Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

室伏鴻『quick silver』(@日吉、慶應義塾大学)

2008年05月28日 | ダンス
ぼくのなかで、室伏はソロのダンサーである。Ko&Edgeというカンパニーを四、五年前からかはじめており、その成果はもちろんいくつかあげているのだけれど(最近でも「踊りに行くぜ」のアジアツアーに彼はこのカンパニーで出場している)、とはいえ、彼の強烈に残酷で、ソリッドな時間が出現するのは、ソロでなければならないと思っている。

『Quick Silver』、初演は横浜BankART(2005)だった。そのときにも、室伏の緊張を強いる、そして予測不可能な即興の時間に眩暈させられたけれど、今回は、なんだか別の作品を見ているみたいな躍動感が強烈だった。

最初、舞台であるはずのガラスの壁面がある巨大な建物の空洞には室伏はあらわれず、代わりに、ガラス越しにつまり、学生が帰路を歩くにわのような空間に突如、黒い帽子とジャケットを身につけた銀色の男が、口に芝藁を噛んでいるのが目に入ってきた。変だ。相当変だ。もうギャグマンガだ。そう思った途端に、斜めの角度で腕を大きく振りかぶりだした。アクションマンガにある「シューーーッ」ってオノマトペの隣に走る曲線のような腕の動き。深刻さとばかばかしさが、かっこよさと場違いさが絶妙な出会い方をしている。こういう室伏はなんというかもう、すごくポップだ。と、思うと今度は隣の木の枝を掴んで、ぎゅーっと樹を揺らし始めた。大樹がたわみ、空間が揺れる。ばかばかしい、けど、そこには猛烈にシビアなテンションがみなぎっている。ふらふらと歩いているだけなのに、こちらに向かってくるそれは、見ないことを許さない力に溢れている。顔をガラスにくっつける。歪む怪物の顔。いや、そいつは怪物なのか。怪物ならば、そこには何やら物語が、意味が取り囲んでいるはずだ。どうも、読めない。というか、読む気が起きない。得体の知れない存在が、不穏さだけを形にして、舞台へと入ってきた。

今日の室伏は、大声で吠えることが多かった。それは、地響きのような、すべてが台無しになってしまったことを嘆く神のような子供のような叫び。それと、何度も倒れる。立てないところから舞踏ははじまるという、土方巽の教えを、14才の少年が真っ正直に受けとめて、必死にやっているといったようなフレッシュな立てなさ。これも、一度間違えば、なんかそういう身体に障害のある状態のひとを踊っている?と意味で捉えてしまいそうなそのすんでのところで、「倒れる」という踊りがそれとして成立している。照明とか音響とかが加えるスペクタクル性(とくに激しいノイズなどこれまで同様の音響的側面など)は、いらないといえばいらない。けれども、あえていえば、そういう演出もある意味では装飾的なばかばかしさとして機能していればよくて、ぼくとしてはあまり気にならなかった。

よいときの室伏鴻というのは、ひとつのアイディアに固執しないでどんどん捨てる勢いがある、ということに気がついた。室伏から受け取る希有な力というのは、そういうやめる勢い、なのではないか。それは、ふっと溜める、時間を伸ばすということでもあって、最後に、真鍮板の上にもった白い砂を激しく掻きだす手前、そのシークエンスに向かうのにつくったささやかなタメは、ぼくにとってそういうとても大事な、希有な時間に見えた。我に返って、息を整えている(舞台上で我に返るって!)。その、待つ時間が、若手にはなかなか真似出来ない、ある到達点においてのみ起こる時間なのでは、と思った。(終了後のレセプションで、桜井圭介氏が、本公演について、淡々と仕事としてやっているように見えた(仕事なのにひょいひょいすごいことをこなしてゆく)、といった趣旨のことを述べていた。「仕事」という言葉のニュアンスを先に述べたような素の状態の内に見るとすれば、桜井氏の読みにぼくは共感出来ると思った)

「quick silver」に寄せた言葉(ぼくは「quicl silver」BankART公演についてここに書かなかったのかな?これしかみつからない)。

トヨタ問題

2008年05月28日 | ダンス
トヨタ・コレオグラフィーアワードの話が、ぼくの周りのダンス関係者たちと会うたびに話題になっている。ぼくは「トヨタ・バッシング」ならぬ「トヨタ・パッシング」しようと思っていたのだけれど(実際、セカンドステージはみなかったし)、それはよくないと知人から言われたりもしている。いや、以前からトヨタのことは幾つか問題があると思っていた。ぼくが審査員に呼ばれていないこととか、、、というのは冗談ですが、そういうことよりも、大きな問題がある気がするんですね。審査員として関わらなかったアウトサイダーの立場から、気楽に、日本のコンテンポラリー・ダンスにとってもっとも大きなイベントとなってしまっている、にもかかわらず(!)のこのアワードについて考えていることをメモしてみます。

