こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2011年11月16日 水曜日 リハビリ・写真 11月12日「ココニイタコト」

2011-11-16 22:06:03 | 写真日和

日本酒を呑みすぎて二日酔いの朝、7:40。


昼、ピーマンと白菜を入れた焼きそばを作る。


外出するか否か・・・・
だるい抑鬱のカラダをお風呂に入った勢いで飛び出せば、空は美しい雲。


秋に揺れる草。


道端の赤い花。


イタリアン店の窓。


駅から見えるスカイツリー。


電車の車窓から見える高い空。


駅のランプ。


秋葉原。形骸化したメイドカフェのメニュー。
ちなみに、自分は一度も入ったことはない。


和泉橋のたもとで一服。


今度は、赤い実を発見。


しばし歩く。


柳森神社。


おたぬきさん。


今日も、ここを住まいとしたネコちゃんが居る。


かんだふれあい橋。


オーディオ店。


万世橋。


そこから見える風景。


クリスマス衣装をまとったマネキン。


AVのポスター。ちなみに「こうて(買って)ませんよ」(笑)。


ニュー秋葉原センター。


楽器店のギター。


歩道橋に貼られた張り紙。


お茶を飲んで一服。


みんな疲れているんだ。


しばし、このお店で頭の中をメモにしたためた。
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2011年11月15日 火曜日 リハビリ・音楽 スガ・シカオ 「ココニイルコト」

2011-11-15 22:05:54 | 音楽帳

映画「ココニイルコト」のエンディングテーマを、スガシカオが歌っている。
この曲も、この素晴らしい映画の一側面を成している。
映画の主題そのものを見事に描き出した歌詞の素晴らしさ。
ソウル(魂)そのものが表現された曲。


ダーリン・・・ 悲しいことは 大事な人
そこにいるのに 届かぬ思いのまま
今日も夜がきて すべてを包むの

ベイベー・・・ 愛する人は
抱きあうたび 涙を流す
ふるえる指を包んでも あなたの悲しみを知るには足りない

別れの瞬間は 闇をつたって
やがて想い出のすべてを いたみに変える

感じるいたみは 「ココニイタコト」
ふるえるあなたと 「ココニイタコト」

ブラザー・・・ いやしいことに 失うたび 誰かを求める
ひろいこの街で 生きて行く
それは くり返すことかもしれない

ボクらが瞬間に放つ光は たとえ届かない距離でも
あなたを目指す

ゆがんだ光は 「ココニイルコト」
伝える全ては 「ココニイルコト」

何度も何度でも 悲しい夜をかさねて
少しずつ輝きを ましていければ・・・

ボクらが二度とない 今に光る星ならば
きのうと変わらない 今日を生きる意味がある

ゆがんだ光は 「ココニイルコト」
伝える全ては 「ココニイルコト」


(作詞・作曲 : スガ・シカオ)
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2011年11月14日 月曜日 リハビリ・映画 「ココニイルコト」

2011-11-14 20:34:23 | 想い出かたちんば

初めて真中瞳さんに出会ったのは、久米宏さんがやっていたニュースステーションでのこと。
「なんだ(;゜Д゜)!この騒々しいオンナは」というのが第一印象。
元々、元気そうな姿を振りまく女性が嫌いなのもあり「やかましい」という印象しか無かった。
ただ、その頃が彼女の人気の絶頂期でもあった。
可愛い表情はしていたが、最初、それだけでは気持ちを許す心境にはなれなかった。

***


その後、再び彼女に偶然出会ったのが2001年の映画「ココニイルコト」。
それを見て、引きずり込まれた。
それまでの真中瞳さんとは180度反転した姿。ぼそぼそとつぶやくように語る彼女のちぐはくな生身の姿。
それまで見たことの無い表情の豊かさ・優しさ・真摯さ・・・。
不自然こそが自然体。
映画のさりげなさに秘めた優しさ・温かさもたまらなく心に響いたが、この映像に納まった真中瞳さんの自然な姿・余りもの美しさに、イチコロで参った。
高熱を発し、だからと言ってどうになるでも無い産まれてしまった彼女への恋ゴゴロが自分の中で収まり付かなくなってしまった。

