Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

吾妻橋ダンスクロッシング

2005年09月24日 | Weblog
の一日目を見た(9/23)。

いまこれを書いているこの時間に、2日目が始まっているのだな。今日は今日でどんな雰囲気なんだろ。今日も見ようかと思ったのだけれど、何せすごい人気で、チケットは完売、会場は制作の茜ちゃんが言っていた通り「本当にパンパン」だったので、悪いなーと思ってさすがに断念しました。昨日で満足したこともあるし、フルコース食べておなかパンパンって気分。

桜井さんは、ぼくとのチャット対談(『舞台芸術』所収)で、今後は自分がいいと思うダンスの菌を世間にばらまいていきたいなんてことを言っていたのだけれど、今回はまさにその菌ばらまき作戦決行という感じだった。作戦成功だったかは、のちのち分かることだろう。でも、端から見ていて、そのばらまき具合はなかなか痛快だった、ちょっと嫉妬してしまうくらい、ちきしょう、なんかスゲーいいじゃん、と。

細かくレポートを書きたい衝動とその反対の衝動が自分の中で絡まってまして、ざっくりと幾つかのトピックに絞ってのメモに留めておきます。

正直、男子はだまってなさいよ、とボクデスがパフォーマンスした冒頭は、少し心配してしまった。MCのタイチ(山縣太一)が開演前にだらだらと「らしい」お喋りをしているときにも、あまり興味を示していなかった(見て見ぬふりみたいな?)観客は、この手のオフ・ビートにややとまどい気味。「ダンスを見に来たんですけど、、、」的な雰囲気が、「こんなんもダンスっしょ?」っていう桜井的提案を拒んでいる感じ。ボクデスの「チマチマダンス」は、ちまちまと指だけが踊るのも踊りジャンって「踊りとは何か」的ダンス原理主義でもあるのだけれど、ちと伝わりにくかったか、、、ぼくはその指がリズムをとって伸びたり縮んだりする運動より、そうしている時のまばたきが妙なリズムでおかしかったけど、ね。実はそんなとこが見所だったりする。康本雅子は、「ウサギ」(→バニーガール)のダンスがバニー姿のダッチワイフとのデュオダンスへと転がる。そこに、ジェンダー的な批判性を読み込むことは絶対に必要だろうけれど、そういう読みよりは、音楽との微妙な間合いで腕が脚がのる、外す、たたみかけるダンスを感じていたい。ぼくがよく書くことですが、康本は歌ものダンスのひとだ。歌にのる歌へ向けて踊ることはあまりに基本的で芸術ダンスが無視する領域。音域で喩えれば、中音域のダンス。過激な逸脱は派手だけれどそれがダンスを失うことは本意でない、そういう意思を感じるダンス。次、真っ暗闇で「ハーッ」と漏れる息だけが聞こえる、とそこに白い拡声器をもった得体の知れないひとがハーハー言っている、丹野賢一だ。息の音に観客が翻弄される。ウアッと叫ばれたら鼓膜が破れるかもって心配になるようなフルヴォリュームに設定された拡声器からの吐息は、恐怖で観客を支配する。丹野の面白いのは、さまざまな意匠(パンクとか、モンスターとか)を身に纏いながら、それらはすべて単なる外装であって、ねらいは別の所にある、ということだ。ただここで声に翻弄された、それだけが観客に残される。そして、見事にそれは観客を一気に熱っぽくさせた。そこに、今度は白塗りのゴスなひとたちがあらわれた。男と女、超近接。手振りが繰られる。変な角度のファンタジーが、着地点を示すことのないまま漂う。すると、同じ白いゴス的一段が列をなしてあらわれる。「ダンス☆ショー」で見せたシンプルな振りで、行進。難解さへと向かい及第点をゲットしようとするダンスとは対極にある、快楽と諧謔のためのダンス。その後、黒沢美香あらわれる。スリルとサスペンス、他にどう言えばいいのだ。フェイントとドリブルとシュート?KATHYは、黒いストッキングとブロンドのかつらで観客をKATHY化させ、シンプルな振りを舞台上で踊らせる。「指令」のユーモアと恐ろしさと陶酔感。「指令」が「ダンス」?

