こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2014年10月10日 金曜日 月が一休みする夜

2014-10-10 23:57:38 | 雑記帳

2013年10月10日
本人がみずからを「じぶんもおぢさんだから、おばさんだから」と、容認するのはいつだろうか?
ヒトぞれぞれだが、誰に言われようが言われまいが、認知レベルならまだしも、さげすみ出す行為・だらしない呼称を平気に率先して“自ら””本気で”言い出した瞬間、悪趣味な堕落が始まる。
そのような言行は、少なくとも、今の私にはアウトを意味する。

信用可能な医学者が言うことだが、”そう言った”時点からそのヒトは見事に、おじさん・おばさん的に変態していく。さげすむのだから当然かもしれない。
だからと言ってマゾのように忍耐で我慢する必要も無いし、他人は他人で勝手にすれば良い。

アウトとは大竹伸朗さんの言葉、そのまま引用だが、
かと言って、烏合の群れのように、いい歳こいて女子会だ・美魔女だと言っては、一見つるんでいるようにみえて・実はお互い死ねと思っている女同士の同調しているフリ。そんなみにくさ・あさましさの結晶のような痛ましい光景写真には、眼をそむけたくなる。
(まだ、ジェーン・スーさんの「きさまいつまで女子でいるつもりだ問題」は読めていない。)

私は、男女関係において、未だ全てゆきずりの関係で終わっており、社会公認/容認の法的夫婦生活制度に準拠したことが無い。その背景が大いに作用しているのだが、四十後半になってまで、年齢相応的(?)意識が全然ない。
よく開き直った「おぢさんの日々のつぶやき」といった類のブログなどがあるのを見るが、正直感心しない。年齢とヒトのありようは別であるにも関わらず、なぜだか味噌もクソも一緒にしてしまう人に虫唾が走る。目茶目茶だ。

2013年10月10日
じゃあ、夢中になっていた所から、死を強く意識し出した昨年後半から今は、どうなのだ?と自らに問う。
言えば、死を意識しない生よりもまっとうじゃねえか、と強がってみる。思っている。日々の純度は増すはずだ。
生が永遠どころか、今の後がある保証は無く、今があるのみである。常に今だけがある。
この意識はそれなりの歳となったから、でもなく、過去クライシスになったとき、十代で狂気に至ったとき、死を覚悟した阪神淡路大震災の夜明け等、今迄も様々な場面で立ち現れたもの。

こういった姿勢を、いつものネガティヴな考えでしょ、としか捉えられないヤカラが多い。あるいは、こういう語りをするとき、その場の周囲は“またまた冗談を”と流して終わるのが大抵である。

私は半笑いで流している者の顔を、じいっと見て終わる。彼らは、その深淵を覗いて抜けられなくなるのが怖いから、彼らにとって触れてはいけないぬかるまを意識の外に出そうとする。彼らの中では、差別対象化して排除する意識しか無いのだ。

言わんとするなにがしかは決して通じない。所詮他人はそんなもので、いつものごとく。
過去80年代で言えば、このようなことを言う者は、発言するのみで「根が暗い」とレッテルを貼り、隔離・差別されたように。
よくメディアは表面づらで「いじめ撲滅」など安易な発言を行うが、一方ではこの平成二十六年「メディアと市民が協力し合って」公然と目の前で吊るし上げと袋叩きを実行し、結果自殺者を産むに至る事件を幾度も目撃した。「こらっ」と叱る行為とのへだたり。
殺人実務に民間人が加担する、狂ったありようが浮かびあがる。

そんな半笑いする他人は、大地震や天変地異が来た途端に、緩かった表情から正気の真顔に帰る。その様に大笑いする場面は多々ある。
面白いことに、311後の流れ同様、一瞬覚醒した意識はそのときだけで、一定の安静に戻ればすっかりと忘れ去って、再び都市生活の催眠に掛かってしまう。

2013年10月10日
こんな昨今の自分が、いっそう悲観的なのか、と思われるだろうが、そのようなことはない。
このカドを曲がったらどんな光が街を照らしているのだろうかと、外に出たら最後、ずんずん路地を進み写真を撮り歩きまくっている。帰れば、ノリ・ハサミなどの道具で延々とゴミスクラップを作り、ノートにメモ書きをする。
一方では、志村けんさんの下町物語を見たり、ジェーン・スーさんのラジオを聞いては大笑いしている。

ヒトの感情には、白も黒も無い。
だのに、ありていに分析したかのような、屁みたいな理屈で済ませ、それで安堵している。常識なり、常人あつかいするものをあらかじめ決めておいて、それ以外を排除するのが世間。
これが日本人・東京人とはもはや呼べなくなってしまった、でも(一応)日本・東京という地に住む、催眠術に掛かった多くの支配者とそこに擦り寄る者のありさまである。

デヴィッド・リンチ 「頭の記憶」1994
ネコにこんばんは。
最近、とある資格試験とやらがあり、年齢に関わらずこういったものを受験した者が多く居た。
横並びが大好きな、この国の者は「キミは受けたの?なんで受けなかったの?」と不思議がるが、むしろこちらが不思議に思う。いつまで「お手手つないで」と隣組よろしく相互監視と縛り合いをしているつもりなんだろうか。年齢浅い者が受けるのはまだしも、同年代や上の人が、世間からの強要に負け潰されている様、としか目に映らない。

カルチャースクールでは、古典などを勉強する人が増えているという。そういう場は他の人との交流で友人・知人が出来たり、新しい発見があったり、今生きる上で参考になる理由等からうなづける。
しかし、英語に始まり、資格を取得して、生きる糧にしようというもくろみは、まだ仕事を始めて浅い時ならまだしも、四十を超え・311を超えた者がやることではない。学ぶ場が愉しく、今に確かな手ごたえがあれば良いが、それをメシのタネと考えてしまう自体に危険さを感じる。
いずれにしても、こちらには関係が無い。
ネコに小判、と言うが、こちらもネコさん同様、資格よりも目の前の白いご飯の方がうれしい。

■Chris Isaak 「Wicked Game」1989■

デヴィッド・リンチ 「横たわる姿」1994
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする