●多分、今年中に、大手メディアのどこかは、潰れるかどこかと統合される。
●過去「ホリエモン」という人が居て、逮捕という事件に至ったが、果たして彼が捕まり、「誰か」が捕まらなかったか?
歴史は、全てウラのフィクサーによって動かされている。
●そのフィクサーと繋がっているのが大手メディアという営利団体であり、繋がっていないのが浮遊する生き物=ネット社会であり・一般人や良識人をスポンサーとして成立している真相を語る一部のメディアである。
●やっと、大手メディアにほころびが出て、その大手メディアが滅亡の時期に差しかかったと、自分は思っている。
***
●大手メディアは、このわが国である「日本」を、そして「日本人」を、その外側に居る「誰か」に擦り寄るために、偏向した報道・歪曲・捏造をし続けているのである。
これは、許されてはならない事である。
●「南京大虐殺」「従軍慰安婦」「靖国神社問題」これらは、全てそういう絡みから生まれた「反日キャンペーン」である。
●某新聞で、上記いずれかの記事を先頭切って書いた者は、日本海の向こう側の半島の手前の国の支局におり、奥さんはその国の人、という背景もある。
火を付けるという意味では、赤報隊も標的としたが、某新聞は常に放火魔みたいなものである。
***
●大手新聞は、D印刷かT印刷で刷られているが、同時に、138の国でカルト指定を受けている、極めて異様な新聞も同時に刷られている。
また、さまざまな雑誌類もこの寡占化した印刷分野でほぼ刷られている。
●同様に、広告業界はといえば、寡占化とは言いがたく、ほぼD社の独占状態にある。
●〔大手新聞-大手印刷会社-大手広告会社-大手テレビ局〕、これらは全て相互に温存された世界を築き、事実とは異なる「反日キャンペーン」を組み、私腹を肥やしてきた。
●我々が壊すべき対象は、その世界にしかない。
「日本」に住み「日本人」として生きる事にドロをかける者には、それ相応の革命が必要なのだと思う。
***
●一橋文哉の本は好きでさんざん読んだが、「オウム帝国の正体」 という本には、東京の某テレビ局が、「反オウム」であった坂本弁護士にインタビューしたヴィデオを、放映前にオウム幹部に見せてしまった事実が記載されている。
その後、某テレビ局は「坂本弁護士一家失踪事件」が起きても、知らないフリをして報道を続けていたのである。
この事件の犯行はオウムだったが、その導火線に火を灯したのは明らかに某テレビ局である。
また、この某テレビ局は、拉致監禁された国との間にも介在している。
まさに殺人報道局と言える。
●2009年、民社党が自公を選挙で倒したが、公のトップはそれを支える「誰か」にどんなツラを下げて、謝罪に行ったのだろうか?
また、それまでは、「日本」という国の中枢に、公が居座っていた事は日本人として恥ずべき事である。
●しかし、それが誰も言えないのは、まさに公(おおやけ)の事実である。
というのも、大手新聞の広告・ラジオのCM等に見事に載って居る事で明らかだろうからだ。あらゆるところに公は潜んでいるのだから。
「政教分離の原則」に反して、公明党には大きな支持母体があり、その恩恵を〔大手新聞-大手印刷会社-大手広告会社-大手テレビ局〕は受けているから、「何も言えない」のだ。
●信濃町の慶応病院の向かいの本屋さん、そこに行くと異様な事に気づく。
普通の本が置いていないからである。
公明党の支持母体の宗教の聖地であるからだ。
試しに喫茶店に行くといい。
自分は2人のおばはんが「何々さんは、〇十万お布施したらしいわよ」と話していたりするのを聞くことが出来る。
***
●自分は、東京に生まれ育ったが、大阪でドロにまみれて、濃厚にその文化圏の違いをまざまざとカラダで味わった。
「東京」は、流入・流出の多き、多様性を持っているがゆえに、「異人」への警戒感も薄く、その素姓を尋ねない「利点」がある。
しかし、その「利点」は「盲点」でもある。
「東京」の学校は、「道徳」という時間があったが、近畿圏には、「別の道徳」の時間がある。
これは大きな違いであろう。
「異人」だらけの東京⇔局所的に「異人」が居る近畿圏。
混じりあい混在している「東京」と異なる文化を自分は当時、遅かりしだが思い知った。
●そして、そこに「利権」があり、公務員なのに仕事場にも行かず給料を貰いながら、外車を乗り回して遊んでいる人々が居るという事実も明らかになっている。
それは、ごく一部の現象に過ぎないが・・・。
***
●私は、8月15日になると、この国のために命を掛けた人々の魂を鎮めるために靖国神社に行く。
外国はそれを批判するが、なぜ、ヨソの国の鎮魂に対して、口を挟む権利があるのだろうか?