ぼくの考える問題とは以下の点です
・今回から、一次審査→セカンドステージ審査→ファイナル審査と審査が三段階になり(つまり、セミファイナル審査が今回から増えた)、審査が長期化した。それによって、出場者は、長期、このアワードの準備(稽古やスタッフの確保etc.)などに縛られることになる。
・セカンドステージの作品は、15分。多くの場合、作家はショート・ヴァージョンを作らざるをえない。完成作をもって審査するということがない。
・セミファイナルの審査員が27人と多く、彼らには、点数(各作家に対して最高10点)だけが与えられていて、審査員同士のディスカッションのチャンスはない。また、点数を含め、審査員がどういう審査をしたのかについて選評を公表するシステムがない。また、審査員がどういう過程でどういう理由で選ばれたのかも明確ではない。(このあたりのことは、『DDD』の七月号に、乗越たかお氏が言及している。「細かく配点する人の意見が埋もれやすく、「好きな作品は100点、それ以外は0点」という極端な配点をした意見が通りやすい。こういう憶測が湧くのも、採点結果が一切公表されないからだ。選手にとっては自分に対する評価を知ることが、そして審査員にとっては自分の評価を表明することが、責任を全うすることだと思うのだが」p. 97ごくまっとうな意見だと思うし、ぼくも同じような公表すべきと言うアピールをしようと以前から考えていた、乗越氏に先を越された気分だけど、はい、本当に公表した方がいいと思います。すべての審査員の方々、いまからでも遅くないので、ネットで構いません、自分の審査内容を、選評を公表することを提案します。ぼくの知る限り、武藤大祐氏は自分の審査内容についてネットで公表しています)
ちなみに、セカンドステージのデータ(W1D)
・ファイナルに関しても同様の危惧がある。どういう理由で審査員があのラインナップなのか、また彼らの審査結果が芥川賞や岸田戯曲賞と同じように選評という形で公表されるのか否か、不明である。

乗越氏も連載「ダンス獣道を歩け」(『DDD』)のなかで言っているように、アワードは「無名の若手にとって作品を発表し世間にアピールするチャンス」であるかもしれないけれど、しかし「賞による権威付けよりも、ディレクター自身が才能を見つけ出し、その責任においてしっかりとした予算と場所を与えて作品を作らせるフェスティバル形式の重要性」(同上p. 96)こそが唱えられるべきだろう。ぼくが大谷さんと企画したDirect Contactはたまたまトヨタのセカンドステージと時期的に近かっただけですが、それでも、トヨタのオルタナティヴ的存在であろうとはちょっとだけ考えていた。神村恵がどちらにも出場していたということもあったし(タイトなスケジュールはトヨタへの集中力を削いでしまった可能性があり、神村さんには申し訳ないと思っていたりもします)。トヨタうんぬん以前に、少なくとも、コンペじゃなくイベントという気持ちはとても強くあった。そして、乗越氏の提案する「フェスティバル」という形式だと大規模であるのはいいこともあるけれど、同時に、作家の意志やアイディアが必ずしも十全に発揮出来ない場合もあるだろうと思って、小規模であることの可能性をDCでは狙っている。

アワード主導の芸術ジャンルというのは、他にあるだろうか。文学や演劇は、賞が大きなウエイトを占めているのは確かだ。ただしそれは、やはり審査員が身を削って自分の主張をする、からこそではないか(以前ここに書いたように、ぼくは文芸誌の誌面のなかで賞の選評が一番面白いと思っている)。審査員批判とかしばしば起こるし(石原バッシングとか)。4月に、五反田団の前田司郎が岸田戯曲賞を取った時の授賞式はとても面白かった。先輩作家達がどんな風に前田を見ているのか、ということがやはり興味深かったからだ。そうした新旧のつばぜり合いが、賞を面白くするし賞の価値も高めているのだろう。
あるいは目を転じて、美術ももちろん賞を与える機会はないわけではない(「VOCA」展とか)。けれども、案外とステイタスは決定的なほどの価値をもってはいない。むしろ、どの展覧会に招聘されたかなどのことの方が、インパクトが大きい。

ぼくはトヨタにはあまり期待していない(だから基本的には「パッシング」でいいと思っていた)。けれども、なにやら内部が疑問点ある状態で賞だけきまっていくのは、やはりいかがなものかと思うし、それって何だか永田町的なものとあんまかわんないじゃんとも思うし、で、多分、多くの今回トヨタに関係した方達も同様な不満をもっているのだろうけれど、インサイダーの立場からはいいにくい点もあると思うので、ぼくの審査員ではない特権を活かして、コメントしている次第です。

トヨタには問題があるとしても、ファイナルに残った方々やこれから賞を取る方々にはまったく問題がないことは申し上げておかなければなりません。貪欲に、もらえるものはもらうべきです。また何度も「トヨタ問題」と書いてきましたが、それは「トヨタコレオグラフィーアワード ネクステージ」問題なのであって、トヨタ自動車株式会社の問題という意味ではないことを、あたりまえですが、はっきり申し上げておきたいと思います。レンタカー会社から借りてGWに乗ったヴィッツはとても乗り心地のよいものでした。さすがでした。

さて、ファイナルステージは見に行くべきでしょうか。あのラインナップがいまの日本を代表するものとは、ぼくにはちょっと思えない(「次代を担う振付家賞」という趣旨にそって若手が選ばれていると考えてみたとしても)。あるいは、受賞者はほぼ決まっているのではないだろうか(図抜けた作家がひとりいる、とぼくは考えている)。だとすれば、見なくてもいい、と言うことも出来る。審査員の方々の意見が、率直に誠実に、観客の側に届くようなものとなるのであれば、行く価値はあるかもしれません。海外の審査員のことはあまりよく分からないので省くとすれば、石井-伊藤の発言バトルなど、是非して欲しいです。伊藤キムさんは、最近、アフター・トークのあり方について丁寧に考えていらっしゃるのですから、期待しています。

ところで、なぜ、作品そのものを評価するシステムを作ってくれないのだろうか。鈴木ユキオであれば、昨年の単独公演をこそ評価するべきではないか、PINKについても、神村恵にしても、単独公演をしてるのだ。振り付けというよりも作品を評価するような発想は、ありえないのだろうか。