SEXでしか結び付きが無いものを愛だの恋だのと呼んでしまうことが多く存在している。
しかし、性的側面のみの興味とは全く別に、自分が今まで経験してきた恋というのは、いつも同じ。
いくら容姿で好みと思っても、恋をしてしまうのは、その人の何気ない仕草やそれまで見たことの無い側面の表情やその人の過ごす感じ・・そんなものにはっと気付いてしまってぐっときたとき。

かつて、自分の師の一人である中島らもさんの本に「セックスで始まる恋」という節があった。
事を終えた後に、寝ていた自分が目覚めると、彼女が台所でスープを作っている。
その匂いが漂ってきた。
その作る様・立ち姿・出来たよ・・と少し離れた所から聞こえる声・・その空気にセックスでは結びつかない恋が生まれてしまう。
そんな話だったようだった気がする。
あっ、まずい・・と思っても、既に手遅れで、恋という病気への感染は避けようが無い。
理屈では無いもので出来た人間ゆえの病気。

雑誌で彼女のグラビアを必死で集めれば、それもたたずんでいるだけなのに美しさの極致の姿で、更に熱が増してしまった。
この感じは今も変わりは無く、自分の中に在る。
今でも自分は、真中瞳さんに恋している。

***

映画の切なさには、正直強いココロの痛みを禁じえなかった。また、映画の舞台が、自分の人生の中で貴重だった大阪での5年間の暮らしを想い出させて、遠い気分になった。

・・・とある広告代理店のコピーライター役の真中瞳さんが、上司との不倫で左遷されて東京から大阪に飛ばされる。そこで、不思議な明るさを持った社員(堺雅人)に出会う。

次第に寄り添っていく2人。
大阪で一人ぼっちの彼女が、悩み、そして、泣き、仕事上もうまくいかないでぼやく。

そんな真中瞳さんのそばには堺雅人がいつも居る。
堺雅人は、何があっても笑顔で「まあ、ええんとちゃいますかぁ~」と言い続ける。
でも、彼の笑顔と言葉は、彼が本来持った性分では無くて、そこに至る裏打ちされた事柄があった。

本当にピュアで自然な流れ。
美しく静かに映画は進行する。
決して最後まで手1つさえつなぐことすら無い中、2人は綾を織るようにつながっていく。

・・・そして、唐突なる堺雅人との別れ。

真中瞳さんは、彼に導かれ・惹かれていたのを内なる想いと気付きつつ、彼から教わった「まあ、ええんとちゃいますかぁ~」というコトバをつぶやく。
居なく無くなっても、心の中に温かい彼の存在が宿った自分の胸にそっと手をあてて、生きていくこと、そして自分が「ココニイルコト」への認識を新たにする。
貴重な恋のものがたり。

こんな素敵な映画にはそうそう出会えない。

持っているDVDにあるセリフ『目をつむると、会える人がいる』。
切なすぎてじんわりくるコトバの意味は、映画を見てもらえば理解出来る。

自分はそんなに多くのDVDを持っている訳では無い。
あるのは「グーグーだって猫である」、これまた天然色の恋する麻生久美子さんの作品等々。
その本棚に一緒に並んで「ココニイルコト」は一生大事な自分の心の宝物として収まっている。

■映画 「ココニイルコト」 予告編■


この映画から想い出す。
大阪で出会った女性に恋をしてしまったがゆえに、その恋を超えられず、どんな女性と巡り会ったとしても付き合うに至れない自分が居る。
SEXで満足出来るなら簡単。処理と同じ程度の次元の事柄に過ぎない。
この映画にあるような恋が自然と自分の中に生まれることが無ければ、一緒に居る意味なんか無い。
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2011年11月13日 日曜日 反リハビリ・藤原新也さんの現在/リハビリ・音楽 高橋幸宏「バラ色の明日」

