Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

勅使川原三郎『Bones in Pages』(@神奈川県立青少年センター)

2005年09月10日 | Weblog
を見た。

十一年前に初演された作品の再演。やはり、その時代の雰囲気を濃厚に漂わせている。それは舞台美術。乱雑に積まれた本、その手前には、ガラスが突き刺さった机。その前に座る勅使川原の頭が光る。明るくなると、見えてくるのは奥に四角く並べられた白い瓦のような本、右には後で黒い靴と分かったもごもごしたものの山。左の壁面には本棚のようなスペースがあり、開かれた本がぎっしり詰まっている。正面、透明なパネルに真ん中からカットされた机と椅子。これも途中で分かったことだが、こういうオブジェ群がそろえられた舞台は客席と細かい目の網で隔てられている。白い清潔感のある空間。そこにいる、黒い勅使川原、とカラス。

あのころ、例えばアンセルム・キーファーとかインスタレーション系の現代美術が流行した。アフター・トークではイリア・カバコフと並んで展覧会をした話も出たけれど、そういうある種の現代美術として、安定したイメージと説得力を持つ。まず、こうしたことについて言及しておきたくなる。

基本的にソロ作品であるということがもちろんあるのだけれど、こんなに勅使川原のソロが堪能できたのは久しぶりな気がした。理屈抜きに、彼が運動しているのを見るのは楽しい。わくわくする。なんだろう。非常にいろんなものが見えてくる。統制された身体がちらつくかと思えば、軟体動物みたいな逸脱が頻出したり、マイム的なコントロールとそのコントロールがあるビジョンを見せる前にビジョンがくしゃくしゃになったりする。動いているをみて楽しい、というのはいい。見ながら、このひとはイメージと戯れているのではないかと思った。普通ダンスは振付というものがあって、それに身体を沿わせる。振付にゴールがある身体の統制は、見ている側にはあまり魅力がない、ときがある。それに比べると、イメージとの戯れに身を置くことは、イメージとの距離感を自在に移動しながら、遊んでいる感じが濃厚に伝わってくる。この点、暗黒舞踏にもそういう方法がある。勅使川原は暗黒舞踏よりもずっと自由に作品を作っているけれども、この点に関しては重なる点をもっているように思った。

もの(本、靴、机、椅子、ガラス、、、)とダンサーは、簡素な場をこうやってつくればそれだけ、違和感を感じさせる関係だ。ダンサーはどうしようもなく意図をもつ、意識をもつ。ものはそれから自由だ。勅使川原はものへと身体を引き戻そうとしている気がした。ものへと向かうダンス、という矛盾。いや、ダンスは意識的なものの中にある意識を超えた部分?ものとダンスをとりもつのが、カラス?という風に感じた。カラスは勅使川原を見ている。このカラスという最高に自由な観客に勅使川原は自分のダンスを見せたいのでは?とさえ思わせる。カラス、実によく作品にかかわった。激しい音に怯え、近づくダンサーに警戒し、一端逃亡し、再び不意に戻ってまた見ている。ものとダンサー、観客とダンサーとの中継ぎ役として、このカラスの役割は大きかった。

ああ、いつも簡潔に書こうとしてだらだら書いてしまう。

夜は三陽。今日も盛り上がっていて、元気になる。厨房の奥のウィレム・デフォー(!)似の餃子担当の店員は、ぼくと目が合う、と決まって「餃子すぐ出来るから」と遠くからつぶらな瞳で語りかける。頼んでないよ、とこちらも目で応える。このデフォーのつぶらな瞳に今晩はうなされるな、きっと。