●「戦犯」とはあいまいになっているが「東京裁判」とはそもそも勝利国がやりたいように、敗戦国を裁くという、でっちあげの裁判に過ぎない。
そこで、何が裁かれ、何が裁かれなかったのか?
●毎年、8月15日の暑い九段の坂を上る度に、凱旋車がたくさん居るが、この中に居る人々は、本当に鎮魂の為の日本人なのだろうか?
***
●さまざまな思いを、つらつらと無作為に書き綴ってきたが、戦後、既に1945年(昭和20年)から65年が経った。
この日本は、また、日本人は、この宙ぶらりんのカタチの崩れたクニに居る。
これから、どこに向かっていくのだろうか・・・・。
●暗躍する人・組織たちに負けず、櫻井よし子さんのような聡明な方が、堂々と「本当の事」を言うコトバが、日本人の心に響く事を祈ります。
それは自由でも民主主義でもない。
日本だ。
われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。
これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。
われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。
政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。
われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢みた。
しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。
もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。
憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、国軍の礎石たらんとした。
国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。
政体を警察力を以て守りきれない段階に来てはじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。
日本の軍隊の建軍の本義とは「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。
時は再び1985年に戻る。
そして、12月の師走。
今になって冷静に捉えても、やはり、この1985年から1986年末が、個人的な80年代の進歩的音楽世界の終焉の地点に思える。
ニュー・ウェイヴの流れが、「明日はより違う明日」と引っ張って来た音楽の進歩的世界が、最終コーナーに来ていた感が強い。
***
この1985年12月は、クラッシュが空中分解の状態で最後のアルバムを出し、エコー&ザ・バニーメンが極めてポップな「ブリング・オン・ザ・ダンシング・ホーセズ」というシングルと『シングルズ』というバンド総括のアルバムを、また、ジョニ・ミッチェルがトーマス・ドルビーをプロデューサーに起用し、そして、ZTTレーベルのリーダー、トレヴァー・ホーンが次の「題材」にグレイス・ジョーンズを扱い、かと言えば日本では「夕やけニャンニャン」のおニャン子クラブを「題材」に秋元康がやりたい放題やっている、という混沌とした状況だった。
音の要素としては、やはり、サンプリングを用いた擬似音の渦に入っていた。
それが、すごく手触りとしては、自分が好きな機械の音にも関わらず、手でさわれないかのような・霧の森の中をさまよっているような感覚に漂っていた。
トレヴァー・ホーンとグレイス・ジョーンズの繋がりは、共にアイランド・レコード所属である点であったが、グレイス・ジョーンズは、元々はモデルであって、色んな装飾を加えて様々な姿を演じられるという、トレヴァー・ホーンにとっては格好の素材だったのだろう。