2011-11-13 16:21:02 | スケッチブック
近時の自分がリハビリに入ってしまった、に反して、藤原新也さんは「こういうときだから、攻撃的にならねばならない」とエネルギーを発散し続けている。
すさまじい精力的な様で。
頭の下がる想い。

かつて2001年中野サンプラザでのデヴィッド・シルヴィアンのコンサートホールでお会いしたときの、静かで遠い目をした藤原さんのたたずまいを思い出しながら、その様とは違う感覚。

そんな藤原新也さんの展覧会が27日まで行われている。
その名も「書行無常展」。
書、そして文章と写真で構成された展覧会。


今日は、もうこんな時間で行けないが、場所的には自分の庭だし、27日までには見に行きたい。

月〜土曜 11:00〜20:00
日曜のみ 16:00まで

会場・・・アートギャラリー「3331 ArtsChiyoda」


***

一方の自分は、金曜日の晩から、いつもの如くYMO関連そしてテクノ〜エレクトロニック関連ばかりを聴いていた。
充電のために。

***

明日を生きる自信を喪失する場面が、ときおり自分の中の抑圧度を異常値にまで上げる時間があることは事実である。

明日というものがとても遠くの彼方に感じられる。
かたや、やる「べき」たくさんのことを思ってしまえば、過度な疲れと絶望感にさいなまれる。

だから、そんな遠くのことや・大きなものを思わずに、今・ここに居ることに出来るだけ目をやるようにしている、今の自分。

***

秋は、YMO散開のことを想い出すと共に、同じ年に出た幸宏の「薔薇色の明日(tomorrow's just another day)」を聴き込んでいた1983年の秋から冬を忘れることが出来ない。


神経症持ちの幸宏が、それでも・・・と、あるか無いかなんて分からない明日への祈りが音楽という形で定着された名作。

YOUTUBEにライヴの「バラ色の明日(My Bright Tomorrow)」が掲載されていたのでリンクを貼る。

■高橋幸宏 「バラ色の明日(My Bright Tomorrow)」■

青い空に 黒い雨雲が現れる
でも、カミナリやイナズマなんて、ボクには何でもない

それは、ただの運命のイタズラに過ぎないんだ
真剣になればなるほど、ボクはもてあそばれる

バラ色の明日よ・・・・
今日は、どこに居るの?

どうして、今、ボクを連れ出しに来てくれないの?

バラ色の明日よ・・・・
ボクは自由になりたいんだ
解放されるためには、どうしたらいいんだろう?

雨が、まるでナイフで刺すように、強く降る
それは、ただの季節なのか?
それとも、人生の一段階なのだろうか?

(とにかく)通り抜ける術を探さなきゃ
先がはっきり見えるところを、見つけるんだ


(作詞:高橋幸宏&ピーター・バラカン、作曲:高橋幸宏)
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2011年11月12日 土曜日 リハビリ・本 上原隆「友がみな我よりえらく見える日は」

2011-11-12 22:28:58 | 雑記帳


1冊オススメの本を紹介する。
どこかの古本屋さんで出会ったもの。
発売は1999年の初版本。

上原隆さんの「友がみな我よりえらく見える日は」というタイトル本。
幻冬舎アウトロー文庫より。

何度も、時折手に取るため、かなりぼろぼろ。

「友がみな我よりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て 妻としたしむ」(石川啄木)

***

巻末の解説を村上龍が書いているが、かなり核心を付いた良い文章だった。

この本は、いくつかの話に別れている。
それぞれは、リアルな1人・1人の生活、そのものを取材して、ありのまま表記されている。
そこには着色が無い。

「ホームレス同然の生活を続け、妻子からも捨てられた芥川賞作家・・・
その容貌ゆえに45年間、一度も男性と付き合ったことのない独身OL・・・
人は劣等感にさいなまれ、深く傷付いたとき、どのように自尊心を取り戻すのか?
読むとなぜか心が軽くあたたかになる、新しいタイプのノンフィクション。」

