Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

批評の批評の不在

2008年05月10日 | ダンス
最近、ダンスの批評文をあまり書かなくなりましたよね、ブログもそんな精力的ではないし、、、的なご批判をある熱心なコンテンポラリー・ダンスのお客さんに言われ、そうだな、ちょっといろいろ考えなければと、でもどうするのがいいのかななどと思案している、昨今です。単純に、時間的な配分として、見ることの面でも書くことの面でも、ダンス以外にかける時間が多くなっているのは事実かも知れない。

「批評不在」って言葉は、ダンスの関係者の内部でずっと言われてきたこと。けれど、それはいま、どのジャンルでも言われていることだったりする。文学とか映画とか音楽とか、、、

でも、ひとつ疑問なんですが、そもそもそんなにひとはダンスの批評をちゃんと読んでくれているのだろうか?ぼくのもぼく以外のも。ぼくがあまり精力的に書かなくなった主たる原因の一つは、リアクションの乏しさだった。もうひとつは、ときどきあるリアクションが匿名で建設的な意見の含まれていないあまりにも切ない内容だった、ということだった。最近は、上記したようなパワフルな観客が読者でいることが分かったので、ちょっとちゃんとやりたいなとは思うようになったけど。リアクションというのは、ひとを動かすものですよ。よくも、また、悪くも。

ところで『舞台芸術』という雑誌では、稲倉達という人物がダンス時評を、たしか季刊ペースでやっている(ちなみに同誌の演劇時評担当は小澤英実)。実は、ぼくはこれつい最近まで読んでいなかった。2週間くらい前に、はじめて稲倉『舞台芸術』批評文を読んだ。それ以前、この誌面は、國吉和子、桜井圭介が埋めていた。これ、みなさん読んでますか?
『ダンスマガジン』にも、岡見さえというひとが先日のピナ・バウシュについて文章を寄せていたり、石井達朗(トヨタの審査委員)が康本雅子「チビルダミチルダ」について書いてたりする。石井氏がどんなことを発言しているかは、トヨタ問題のひとつの傍流として重要だと思うのだけれど、そういうことを最近ぼくの周りでおしゃべりしたりする雰囲気はなくなってしまった。
あるいは同人誌的なテイストのものだけれど、この一年くらいの間にでた『コルプス』という雑誌がある。これも読んでますか?どう読んでますか?

個人のブログを除けば、最近こうしたサイトが批評文を掲載している。
コムコム.com:クリティーク・言ってクリ!
下記のは二年くらい前からか、九州の方の大学の方たちが中心になって、ダンス、演劇の感想文を載せている。
donner le mot(ドネルモ)

他にも重要な批評サイトがあるかもしれない(もちろんwonderlandもある)。で、ぼくの周囲でも、批評(時評)サイトを作りたいあるいはコンテンツとしてそうしたものを充実させたいという話はよくでる。けれども、ひょっとしたら、今大事なのは、批評の拡充ではなく、批評の批評の充実なのかも知れないなーなどと思う。「読んでますよ!」というメッセージも含め、互いが互いの批評をさらに批評するような気運がいま足りなくて、けど本当はあった方がいいもの、なのかもしれない。

やるべきでしょうか?

岡田智代「十六夜びろうど」(STスポット)

2008年05月10日 | ダンス
5/9
過去にはトヨタコレオグラフィー・アワードにもファイナリストとして出演し、また最近では「おやつテーブル」公演でもメンバーのひとりとして活躍している岡田智代の単独公演があった。

岡田智代が踊る時間には「踊り手の空間との関係」がきわだってくるときがあって、そうしたときというのは、なんら抽象的ではない、具体的な仕掛けが用意されている、それは「眼差し」だ。不意に、気づくと眼差しは、遠くに向けられていて、その目によって、そこにひとつのある景観が存在している、なんて気にさせられるのである。ぼくはそうした岡田の眼差しの「仕掛け」が好きで、公演があるといえば、見に行く。その眼差しは、架空の空間を出現させることもあれば、現実の空間(舞台と客席、あるいはその外を合わせた空間全体)を見る者に強く意識させることもある。そのことで、踊り手の空間との関係ばかりか、いろんな関係(過去と現在とか)が意識させられる。そういう見どころ(複数の「関係」)がバチッと決まったときの岡田は、とても見応えがある。

それは、しかしとてもデリケートな仕掛けだ。眼差しが単なる目になってしまうことがある。「何を見ているんだろう?」と思わせるに足りず、ただ遠くを見ているらしき目になってしまう。今回、なんどかそんな眼差しの時間があり、すべてが「眼差し」になっていない気がして、目を見てしまった自分にいらだったが、少しフォローすれば、この作品は、タイトルで分かるように、ときは「夜」なのである。眼差しがその対象を見失う時間なのである。すると、どうしたって目は内側を向くことになる。

冒頭、あらわれた岡田はただひたすらSTスポットの狭い舞台空間の周囲を走る。確かな足取り、余計な肉はあまりない、けど、そんな感想のなかには、「年の割には、、、」みたいな言葉が隠れている。濃紺のジョギング・ウェア型の衣裳は、からだを露出させている。次は、短距離のスタート練習、筋肉が意志に反応する。反応してプルッとなった肉のダンス、というところか?他にも、アップテンポの曲を背景に、太ももを素早く揺らす、プルプルなダンス?もあった。結構、そうした自分の肉体を遊ぶ的なアイディアが続く。「眼差し」の岡田はまた、「テンション」の岡田でもある。シンプルな動作が曲などと連動してあるピークへと坂道を上っていく、みたいな部分を大事にしているダンサーだ。けれども、最近のぼくの関心があまりそのあたりになくなってきてしまっているからだろうか、今作のなかのそうしたポイントには、ほとんど反応出来なかった。露出した肉体は、眼差し同様何らかの関係を意識させる、独特の色気がある。あるんだけど、それが何か差し迫った気持ちを喚起させることはなかった。微弱な何かでも別にいいと思う。けれども、何かこう、なんて言うんだろう、しっとりとした気持がぐっと見ているぼくのなかでさまざまなものと関係して乱反射みたいになってくれたら、と思いつつ、見ていた。

あと、印象に残ったのは、STスポットの小さな白い空間に、黒いカーテンを少しずつ引いていって、最終的に真っ黒(夜)にしていくんだけれど、それは思いの外、効果的なものだった。「しん」とした気持ちになった。最初にカーテンを1メートルほど引いた時点で、「これは最後には真っ黒にするな!」と予想が出来てしまったが、実際に黒が充満すると、ぽつんとひとり立つ岡田の「ぽつんと」感は強くなった。こうしたアイディアも、彼女が本来もっている「空間との関係」への意識が生み出したものに相違なく、そうした強い思いと考察があったからこそ、効果的だったに違いない。

参考
STスポット通信(聞き手・手塚夏子)