こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2013年5月3日 金曜日・祝日 「Heart Wind 心の風」

2013-05-03 12:14:40 | 音楽帳

ペンギン・カフェ・オーケストラが1980年ごろから日本で人気となり、来日公演を行った。
しかし、その人気も集まる連中も、今思えば不愉快な者が多かった。
ペンギン・カフェ・オーケストラ自体は、極めて素朴な「へたうま」をも含む味を持った人々だったが、取り巻きにはインテリぶった当時のスノッブ、そして、あたかも高尚なことを述べているかのような評論家やサブカルチャー人。

この我が家のゴミ屋敷のどこかには、その来日公演のライブテープがあるはずだが、今日も遭難中。

仕事をいったん辞めた後に、一緒に沖縄にぼーっとしに行った、福岡の友人Iさんと昨夜2時間近く電話で話し、ビールを呑んで寝たのが3時だったため、今朝は10時半という遅い起床。
起きれば、いつも通り調子悪い立ち上がりだが、心身補正のため、そこからペンギン・カフェをずーっと掛けていた。

1982年春にFM東京の番組「サントリー・サウンド・マーケット」で、ブライアン・イーノのインタビュー特集が一週間組まれたが、その際にイーノと絡んだ/影響を受けた、ボウイや教授などと並んで、ペンギン・カフェ・オーケストラを主宰するサイモン・ジェフスが出てきた。
サイモン・ジェフスはイーノと出会うことによって、オブスキュアレーベルからファーストアルバムを出すことが出来た。
プロデューサーはイーノだが、サイモン・ジェフスがやることにはいっさいクチを出さずに「キミのやりたいようにやって良いよ」と言ってくれたという。

1981年、教授も細野さんもペンギン・カフェ・オーケストラを好んで聴いていたが、このバンドの特性の1つである「好きなときに・好きな人が集まって・好き勝手に音を奏でる」という発想。特定メンバー・構成員は決めない。それは、細野さんが設立したYMOの当初のコンセプトの1つとしてあったものだと言っていた。

サイモン・ジェフスという人は、ほんとうに人そのものが素朴な性格で、雑誌でインタビューを受けた際にも、拾ったか?もしくはコドモ時代から持っていたか?の、手にかぶせて遊ぶ動物の使い古した指人形を大事にしていて、それをインタビューを受けていじっていたモノクロの写真が記憶に強く残っている。

1980年ごろからの日本人気はエセ・インテリ集団の1つのタマだったのを経て(細野さんは”救済の音”として聴いていたが)、東京が次第に病んでいくに従って、ペンギン・カフェ・オーケストラは「癒し」の音楽、環境音楽的特性を強めていく。

1982年「戦場のメリークリスマス」撮影から戻って以来、音楽日記のように日々創っていった数十曲を、どうやってまとめればよいか悩み・迷っていた坂本龍一。
結果として、1984年秋に「音楽図鑑」として発表されるに至るが、その最終過程で、日本に来ていたサイモン・ジェフスと音を奏でた。
同時期に、ペンギン・カフェ・オーケストラは「ブロードキャスティング・フロム・ホーム」(我が家からの放送)を発表。
サイモン・ジェフスが「音楽図鑑」のスタジオで遊ぶ一方、2人で「Heart Wind」という曲を創り「ブロードキャスティング・フロム・ホーム」に収められている。
■Penguin Cafe Orchestra 「Heart Wind」1984■

当時、オンナ遊びの絶えない坂本龍一が、まだ矢野顕子と2人のコドモとの4人の家族が成立しえた時期。
その家にサイモン・ジェフスが泊まったか否かは、記憶におぼろだったが、デヴィッド・シルヴィアン、スティーヴ・ジャンスンは家に泊まったらしい。
その際に、(今思えば)幼い坂本美雨がスティーヴ・ジャンスンに恋をしてしまったらしく、えらくなついてしまい、アッコちゃんが見ても、それは「なつく」というよりも「恋」だったようである。
元ABCのデヴィッド・パーマーも、YMOの面々とは一時一緒のごはんを食べた仲だったが、幸宏邸や坂本邸に泊まったのだろうか。。。

残念ながらサイモン・ジェフスは、1997年に若くして脳腫瘍で突然亡くなってしまったが、ペンギン・カフェ・オーケストラは、今は息子さんが意志を継いで続けているという。
コメント
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