巻末のコトバ。

格差社会などという言葉がまだ生まれていない時期だったが、既にバブル以降、近代化と経済合理主義に依って疲弊した「個人」が背負った重い重い重圧は、既にこの本に収められている。

村上龍はずばり言う。
「TVにもメディアにも取り上げられない、でも実は本当のリアルな現実がここにある」という風に。

***

自分が一番心を動かされたのが「容貌」という一話。

浜松町から5分の会社の経理課に勤める彼女は、毎日17:30きっちりと帰り支度をして、山手線で新宿に抜けて、そこに停めてある若草色のサビだらけの20年使いこなした自転車でビル街を抜けていく。
独りで食事を摂る。
食事は1日1000円以内、飲み物は水、行く店も数店と決めてある。

食後自転車をこぎ、ワンルームマンションに帰る。
外に停めるとお金を取られるので、家に自転車を入れる。
ガスも電話も使わないので、基本料のみ。
風呂場はあるが、そこは使わず、浴槽は服などの収納にされている。
風呂は銭湯に行く。
洗濯は下着類を台所の水道で洗い済ませ、あとはコインランドリー。

コップが2つあり、ノブちゃんとめいちゃんという小さいフィッシュが居る。
夜には、かかさず日記を書く。

45歳になって1つの決断をする。
カメラマンにヌード写真を撮る依頼をする。
自分に対する記念として、その写真を箱に納めた。

むかし、母と一緒に子供の頃、買い物で歩いていたときに「あんた、南雲さんに行く?」
南雲さんとは、美容整形の外科だった。
母が冗談で言っているのではないことを、彼女は理解していた。

***

この話の最後の部分を引用する。

「・・・午前0時。銭湯から帰ってくると、ベッドに入って本を読む。
木村はこの時間が一番楽しいという。
本を読んでいて眠くなったら、電気を消す。

明日もあさっても同じ暮らしが続く。
新宿の街の灯で窓がうっすらと明るい。

シューッという車の音が絶えることなく聞こえる。
窓際に干したパンティストッキングの影がベッドの上にのびている。
床に横たわった風船の熱帯魚が青白く輝いている。」

この本には、さまざまな人の本当の生きるありさまが、そのまま投影されている。
彼女も、同じ東京で同じ空を見ながら、必死に自分の在り方を模索しながらも、このような生き方にたどり着いた。

切ない実話が多数収められているが、すべて身近に一緒に同時代を生きている人なのだと思えば、多少の安堵がある。
まるでカッコイイかのようなコトバや劇的な事柄ばかりが、この世ではウサン臭く腐臭を放ちながら漂っているが、そんなところにリアルな現実は無い。

そのことを、この本は示してくれている。
カッコヨク生きるなど、夢を持つことは良いことだが、妄想、まぼろしでしか無いのかもしれない。

夢を持ってしまうから一喜一憂してしまう。
しかし、何も持たずに生きられるほど、人間は強くない。
そのはざまを揺れ動くことが人生なのだろう。

_______________________________

PS:既に本のオビがボロボロで切れてしまったが、素敵なコピーがあったのを思い出した。
「人はみんな自分をはげましながら生きている。」
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2011年11月11日 金曜日 リハビリ・週末の始まり

2011-11-11 22:25:09 | 雑記帳
冷たい雨の中、22:15帰宅。

ラジオをひねる。「DIG」がやっている。
東日本大震災から8ヶ月目の今夜。

TPPのニュースをやっている。
詳細は勉強せねば、何がどうとは言えないが、交渉術の基本のあるべき論。
まずは、最初の打診にYES・NOを答える必要は無い。
YESと最初に言うのは、馬鹿。
今、自分に言えることはこれくらい。