後半は、チェルフィッチュ。五反田団や青年団に出演している端田新菜がやるチェルフィッチュは新鮮だった。俳優として実に味のある彼女は、ひときわ観客からの笑いをとっていた。ちいさな振動がしだいに堪えきれずにバネのようにはじけると、こちらの身体もたえられず笑いを漏らす。いま最も観客との共振を呼ぶ方法を掴んでいるひとだと思う、岡田くん。ちいさな振動、そこに焦点をあわせる、それを見所にする。このことも桜井ダンス批評のエッセンスだろう。それが手塚夏子に飛び火して、岡田くんに飛び火した、なんてことを思い描きつつ見る。二回目の男子はだまってなさいよ!は一回目同様、この場を演劇的空間にしてしまうせいで観客の身体を少し引き気味にさせてしまう。それでも、彼ら役者たちの顔を見ているのは何とも楽しい。案外脇のセリフのほとんど無い若い男の子の、トホホみたいな表情なんかが見所だったり。で、康本雅子+山縣太一は、ボクロール公演の客演でも見せた、洗濯機になってひたすら回るやつとかを見せてくれた。回る康本は面白い。「フラッシュ」みたいな効果が発揮されてて、一瞬一瞬静止画があらわれては消える。そこに、リズムが起きる。二回目のボクデスは、実人生の伴侶でもある佐川さんとペー・パー気取りの夫婦コント風。中身は脚立のダンス。でっかい脚立に翻弄されながら、佐川さんとおんなし身振りを後ろのボクデスが脚立にやらせる。バカだなーを突き抜けると、脚立の身体がダンサーの身体とのでっかいズレを見せるそのふり振になんかこっちの体が引っ張られてくる。ダンサー佐川にシンクロしてればいいのに、脚立にシンクロしてもがくぼくの身体、がおかしい。あと、脚立の穴めがけて飛び込む、「輪くぐり」(?)は、今日本で見られるパフォーマンスの中でもっとも「シリー」に違いあるまい。くだんねーと体が笑う。二度ならず三度まで、いや何度?最後は、黒田育世+松本じろ。ヴォキャブラリーが云々とか、踊れる身体云々とかおいといて、音楽をからだに蓄えながらそれが我慢できずこぼれ出す瞬間の踊りであることに、ただ魅了される。ドリブルを繰り返し狙うはフェイントからのシュート。みたいなスリルは、体が歌っていることから始まっている。そして、歌う体を見るのはなんて楽しいことだろう。と思うのだ。

メモに留めるなんて言って、だらだらと延々書いてしまった!
ダンス公演を限りなく「演芸」に近づけながら(観客の気をほぐしながら)、ダンシーとはいまやシリーにありというメッセージを観客の身体にばらまく。これが、桜井さんのいまの批評行為なのだろうと思う。

下に載せた文章のように、人類は運動が嫌いなのだとすれば、そんな人類をシリーなダンスに誘うことは出来るのか。この挑戦が、早速年末に再び試みられるらしい。楽しみだ、しかも室伏鴻も(Ko&Edgeで)出演するらしい。

蔵出し(書評)

2005年09月24日 | Weblog
蓮實 重彦『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』青土社

 運動は例外的だ。あるのは殆どが停滞である。これが真実。だから運動はめざとくつかみ取られるべきであり、その時観衆は祝福の叫び声をあげなければならない。
 停滞とは文化(人工的なシステム)のことだと言ってもいい。あるいはルール。世界を統制し秩序立て、野蛮な自然が奔出するのを防ぐシステム。体裁は整えられ、大きな失敗は回避される。安全が最優先され、同時に運動は消滅する。驚異や美は安全の確保のために密かに隠蔽される。いやそれどころか、停滞こそ美だとの錯覚がひとびとに蔓延する。もはや運動は渇望もされなくなる。何が運動であったのかもはや思い出すことが出来なくなる。欲望を欠いた貧しき者の僥倖が迫る。存在しないものは望む必要もない。と、そこに、あるはずのなかった見事なパスが俊敏なドリブルが野蛮なシュートが出来(ルビ:しゅつらい)する。アクシデント?いやこれこそ僥倖!世界が回る。世界を回す。運動が起きた!
 著者の言う通り、人類は運動が嫌いに違いない。運動とはすなわち文化を蹂躙する野蛮なパフォーマンス。それを著者は美しいと呼ぶ。その不在は醜い。「「美しさ」とは「流動性を欠いた運動にストップをかける「事件」にほかならず、これはスポーツだけではなくて、われわれの日常生活すべてに通じているはずのことです」。その事件=運動をジャーナリストも哲学者も誰も抑圧する。運動に目もくれない鈍感なひとびと(運動音痴!)にとってスポーツは、ヒーロー(ヒロイン)の、根性の、青春の、リベンジの物語に過ぎない。物語を語る者は運動を見逃す。なぜなら試合の最中彼らは物語を書くことに夢中で、目はフィールドを注視していないからだ。彼らの物語至上主義をかいくぐって「批評」は、いま目の前で起きていることを鋭敏に捉える動体視力こそ持たなければならない。細部の細部へと分け入り、運動が起きた奇跡=「事件」を讃えなければならない。本書の批判は辛らつだが正しい。
 ぼくはワールド杯予選の日には必ずテレビの前にいた。けれども日本を応援していたわけではない。選手に愛着はない。ただ停滞を唾棄し運動に興奮した。そんな「批評」的眼差しは、醒めていたわけではない。「事件」をあきらめないで見続けていた、だけだ。
 事件を渇望する眼差しは、サッカーに限らずあらゆる世界の一瞬を捉えようと飛び回る。著者なら映画だろう。ぼくの場合、コンテンポラリー・ダンス。美しい運動?ここでも例外。でもあきらめない。ただその瞬間を待つ。いま、いま、いま、そこか、それか、こい、こい、こい。
(書評誌『ほん』所収、東京大学生協書籍部編 今年の夏執筆 若干の加筆修正あり)