Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ーんだなー

2005年09月04日 | Weblog
日曜日、午前中。テレビでは七党首合同討論会などやっている。アンケートでは八割近くの国民が選挙に行くと言っているようだけれど、こんなんじゃ行こうと思ってたひとも行きたくなくなるんじゃないかな。ともかく、しゃべるのもきくのもヘタな候補者ばっかり。なんなんだ。ぎゃんぎゃん小泉に向かって吠える他党の党首なるひとたち。ぼくは「小泉派」ではないけれど、ほんとうにかっこわるいなー。「自分の正論」ばっかり言って、他の人はみんなダメだって断定し、きゃんきゃん騒いでいる大人達をどう若い連中は尊敬すればいいのか。これも、「自己中」ないまの日本国民「らしい」メンタリティのひとつか。どう同じ大人達は支持すればいいのか。「こんな人たちに任せてんのか国のかじとりを、、、トホホ」とがっかりするのが自然だろう。「刺客」などを子供達にみせてる小泉は子供の教育に悪い影響を与えている、なんて言っていた候補者もいたが、この事態こそ、最大に悪い教育だろう。自分さえよく見えればいい、といったディスクール。相手を誉めつつ自分を一番立てる、みたいな巧みなお喋りが出来た人は、それだけで尊重されるんじゃないかな。そういうこと誰かやってよ。

そもそも、どうしてさまざまな法案を国会会期中に与野党合同で上手く進められないのか。野党なのにいい法案を見事通したなんてことがあれば、国民は十分にその党を評価したろう、よ民主党。そういう「こそくなまね」さえ出来ないのに、与党になった時にどうしていい法案を通すことが出来るのか、わからない。ぼくたち(というか、ぼくは自民に投票したことがないので多くの国民)は「こそく」な自民党の実行力を、それしか選択肢がないために支持してきたのではないか。なぜ、したたかな交渉力をこういう注目されている機会に呈示できないのか。

パフォーマンスの弱さが、本当に際だつ。なさけない。

「Dance Opening Act」(@タナトス6)

2005年09月04日 | Weblog
を見てきた(9/3)。早稲田のど真ん中、松竹早稲田の向かいあたりにある、ビルの6階が会場。ぼくも『少女×傍若無人』特集でお世話になったTH叢書のアトリエサード所有の空間。ここでのこけら落とし的公演(らしい)。和室と洋室をぶち抜いた20畳ほどが舞台であり客席。受付にしている手前の部屋にはシャンデリアがあったりして普通の居住空間にしては、ゴージャス観があるのだけれど、何せ、畳や床の間は剥き出しになっているし、ダンサーが登場するには襖を引いて出てこなくちゃならないしで、面白い場所ではあるけれど今後色々と工夫が必要な気がした。ともかく、ここでやらなきゃなんないダンサー、さあ、どうでるか。

と、
ぜん賊大輔
岡田智代
目黒大路
JOU
小林嵯峨

がそれぞれ登場。
岡田智代は、客席側の窓を半分開けて、外の光を取り込むと、襖脇の壁に薄暗いまま佇む。こういう時間を作るのが本当に好きな人だ、そしてそれはぼくの側にもニュアンスが十分に伝わってくる。「黄昏」というか、ただそれは物語を喚起するものではない。黄昏は自然のものだ。「もの」の側にあるものだ。「夕食を準備する前の主婦の憂愁」などと物語化して深読みするよりは、この時間、蒼く暗い光、体がそこに溶けていってしまいそうになるその時間をただ呈示する岡田、そしてこっちはそれをただ受けとめる、そういうことの方がいい。後半は、氷の入ったグラスを畳に置いて、それを足で押す、ということをやっていた(ようだ)。残念ながら、ぼくがしゃがんでいたところからは、事態はほとんど目に入ってこなかった。それが効果的だったかどうかは、だから明確には言えない。ただ、中の氷が揺れてきれいな音の響くグラスが、風鈴のような涼やかな味わいを湛えて、鳴っている。この音、よく見つけてきたな、と思う。この「もの」が、足と触れる瞬間、がどうスリリングだったのか、もっと知りたかったな、そこんー上手く見られなく残念だった。あと、思ったのは、居住スペースというのは、こうやってひとびとの前に晒し出すと、エロティックなのだな、ということ。そこを上手く引き出すと、この場でやることが面白くなる、きっと。とくに畳というのは。多分、岡田が後半、腰を下ろして畳に吸い付いていたのは、こういう理由があるのだろう、けれど、現状では観客は上手く見られなくなってしまう、そこがもどかしい。

あと、印象的だったのは、目黒大路。ただ動くだけで見応えのある、若手としてはほんとトップランクのダンサーだろう。あえて喩えれば、突然部屋に飛び込んできたセミみたいな、違和感と激しさがあった。激しさを体が奔出するのは、思うより相当大変なことだろう。この激しさに、ぼくは切なさを感じてしまう。なぜだろう、よくわからないのだけれど。ギャグとかユーモアとかに滑ることを拒む側面が彼にはある。それはいまかなり希有なことだ。体をどこまで高精度にいじることができるか、この過酷な小道を進んでいく目黒には、いつか目黒にしかあらわすことのできないステージというものが開かれるのだろう。


帰りは、早稲田の隣町の大久保で、カムジャタン。美味いものというのは、ひとを凶暴にさせる。