***

ついに寒さがやってきたので、スーパーではビールを買わず、日本酒を買う。
温めて、日本酒をアツカンでグイと呑む。

***

頚椎ヘルニアと書いたら、コトバに引っ張られて妙なトラックバックが自動的に多数来た。
「ヘルニアは、歯のかみ合わせで治る!」
「10分で治る術」

馬鹿言ってんじゃねえよ。
そんなくだらない「たわごと」に騙されるほど、生きてきた訳ではない。
オウム真理教と同じで、そんな「たわごと」に揺るぐほどの馬鹿ではない。
そんな10分のために三十年以上苦しんでいた訳は無い。

「あら。こんなに幸せでいいのかしら?」
整形でとことん顔がマイケル・ジャクソンになるまでぐちゃぐちゃにいじればいいさ。
今朝、電車で明らかに「整形」と判る顔をした女にあった。
じーっと妙な鼻の形を眺めていたら、相手も引いた、「バレてるっ」と。
勝手にいじればいいし、勝手にすればいい、整形が当たり前の韓国のように。


(整形では無い素顔美人。人が時折見せる日常と違う真顔の表情に、気付いていなかった一面を垣間見て、ドキッとすることは多い。)

ただ、自分は、生まれた素顔と日々の有様が美しい人にしか惹かれない。
そんな人工物に恋するほどの、度量の広い気持ちは持ち合わせていない。

***

ビールは一晩中飲んでも酔わない。それと違って日本酒は効きが早い。
早々にベロベロになりながら、MZ師と話す。
「太宰は、道化を悟られていることを理解した上でも、ああいう行動をしたんだよ。」
近時、尾崎の遺書の件。
「・・・そういう意味では、最初から彼は太宰的に死ぬことシナリオを踏んだ上で、ああなったのは、最初から詠めていた。しかし、詠めていないと思われていたのは、本人の大間違い。」
話は陽水になる。
「陽水は、そういう意味でも天才。まさに詩人。
意味があるとか・無いとか・・・そんなものからも逸脱してるのが詩。
そう捉えれば、文脈的には解釈不能な歌詞を作り・意味があるなしを超えて存在しているのが陽水であって、今少ない天才。」
2人同意する。

ベロベロにひさびさになりながら、寒いので風呂を沸かす。
風呂で死んだら「あっぱれ」ですね。
平和な死。
こんな程度で死ねるものなら、極楽そのものだな。
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2011年11月10日 木曜日 リハビリ・映画と音楽 ノスタルジア(郷愁)

2011-11-10 07:32:45 | 音楽帳
80年代の初頭、ソ連の映画家、アンドレイ・タルコフスキーの映画が取り上げられた。
当時、日本でも一部のトレンドに敏感な胡散臭い連中が取り上げ、その一部やイメージ映像を見た記憶はあったが、映画自体を見ることはなかった。

映画を盛んに見ることが生まれたのは、既に80年代が終わろうとし、静かな何も無い時代に入った87年以降の大学時代。
ニーチュを描いた「ルー・サロメ-善悪の此岸」ロマンティックなサスペンス「ディーヴァ」そしてタルコフスキーの「サクリファイス」「ノスタルジア」。

83年の「ノスタルジア」は、故郷を離れてイタリアに来てしまった男の魂の漂泊を、ひたすら美しい映像で淡々と描いていた。
「いわゆる映画」が描くシナリオやストーリーは一切ない。
そこには、タルコフスキーが好んで使ったしたたる水の映像、おぼろげな風景、ごくごくわずかのコトバ。
この映画の制作場面でタルコフスキーが怒りながら「もっとこう」と指示を現場にしているのを見た。
この「ノスタルジア」は、タルコフスキー自身の魂の潤みを描こうとしていたものだった。


「この美しい雨しずくのようなもの この混沌とした世界の中のある小さな調べ
なぜ私たちはこういう音楽を聴くことが出来ないのか・・・」
イーノが病床で出会ったアンビエントという何がしかの私的時間の発見。
そして、そこへ傾斜していくイーノ。

