野さん・教授との交流をも通じながら獲得したフェリーにも無い世界は、幸宏独自の世界。
かつて、日本来日したブライアン・フェリーが幸宏に会った際に、なんとも言えない・まるで旧友に再会したかのような懐かしむ表情(笑顔)で幸宏に近づき、握手をしたという。
幸宏は、必ず素晴らしいカバー曲を1曲、毎回のアルバムに入れていた。
1983年のロマンティシズムの塊「バラ色の明日」には、ブライアン・フェリーの1978年作品「The Bride Stripped Bare」に入った名曲「This Island Earth(この地球という島)」が入っている。
ちなみに幸宏は、これも憧れの1人だったトッド・ラングレンにまで「幸宏の音楽が大好きだ。アルバムも全部持っているよ。」というくらいの、逆のファン構造に変化している。
刻は流れ、バトンは良い形で受け継がれていく。
***
1982年のロキシーの「アヴァロン」が1つの到達点を迎えたがゆえに、ロキシー・ミュージックなるユニットは解散した。
その「アヴァロン」後のブライアン・フェリーのソロ・アルバムには、大きな期待がかけられていたが、そうそう奇跡は二度は起きない。
そんな自分の思い通りに、1985年作品「ボーイズ&ガールズ」は自分には、中途半端な「アヴァロン」の焼き直し、という認識だった。
それなりに当然アルバムは、ある程度の人には受け入れられる分かりやすさを備えてはいたが。
自分は、決して全肯定できないもどかしさに、もやもやしていたアルバムだった。
***
この「ボーイズ&ガールズ」を聴きなおすのは、91年大阪での孤独な世界以降。
時間を経て、ある程度、俯瞰的に見られる時点から、このアルバムを聴きなおすと、「それでも、ブライアン・フェリーは偉大である」となった。
それは容姿うんぬんなどではなくて、あくまで音。
特に、このアルバムのシングルとして最初にカットされた「スレイヴ・トゥ・ラヴ(愛の奴隷)」は、12インチのロング・ヴァージョンが素晴らしい。
今ではクルマが大嫌いな自分も、営業当時クルマに乗らざるを得なかったが、よく天候が荒れた際に、自分はこの曲を大音量でかけていた。
色んな人が色んなことを言うだろう。
しかし、ブライアン・フェリーが我々の生き方・振る舞いの仕方にまで影響を及ぼしたチカラは極めて大きい。
現在70に近づいていくフェリーの姿を見てああだこうだというのはラクだが、そんな程度のものではない。
あんまりぬるくて甘いことを言ってもらっては困るのだ。
■Bryan Ferry 「Slave to Love (Extended Version)」'85■
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1982年「アヴァロン」という奇跡を残して空中分解したロキシー・ミュージック。
その3年後・1985年聴いていたブライアン・フェリーの「ボーイズ&ガールズ」。
ブライアン・フェリー。
自分が「あんなカッコ良いダンディなオトナの男になりたい」と思っていた中高生時代。
退廃的歴史深きヨーロッパを一身に背負った彼の姿は、自分の憧れだった。
吸えないタバコを吸い・度が強いウィスキーを呑んで、勝手に浸っていた高校時代。
早くオトナになりたかった。
結果、もともとの造形がブサイクな自分は、永遠に到達できぬまま、40代の下り坂に居る。
かつて髪が異様に多かった頭は坊主。
ただ、それはいくらブライアン・フェリーになりたいと願っても、DNAというものがある限り、今残る「ぼくのかけら」の中で、どうやって「良い歳の取り方をするか」しかない。
そうして、46の自分が「若さという熱病」から解脱して開き直ったのが、髪を気にせず・ヒゲをたくわえ・黒ずくめに帽子という姿。
姿のみでは無く、一切のマスメディア等のおちゃらけ茶番にサラバした世界、冷酷に異界という戻れる場所を確保しながら、ふざけた世界を生きている。
たぶん20代の自分が、今の自分を見たならば驚愕するだろう。
しかし、そんな反応をする彼には自分は言う。
「お前も、まだ生きていられるだけマシだよ。