彼女の作品で個人的に好きだったのは、1982年の作品「Living My Life」だった。
スライ&ロビーとのコンビの、とてもおだやかでオシャレな心地よいレゲエの世界で、イイアルバムだったなあ・・・。(オススメです)
***
しかし、この「Slave To The Rhythm」という曲を初めてヘッドフォンで聴いたとき、イントロでキラッと星のように輝く音の、余りの綺麗さに驚いた。
「さすがトレヴァー・ホーン・・・・」と言わざるを得ない音空間の奥行きにいざなわれた。
また、このアルバムがトレヴァー・ホーンらしいのは、AB面合わせて8曲が全部同じ曲のバリエーションという点だった。
「あいつ、ついにーやりおったなー」と、寅さんの御前様の笠智衆さんのように思った。
***
アート・オブ・ノイズ、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド、プロパガンダと、さまざまな「ヴァージョン」違いを出し続けた世界は、今の音楽では当たり前になってしまったが、それを徹底的に音楽市場を利用し揺さぶり遊び、実験をしたのはトレヴァー・ホーンが初めだったのかもしれない。
しかし、アート・オブ・ノイズの「顔」である上のジャケット【写真】のように、仮面を被って大衆をウラで操る、という確信犯的な「いかがわしさ」「うさん臭さ」という点では、トレヴァー・ホーンと秋元康はそっくりである。
そして、12月の師走。
今になって冷静に捉えても、やはり、この1985年から1986年末が、個人的な80年代の進歩的音楽世界の終焉の地点に思える。
ニュー・ウェイヴの流れが、「明日はより違う明日」と引っ張って来た音楽の進歩的世界が、最終コーナーに来ていた感が強い。
***
この1985年12月は、クラッシュが空中分解の状態で最後のアルバムを出し、エコー&ザ・バニーメンが極めてポップな「ブリング・オン・ザ・ダンシング・ホーセズ」というシングルと『シングルズ』というバンド総括のアルバムを、また、ジョニ・ミッチェルがトーマス・ドルビーをプロデューサーに起用し、そして、ZTTレーベルのリーダー、トレヴァー・ホーンが次の「題材」にグレイス・ジョーンズを扱い、かと言えば日本では「夕やけニャンニャン」のおニャン子クラブを「題材」に秋元康がやりたい放題やっている、という混沌とした状況だった。
音の要素としては、やはり、サンプリングを用いた擬似音の渦に入っていた。
それが、すごく手触りとしては、自分が好きな機械の音にも関わらず、手でさわれないかのような・霧の森の中をさまよっているような感覚に漂っていた。
トレヴァー・ホーンとグレイス・ジョーンズの繋がりは、共にアイランド・レコード所属である点であったが、グレイス・ジョーンズは、元々はモデルであって、色んな装飾を加えて様々な姿を演じられるという、トレヴァー・ホーンにとっては格好の素材だったのだろう。
彼女の作品で個人的に好きだったのは、1982年の作品「Living My Life」だった。
スライ&ロビーとのコンビの、とてもおだやかでオシャレな心地よいレゲエの世界で、イイアルバムだったなあ・・・。(オススメです)
***
しかし、この「Slave To The Rhythm」という曲を初めてヘッドフォンで聴いたとき、イントロでキラッと星のように輝く音の、余りの綺麗さに驚いた。
「さすがトレヴァー・ホーン・・・・」と言わざるを得ない音空間の奥行きにいざなわれた。
また、このアルバムがトレヴァー・ホーンらしいのは、AB面合わせて8曲が全部同じ曲のバリエーションという点だった。
「あいつ、ついにーやりおったなー」と、寅さんの御前様の笠智衆さんのように思った。
***
アート・オブ・ノイズ、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド、プロパガンダと、さまざまな「ヴァージョン」違いを出し続けた世界は、今の音楽では当たり前になってしまったが、それを徹底的に音楽市場を利用し揺さぶり遊び、実験をしたのはトレヴァー・ホーンが初めだったのかもしれない。