タルコフスキーの「ノスタルジア」は、映画、というより音楽そのもの、しかもイーノの言わんとしたものとも近い。
極めて個人の私的な内面。
そんな孤独を背負いながら、内省の末に萌芽した、魂の種のようなもの。
個人的な時間の流れの中で、ひっそりと生まれた内面の潤み。

***

ジャパンを82年に断ち切り、個人の孤独を引き受ける覚悟を決めたデヴィッド・シルヴィアンが、ソロとして音楽を次第に創っていく様は、上記に書いた内面世界と密接に繋がっていた。

1984年秋に完成した「ブリリアント・トゥリーズ」。
そこには、内省の境地で、孤絶した内的時間のスティルの中から、まるでウイスキーが次第に醸造されていくようにして、ひっそりと生まれたもの。
デヴィッド・シルヴィアンそのものの存在が全てこの中に収まっている。


「ノスタルジア」が、タルコフスキーとの共鳴で産まれる。
付き合い深いエンジニアのスティーヴ・ナーイが、デヴィッドの志と共鳴し、細部に至る音にまで、極めて静かな音色で全体をトリートメントしていく。

David Sylvian 「Nostalgia」


緑の野原に聴こえる声
彼らの喜びや平静や楽しみは 僕の心のさすらいに消え去った
思い出の歳月に形づけられた木々の枝を 僕は切り取っている
彼らの幻影を僕の中から追い払おうと

貯水池に立つ波の音
僕は郷愁におぼれる  (デヴィッド・シルヴィアン「ノスタルジア」)

***

こういった音楽や映画が人々を捉えるのは、個人の内面でしか生まれない潤みそのものへの共感であり共鳴。
そういうことが分かる人だけには、何を意味しているかが分かるからである。

「一歩一歩あゆむにつれ、はるか後方へ向かうなら、考えにひたるたびに、僕は故郷に近づくはず」
(デヴィッド・シルヴィアン「輝ける樹々(ブリリアント・トゥリーズ」)
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2011年11月9日 水曜日 リハビリ・暮らし 今こうしていられること、そのもの

2011-11-09 21:03:03 | 雑記帳

ウルリッヒ・シュナウスのアルバム「グッド・バイ」のジャケット。
つい太宰治の最終作品「グッド・バイ」を思い出してしまう。

昨夜、コチャコ・お袋さんへ会うため、実家に泊まり・ラジオを聴きながら寝ていると、暗闇に自分の名をうめく、苦しい声にうなされて起きた。
夢半分でうつろに起きて廊下に出ると、お袋さんがゆかに横になって苦しんでいた。

両足が吊った、とのことで、痛み止めの薬をまさぐり探して、水と共に渡して飲んでもらった。
数十分で「だいじょうぶだ」と言って寝床に再び向かった。
本当にだいじょうぶなのかの心配は、夜の中消えなかった。

取り残された自分は、睡眠薬服用後に起こされたのもあり、眠るに眠れなくなった。
昔あった事柄や嫌な経験が頭の中を駆け巡って、収まらなくなった。
親の見たこと無い苦しい声と表情と姿を見て、死がよぎったのも1つにあった。

朝、大して眠れないまま、ひどい抑鬱感に襲われつつ、何とか電車に乗った。

***

仕事場に向かい、そこで出会った、適当なことをしている人々が許せなくて、電話で・メールで・・「おかしいじゃないですか」と、とめどもなく何もかもが許せなくなった。
昨夜と同じ興奮状態と悲劇的感情が抑えられない。

トイレで映る顔に、ぼんやりと「死」相がにじむ。目の下にクマ。

***

そんな折、ケータイで、コトバ探しをしていたら、Q&Aに、コトバのかけらを見い出した。
自分に気になった箇所だけ抜粋する。
「頑張る」というコトバは、一切好まないが。


Q:死にたくなる時、皆さんはどうやって踏みとどまりますか? 夜、一人でベランダに立って色々と考えてしまいます。

Aさん:お願いですから死ぬのは止めてください。生きていてば、必ず楽しいことがあります。
楽しいことありましたでしょう。今は、一番苦しい時期なだけです。頑張って乗り越えるのが、人間の英知です。