お前よりも今の俺の方が良いぞ。」
そんな嫌味と挑発。
一方、永遠の若さを持ちたいと願い、40を越えて美輪明宏に「もう、こんな無様な歳の取り方はしたくない。もうダメだ。」と吐露した三島由紀夫。
その三島に「あなた死んだらダメよ。死ぬこと考えているんでしょ、三島さん。」
そういう会話が出来・彼を一番知り・一番見抜いていた、当時の美輪明宏の凄み。
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80年代に花開いたニュー・ウェイヴ/テクノのミュージシャンの多くは、不老不死に近いエイリアン=デヴィッド・ボウイか、ロキシー・ミュージック≠ブライアン・フェリーに多大なる影響を受けている。
確かにこの2人の在り方・産み出したスタイルは、独自性を持ち、他に類を見ない存在だった。
高橋幸宏もその1人。
彼は、故・加藤和彦さんと共に、YMOより前にサディスティック・ミカ・バンドとしてロンドン公演を行っている。
そこから接触がじかには始まったものの、幸宏のロマンティシズムの源流はブライアン・フェリーであることは否定出来ない事実。
しかし、その後、影響を受けた側の幸宏が、細野さん・教授との交流をも通じながら獲得したフェリーにも無い世界は、幸宏独自の世界。
かつて、日本来日したブライアン・フェリーが幸宏に会った際に、なんとも言えない・まるで旧友に再会したかのような懐かしむ表情(笑顔)で幸宏に近づき、握手をしたという。
幸宏は、必ず素晴らしいカバー曲を1曲、毎回のアルバムに入れていた。
1983年のロマンティシズムの塊「バラ色の明日」には、ブライアン・フェリーの1978年作品「The Bride Stripped Bare」に入った名曲「This Island Earth(この地球という島)」が入っている。
ちなみに幸宏は、これも憧れの1人だったトッド・ラングレンにまで「幸宏の音楽が大好きだ。アルバムも全部持っているよ。」というくらいの、逆のファン構造に変化している。
刻は流れ、バトンは良い形で受け継がれていく。
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1982年のロキシーの「アヴァロン」が1つの到達点を迎えたがゆえに、ロキシー・ミュージックなるユニットは解散した。
その「アヴァロン」後のブライアン・フェリーのソロ・アルバムには、大きな期待がかけられていたが、そうそう奇跡は二度は起きない。
そんな自分の思い通りに、1985年作品「ボーイズ&ガールズ」は自分には、中途半端な「アヴァロン」の焼き直し、という認識だった。
それなりに当然アルバムは、ある程度の人には受け入れられる分かりやすさを備えてはいたが。
自分は、決して全肯定できないもどかしさに、もやもやしていたアルバムだった。
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この「ボーイズ&ガールズ」を聴きなおすのは、91年大阪での孤独な世界以降。
時間を経て、ある程度、俯瞰的に見られる時点から、このアルバムを聴きなおすと、「それでも、ブライアン・フェリーは偉大である」となった。
それは容姿うんぬんなどではなくて、あくまで音。
特に、このアルバムのシングルとして最初にカットされた「スレイヴ・トゥ・ラヴ(愛の奴隷)」は、12インチのロング・ヴァージョンが素晴らしい。
今ではクルマが大嫌いな自分も、営業当時クルマに乗らざるを得なかったが、よく天候が荒れた際に、自分はこの曲を大音量でかけていた。
色んな人が色んなことを言うだろう。
しかし、ブライアン・フェリーが我々の生き方・振る舞いの仕方にまで影響を及ぼしたチカラは極めて大きい。
現在70に近づいていくフェリーの姿を見てああだこうだというのはラクだが、そんな程度のものではない。
あんまりぬるくて甘いことを言ってもらっては困るのだ。
■Bryan Ferry 「Slave to Love (Extended Version)」'85■