カメラを持って街をさまよっているさなかは、まごまごしていると目の前ですべてが移ろい行くので、撮る、という意識は無く、心のおもむくままにシャッターを切っている。映ったものを確認する間は無いから、次に行く。次第にカメラと眼と歩くカラダが一体化していく。
映った結果が、空塔の下でクチをポカンと開けたすまほ者と大して変わらなくとも、別にかまわない。
「良く」撮る「うまく」撮る、とは何だらうか?
土曜昨日2万5600歩が響き、ひどい腰痛で途中マッサージに立ち寄った。
マッサージには行くまい、と決めていたが、いくらストレッチをしようが、つらさが乗じて一時の気休めと分かっていても、最近またマッサージ通いが始まってしまった。
会う人は皆、背中と肩を触って「いったいどうやってら、こんな石みたいな状態になるんですか」と、あたかも不摂生人であるかのような、みなし説教をする。それは昔も今も同じだ。
だが、最近のコリの要因は、私的解釈では、筋力が落ちているせいと思っている。腰痛の実の要因は腰部・お尻の肉が無くなって骨ばってしまったせいである。
食は魚・野菜・豆類中心は変わらないが、そうだ油が足りないのかも、と魚なら刺身から脂の乗った魚にを焼いたり、野菜も炒めたりするが、どうもそういったことでもなさそうだ。
さらに、ようようと眠れず、眠ったかと思えば、3時間も経つと起きてしまう。また、それ以上寝ようと思っても、腰が痛くて起きてしまう。
そのへんをうろうろする深夜は多い。
「ガンじゃないのか?何か重大な病気なんじゃないか?」そういう不安がよぎるクセも昔と同じ。
腰痛以外に背中・肩・首のコリ、そこから派生したと思われる頭痛がこの一か月発生。さすがに頭痛は今まで無かった。「脳の病気の前兆じゃないのか?」と思うが、それも同上。
すぐに病気に結び付けるが、だからと言って、それだけのためには病院にはいかない。
この数年、歩き過ぎかつ撮り過ぎ、と思う。
今日だって、足は腫れているし、まともに歩けないクセに外に出て、またたんまり歩いてしまう。
だが、外で天気がうごめいていると、うずうずしてしまい、外に出てしまう。
今日は近所だけを短時間ね、と言い聞かせ、鳩びっこをひきずりトロトロ歩く路地の角っこに花が咲いていて、それを撮る。
その少し先の古い家に光が差している。そこまで歩いてまた一枚シャッターを切る。
これを続けていくうちに、また「やりすぎ」となる。これを不摂生、というならそうかもしれない。
ブレーキというものを知らないまま、行けるとこまで行ってしまう。
陽が暮れて、足腰痛みながら帰る。ごはんを作って食べると、さすがに疲労が出始めて眠くなる。うすーいショーチューをお湯割りにする。
最近思うこと。
歩く最中に紙にメモをしたり、音楽を聴いたり、そうして空を仰ぎ・街を俯瞰するのだが、いざ帰ってパソコンで何かを書いても・写真をリサイズしても、そういう作業をしているうちに、どうもしっくり来なくなってきてやめる。それを繰り返す。お蔭で書きかけの原稿下書きが山のようにあるが、それをブログにアップすべく推敲するだけの後押しが無い。
全てがイカサマのように思えてくるのだ。
ひと手間を加える。その間に、何かがズレ、何かが去ってゆく。
それは調味料を加えすぎたり・不慮に冷めてしまった料理のようでもあるし、描き込みすぎてしまった絵の過程にもそう思う境目である。
まだそう言える今日は、逆にマシであって、比較的しっくりきている方だ。
音も写真も。映っている画像や聴こえている音だけじゃないものが作用している。
■ブレイン・レイニンガー&スティーヴン・ブラウン 「イベリア」1989(ポルトガルライヴ)■
今日撮った寄せ集め