ここで踏ん張れば、また上がっていくことが必ずできます。人間の生きる目的は「幸福」の追求です。
死は、それに値しません。死んだら、全てが「無」になるだけです。
思い出も、夢も、家族・友人達との交流も、何もかも無くなってしまいます。

死ぬのはいつの日か、お迎えが必ずやってきます。それまでは、頑張って、頑張って、さらに頑張って生きてください。


Bさん:自分に価値があるから生きる、無いから死ぬ、ではなく、生き抜く事に価値があります。また死んで楽になることはありません。
無になると思っていたのにあいかわらず自分の意識が存在しパニックに陥り暗闇に閉じこもり何度も自殺をくり返す事になります。
「何で生き抜かなかったのか」という後悔がずっと続くと思います。

私も自殺を決意し、向こうの入り口に行くまで信じる事ができませんでした。ですが、私は亡くなっていた可能性も高かったと思います。
何もこれ以上苦しむ道を選ばなくても楽に生きれる方法を考えた方がいいと思うのですが・・・。
もしも決行してしまい「本当だった」と気づいても遅いのです。そんな後悔の道は歩んでほしくないのです。


Cさん:死ぬのは、寿命がくれば嫌でもいつでもお迎えがやってきます。それまでは、精一杯頑張って生きようと決心しています。


Dさん:自分は死ねないから生きている、好きな音楽を聴いて、時々美味しいもの食べて、ほんの少し美しい映画を休日に見る楽しみがあれば、それでいいではありませんか。
そのためには、少し働けばいいのです。そう思えば楽ではありませんか。
死ぬなんて、馬鹿馬鹿しいです。プライドも捨てて、ありのままで生きていけばいいではありませんか。


Eさん:ひっそりと黙々と仕事をこなして、生きること、そのほうが、世の中の人はありがたいのですよ。


Fさん:以前に友人が自殺してしまいました。死んでしまったら本当に何もしてあげられないし、二度と逢えないのだと思い知りました。
やり場のない悲しみでした。質問者さまにもご家族、お友達がいらしゃると思います。ご自分を大切になさってください。


Gさん:気持ちは分かりますが、仕事が見つかれば全て解決でしょうか。
衣食住は人間にとって大切なものではありますが、それが満たされれば人はALL OKなのでしょうか。

何のために働くのかと聞かれれば生きるためだと言う。ならば働くのは生きるための手段にすぎないはず。
生きるのが主で働くのは従のはず。なのに仕事が無いから死ぬとはこれいかに。
仕事のために生きるのか、生きるために仕事をするのかちょっと考えてみたらどうでしょうか。

***

自分には、Dさんのコトバが響いた。とはいえ、その通りにはいかないが。
何が正解かはわからないけれども、スキマから漏れる1つの光のように感じる。
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2011年11月9日 水曜日 リハビリ・写真 御茶ノ水・秋(4日)

2011-11-09 07:34:53 | 写真日和
先週金曜日は、なかなか行けなかった順天堂へ。
頚椎ヘルニアの絶え間ない痛みがぶり返してきていたことと、クスリが切れたのもある。


朝の御茶ノ水駅。


朝の聖橋。
少しガスっている。


朝の光が反射している。


予約をすると、まずは外で一服する。
WHO影響のタバコ狩りプロパガンダ・ポスターは、このありさま。
怨念がヤキとなって入ったアーティスティックな作品。


抑鬱がひどい場面があると貞子先生に話すと、処方箋を変えてくれた。
先生はよくうつろになり、首を前に垂れて沈み込むことがある。
「先生も大変だけど、余りコンを詰めないように。」
どちらが患者かわからない。そういう関係にまでなれた。
先生は「大丈夫」と少し顔を緩める。