しかし、アート・オブ・ノイズの「顔」である上のジャケット【写真】のように、仮面を被って大衆をウラで操る、という確信犯的な「いかがわしさ」「うさん臭さ」という点では、トレヴァー・ホーンと秋元康はそっくりである。
年末年始と言いながら、今年ほど悲壮感のある、迎えるにも恐ろしい「新年」は無かった。
なぜならば、言うまでも無く「日本」に良い事が起きないのが確実であるからだ。
***
とはいえ・・・
12月30日、毎年恒例のMZ師・ハブ噛み師匠と3人での「年送り会」を行い、肉食を断つ自分も、この日は、万霊の動物に感謝の祈りを捧げて、ありがたく肉を入れたナベを食した。
12月31日、唯一テレビを見ようと思っていた「行く年来る年」も、兄・両親に上げるDVDを焼くのに手間取り、23:58にテレビを付ける事になってしまった。
しかし、映った増上寺では「カウントダウン?」「風船上げ?」
ひどいものだ。
すっかり年明けまでもが、単なる「イベント」と化してしまったんだなあ、と思いテレビをすぐ切り、1人年越しそばを食べる。
1月1日~2日、実家に戻り、まみちゃんの居なくなった空白感を感じながらも、兄夫婦・両親と会い、しきたりに従う。
1月3日、ひたすら暗い室内で、布団にくるまり、稲川淳二さんの「怖い話」のmp3を聴いていた。林家一門のように同族継承に過ぎない「形式」のみの落語を聴くより、語り部としての稲川淳二さんの話というのは面白い。
周囲から見たら「暗いなあ」と言われるだろうが、自分には性に合っている。
1月4日、しかし仕事休みも、もう今日で終わり。
このひたすらどん底に落ちてゆく気分の中、それでも、軌道を戻さねばと思いつつ、いろいろ音楽を選んだが、どれも「ややこしく」「ひっかかりがあり」落ちた気分をフラットに戻してくれない。
そんな中選んだ上、フィットしたのが、ロキシー・ミュージックの「ダンス・アウェイ」。
この洋盤の7インチ・シングルは、探しに探して、ここ10年のうちにとある店で発見した。
ロキシー後期の「マニフェスト」に入った1曲。
すんごくポップで、美しい曲だが、終着点となった名盤「アヴァロン」同様、この曲にも「ここでは無い何処か」へいざなうチカラを持っている。
しかし、それは、渡辺美里が歌う「変わりはじめた~マ~イレボリューション♪」という「明らかに有りもしない明日」への視線では無いのだ。
【Roxy Music - Dance Away (Extended) 】
ヨーロッパの暗い耽美的世界をさんざんくぐりぬけ、経験した上で、「Dance Away」と言い切る事、そういうロキシーだから信じられる、突き抜けるようなポップさ。
カンペキというしかない曲だと思います。
そして、珍しく、そこには、不思議な幸福感、ほの灯かりのような日差しが感じられる。
今日は、久々にこの曲を聴き、救われたような気持ちになった。
曲の最初のタバコに火を点け「フゥー」という音が、フェリーらしくカッコイイ。(このYOUTUBEのエクステンデッド・ヴァージョンには無いが)
なぜならば、言うまでも無く「日本」に良い事が起きないのが確実であるからだ。
***
とはいえ・・・
12月30日、毎年恒例のMZ師・ハブ噛み師匠と3人での「年送り会」を行い、肉食を断つ自分も、この日は、万霊の動物に感謝の祈りを捧げて、ありがたく肉を入れたナベを食した。
12月31日、唯一テレビを見ようと思っていた「行く年来る年」も、兄・両親に上げるDVDを焼くのに手間取り、23:58にテレビを付ける事になってしまった。
しかし、映った増上寺では「カウントダウン?」「風船上げ?」
ひどいものだ。
すっかり年明けまでもが、単なる「イベント」と化してしまったんだなあ、と思いテレビをすぐ切り、1人年越しそばを食べる。
