Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

東京芸術見本市2005インターナショナル・ショーケース

2005年09月14日 | Weblog
「Take a chance projectコンテンポラリー・ダンスの現在」を見た。

山下残『せきをしてもひとり』
背後にディスプレイされた「字幕の言葉を身体で翻訳する」のが本作品。「セキュリティ」な身体をお客さまに提供、という趣向に思える。つまり、身体がどんなにときに激しくせきこんでも、それは「せき」という言葉の翻訳以上でも以下でもない、「ああこういう翻訳ね」と安心してみていられる。翻訳というルールは決して揺るがない。ルールがしっかりあるという点では、「振付」の(権力)構造みたいなものをシンプルに呈示したともいえる。安心安心、はみ出さない。「保守系無所属」的作品。

東野祥子(BABY-Q)『Error Cord』
激しく速く、極めてよく動く東野の、ほぼソロの作品と言っていいだろう新作。コントロールの極みにコントロールを逸脱する(ように見える)奇妙な動きが炸裂する。その快楽はなかなか凄まじい。できる身体の今日的極みのひとつを見たという感じ。でも、タイトルにも反映されている物語というかイメージというか設定がよく分からないし、あまり読み込みたい気持ちを引き起こさない。ありがちなアンドロイドものの小エピソード、既視感が随所に。こういうところのダサさとダンスの快楽とのギャップが実は今日的なのかも、という気がしたり。

砂連尾+寺田『男時女時』
三度目か。前半は二人が密接(密着し)すぎてて、関係として見えてこない気がした。二人のダンスは重層的な二人の関係性をじっくり煮詰めていくプロセスを必要とするし、それを待つことを観客に強いるところがある。「強いる」感じが際だつときというのは、見ている側に照れくさいような恥ずかしいような気持ちが生まれたりする。前半、どうしてもその感覚にぼくは囚われてしまった。後半に、ピンポン球が登場する。過剰と言うべき程にピンポン球が舞台にあふれかえる。寺田がぽんぽん球を投げる。それを淡々と拾う砂連尾。ピンポン球という第三者が舞台を少しクールにし、観客には距離をとる自由が与えられる。このピンポン球がホントに饒舌で、無数の解釈を見る側に引き出させる。バラバラに床をバウンドするそのリズムが何でか知らないけれど、無性に切なく見える。どうしようもなくはみ出してしまうもの、自分の力ではどうにもならないこと、が色々と感じられ、胸に迫る。というと、この作品の主役はこいつになってしまう?


六時半頃、東京国際フォーラムを後にし、ウォーキング開始。一時間で歩けるところまであるこうと決める、ゴールの場所は未定、ただただ歩こう。帝国劇場脇を抜け、皇居と日比谷公園の十字路までくると新橋方面に日比谷通りを真っ直ぐ歩くことに決定。ずんずん歩く。結局ほぼ真っ直ぐなまま、麻布十番まで行けた。

最近読んだ本

2005年09月14日 | Weblog
所謂お仕事のためではない本で最近読んだものを紹介。

□ 井山弘幸『お笑い進化論』青弓社、2005年。
非常に丹念に、最近のお笑いの分析をした本、方法は社会学的。カントの笑いの定義は出て来るが、あまり拘泥しないし、フロイト関連の笑い論がまったく出てこない(結論部に、「人はなぜ笑うのか」と問うているのに、フロイトとかが言及されないのはなかなかすごい)。その代わりに、お笑いのネタを通して現代を眺める的な結論で結ばれていく。

「なぜ人は笑うのか。パラレル・ワールドを比較対照するためには、必要な視点の距離を確保して中景のなかに作品世界を封じ込める必要があった。舞台の上に二つの仮構の世界が立ち現れ、どちらもリアルに見えるとき、新世紀の笑いの受け手たちは新しいアイデンティティーをそこに発見する。多重化したリアルのなかに非局在化しながらも、芸人のしたたかな演技にリアルの感触を得るとき、彼らは(そして私は)自分たちが属するパラレルな現実世界をそれ自体受容しうる可能性を実感する。」

「リアルが多重化した社会」では、ある現実世界が、別の奇妙な世界とつながっていることを示すようなネタ、パラレル・ワールドを呈示する最近のお笑いのネタ、我々はそんな「秀逸なお笑い作品を通じてパラレルな真実を掴むのである」。そういう井山さんのしばしば取りあげるのはインパルス、ラーメンズ。

正直、インパルスやラーメンズをぼくはあまり好きではない、何か理屈っぽいと思っている。井山さんは、ネタを台本にして論述に乗せるけれども、そこには多少なりとも限界があるように思える。つまり、笑いは、言葉をしばしば使うけれども、言葉の表情とかそのときの身体の動きとかがより重要だろう。そこには、あまりフォローがない。アンガールズを説明することはこれだと難しい。

それに、そもそも笑いが機知の文脈で美学史の中で論じられてきた背景を思えば、パラレル・ワールドお笑い論は、とくに目新しさはなく、むしろ機知のポテンシャルの一部だけを語ることでしかないように思う。機知は異なると思われている二つのものの間に類似性を見出す能力のことである、ちなみに。

それでも、逆に言えば、パラレル・ワールドお笑い論は機知のポテンシャルを語ることにはなっているわけで、その点では、曖昧に笑いを論じてきたこれまでの日本の(お)笑い論と比べれば一歩前進、というべきだろう。

常識とその逸脱(井山さん流に言えばパラレル・ワールド)のあわいにある振幅運動をよりディテール豊かに書いて下さればきっとより一層面白いものになったろう。


□ 上野千鶴子、小倉千加子『ザ・フェミニズム』ちくま文庫、2005年。
もとは2001年頃に行われた対談、で2002年に出たものの文庫版がこれ。要するに四年前の二人の話、ではあるのだが、2005年の現状の萌芽をすでに非常にするどく掴んでいて、リアル。リアルすぎて切ないくらい。とくに世代差と学歴差を丁寧に読みとって、非婚率の増加の理由を明らかにしていく前半などは、秀逸。

それと、「リベラル・フェミニズム」批判も面白い。「リベラル・フェミニズムの基盤にあるものは何かと言うと、代表数の増加を要求するが、世の中の枠組みそのものは問わない。だから軍隊にも半分行きましょう、となる」(上野)。それに対して、両者ともラディカルな、つまり枠組みそのものを問題にするフェミニズムを強調するのだが、世の中は、このリベラルの物語に沿って進行している。ジジェクにもでてくる「リベラル」は、リベラルが呈示する物語のシンプルさとも相俟って非常に恐くもあり強力でもある。「郵政民営化」なんてまさにそういうリベラルな物語のひとつだろう。中身ではない。全てを民営化せよ、の号令の中、「よいといわれているものはよいのだから賛成」が国民の意思というわけだ。こういう296自民党時代に、一人一フェミニズムと語る二人の声は届きにくい。