ペイン科では、ヘルニアがときに頭痛にまで行くことがあると言うと、頓服を出してくれた。


駅前通りのディスク・ユニオン。
早めの昼食を摂る。


画材屋さんのLEMON。聖橋の絵が飾ってあった。


駅前通りに日が優しく差す。
古本屋さんの店頭でおじさんが本を見ている。


駅前に咲く、朝顔。


ニコライ堂。


この日は、25度近い暑さ。
アイスコーヒーを呑み、仕事場に向かう。


向かう道では、昼間の公園にたたずむ人々。


仕事ばかりでは息詰まるので、屋上に出てみると夕暮れ空が美しい。


夕暮れをよぎっていく飛行船の灯り。
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2011年11月8日 火曜日 リハビリ・写真 文化の秋(3日・祝日)

2011-11-08 07:31:52 | 写真日和
3日の祝日は、常に憂鬱に包まれていた自分には珍しく、ほんのわずかの明かりのようなこころが癒された日だった。
普段、過労と鬱から寝すぎて家に閉じこもるのが、休みの通例のところ、早めに起きて飛び出したおかげ。


花、というものは、なんて可愛いんだろうか?
けなげに咲く。
それは誰のためでは無くて、花自身の命。
いつも黙って耐えて生きている植物たちというのは、達観している。
見ていてトリコになる。


秋葉原から新宿線。
普段は歩くが、時間を急ぐために岩本町から神保町に抜ける。


岩波ホールの出口から出る。


すると、神田古本まつりの最終日。
人々のにぎわいに、ほっとする。
秋。
好きな本を訪ねて、みんな本が好きな人が集まってきていた。


矢口書店。


スーツをまずは作る。
2着。
親切な店員さんが色々なサイズと色を着せてくれながら、自分に合うものを選び出してくれる。
そんな束の間、店内から外を一発撮影。


自分がこのお店を好むのは、価格の割にはしっかりしていることと、店員さんのしっかりさ。
1年前にウエストが91cmだったのが78cmになっていて驚かれ、この1年の苦労話をする。
写真ではグレイに見えるが、光の関係で、実際は黒。
2着、裾上げなどを指示してお店を出る。
「親切にしてもらって、ありがとうございました。」


かなりお店で時間を掛けてしまい、外に出ると既に夕闇。
ぼんぼりの連なる様が愛らしい。

携帯のお店に寄って相談をするが、これまた親切丁寧な女性。
30代の方だろうが、その和的な美しさと優しさに心惹かれる。
この携帯会社の本体のふんぞり返る様とは、全く真逆。
それもそうなのが外部だから。
普段、優しさとは無縁な殺伐した仕事場にしか居ないので、優しさが身に染みる。
パンフレットを袋に入れながら、女性は通りを見やって「今日は、にぎやかですねえ」とクスっと微笑む。
「そうでうね」と自分も笑う。
外を見やる横顔日本的な憂いの美しさ。とても風情のある女性だった。
「丁寧にしてもらって、ありがとうございました。」


昔から長年あるメガネ屋さんのディスプレイ。
また少し経てば、ジョン・レノンの命日が巡りやってくる。
あの日は寒い日だったな。




床屋さんでバリカンを入れる。
9mm。
最初は「ムスッ」とした人で、嫌な感じだなと思ったが、仕上がった段階で「バリカンはねえ、側面だけ入れると、必ず頭頂部の両はしが伸びてツノが出る。だから、最後に丸く内側まで入れるんだよ。そうすれば、ツノは生えないから。」
そんなアドバイス。職人気質なだけで、中身は良い人だった。
「ありがとう。」


ジャニスにもぶらりとは寄るが、一通り見て去る。
疲れたので。


神保町のとあるお花屋さん。
お店は締まっていたが、ディスプレイは既にサンタ。
暗い中で輝くツリーに優しさを感じる。


夜の南天。
歩いて、秋葉原方向へと写真を撮りながら向かう。


JRの高架下。昔のまんま。


やっと喫茶店で一服。


今日、偶然古本まつりで出会った本「土着喫茶」。
大事に読む。
人のココロの優しさが、この本には詰まっている。

素敵な1日だった。
コメント (7)
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