1月1日~2日、実家に戻り、まみちゃんの居なくなった空白感を感じながらも、兄夫婦・両親と会い、しきたりに従う。
1月3日、ひたすら暗い室内で、布団にくるまり、稲川淳二さんの「怖い話」のmp3を聴いていた。林家一門のように同族継承に過ぎない「形式」のみの落語を聴くより、語り部としての稲川淳二さんの話というのは面白い。
周囲から見たら「暗いなあ」と言われるだろうが、自分には性に合っている。
1月4日、しかし仕事休みも、もう今日で終わり。
このひたすらどん底に落ちてゆく気分の中、それでも、軌道を戻さねばと思いつつ、いろいろ音楽を選んだが、どれも「ややこしく」「ひっかかりがあり」落ちた気分をフラットに戻してくれない。
そんな中選んだ上、フィットしたのが、ロキシー・ミュージックの「ダンス・アウェイ」。
この洋盤の7インチ・シングルは、探しに探して、ここ10年のうちにとある店で発見した。
ロキシー後期の「マニフェスト」に入った1曲。
すんごくポップで、美しい曲だが、終着点となった名盤「アヴァロン」同様、この曲にも「ここでは無い何処か」へいざなうチカラを持っている。
しかし、それは、渡辺美里が歌う「変わりはじめた~マ~イレボリューション♪」という「明らかに有りもしない明日」への視線では無いのだ。
【Roxy Music - Dance Away (Extended) 】
ヨーロッパの暗い耽美的世界をさんざんくぐりぬけ、経験した上で、「Dance Away」と言い切る事、そういうロキシーだから信じられる、突き抜けるようなポップさ。
カンペキというしかない曲だと思います。
そして、珍しく、そこには、不思議な幸福感、ほの灯かりのような日差しが感じられる。
今日は、久々にこの曲を聴き、救われたような気持ちになった。
曲の最初のタバコに火を点け「フゥー」という音が、フェリーらしくカッコイイ。(このYOUTUBEのエクステンデッド・ヴァージョンには無いが)
幼い頃、日本人として新年を迎えることは、ヨロコビであり、正月は神秘的な時空であったが、もはや、そういう気持ちは、自分の中にはなくなってしまった。
それは非常に悲しい事だが、いくら表面的にごまかせても、自分の気持ちにはウソは付けない。
2009年は、相棒まみちゃんを失ってしまったし、また、2010年がこの日本と自分の仕事を含めた周囲の世界に不安と落胆しかもたらさないだろうことを、自分は既に見抜いてしまっている。
自分は、小学生の頃からかかさず年賀状を書き続けてきたが、今年は「喪」で明けるべきと思い、年賀状を、このような写真で飾る事とした。
旧態依然とした「社会」に属す自分は、たぶん、このはがきを出す事によって、より「変人扱い」されるであろう事はわかってはいるが、まみちゃんの「死」を背負い、日本の「死」までまじかに迫ったこの時期、「おめでとう」とは口からは出なかった。
親兄弟にも、呑み屋のお姉さんのメールにも、目の前に「死」を突きつけるのが正しい姿なのだ。
***
12月31日 偶然、7時過ぎに起きた自分は散歩に出かけ、1時間半汗をかくまで写真を撮り、歩いた。
向島界隈の下町のありふれた、しかし、愛すべき街の姿を表面的に年賀状に載せようかとも思ったが、いまいち自分の気持ちとはフィットしなかった。
自分が敬愛するアラーキーは、80年代の終わりに、「昭和」の終わりと再開発の波に飲まれて消えてゆこうとする「東京」の街をダブらせて、東京を「死をはらむ予感のする街」として撮った。
それをまとめたアルバムが「東京物語」という素晴らしい写真集であるが、何か自分も、今、そういう気分の中に居る。
対岸に見える「トーキョー・スカイ・ツリー」と、此岸に偶然止まった鳥、ゆりかもめの1ショット。
それは、自分には、黄泉の世界のように見えて、ポストカードに印刷することにした。
そして、2010年は、自分にとって、今までには無い、「死」から始めるべき年となったのだ。