Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ナカニワ・ダンス・パフォーマンス(@横浜トリエンナーレ)

2005年10月17日 | Weblog
を見た。

ここの会場のテンションというか、倉庫とその周りのひらけた空間という条件が生むものというか、観客に集中を求めるのは酷なのだ。そこで、手塚夏子のソロのパフォーマンスがはじまった。二時過ぎ。どうにか雨の止んだ曇り空の下風が吹く中。

どうしても遠くから見るのは、キツイ。なのに観客の円陣は遠巻き。被った紙袋には二つの目と二つの耳が貼り付いている。それを、時折はがしては背中とか、スカートの裾とかに貼り直す。残念なのは強い風に端の捲れる紙の目が、「目」であることをきちんと表現できていないことだ。そこに目がついているのかあ??と猛烈な違和感に見ているからだがよじれるってな感じになれたらよかったのだが。

一時間半後、室内で、手塚夏子+Abe“M”ARIA+尹明希が、Erehwonと松本じろの演奏をバックに即興共演。本当にダンスは、踊り手の性格(気持ち、考え方全般)が出るなあ。そういうとこ、ひとは見ることになるのではないかな。この三者は、本当に異なる三人。手塚の場合は小さな動きが全身で同時多発する、だから「より」でみたいひと。Abeは対照的に速い動きを全身を使ってやる。体をもみくしゃにする、しかもどんどん移動する、だから「ひき」でみないと受けとりにくい。尹はその真ん中あたり、柔らかい動き、集中しない動きが中心で見ているこっちとの距離は曖昧で変化しやすい。三者ともこういう風に異なるパースペクティヴを観客に要求している。それがさほど広くない空間でぐしゃぐしゃに交錯していく。こういうバトルは、積み上げていくものではないから、繊細な評価は難しい。けれど、興味深かったのは、そうした交錯のスリルがところどころ炸裂したからだろう。デリケートな、外からの刺激に過剰に敏感になっている手塚がのばした指を、尹が握った瞬間なんかは、手塚の動揺がこっちにも強く伝わってきて、小さな出来事に大きなドラマを見た気がした。


夜になる前に、野毛の三陽へ。客が少なくて、なんかしみじみヴァージョンになってしまった。それでも、大将はすかさず、一本ビールを注文させてきた。気づいたら飲んでた。