Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

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2009年11月02日 | 極私的ベスト5
こんな朝からブログを更新するひともあまりいないのかもしれないのだけれど、今朝も最近おきまりになったコースで走った、ので書き残しておきます。今日は、菊地成孔&ペペ・トルメント・アスカラール『New York Hell Sonic Ballet』を聴きながら。今日の空は雲がち。派手さがない分、しっとりとしてつきあいやすい。あわあわ、どうしょ、なんで、えーっ、、、と声が漏れているみたいにきこえる曲たち。不安と恍惚。菊地の曲を聴く度に「おもらし」と言う言葉が浮かぶのはぼくだけなのでしょうか。毎日走りすぎているからかペースはスロー(てくてく)。

昨日は、横浜・新港ピアにて「停電EXPO」を見た。2009年の「ナイン・イヴニングス」というか、2009年の「アンタイトルド・イベント」というか。言うことなし最高!といった判断が出来ないところにぐっと入り込んで力を結集させた作家達とプロデューサーに感動した。こういうイベント(で、しっかりしたクオリティのもの)ってあるようでないんですよ。ピンで力を発揮するのじゃなくて、きちんとマーブルになって、パフォーマーはぐるぐると(トラ→)バター化していった。見て本当によかった(1日目の方がもっとよかったという話しもあった)。



『ラカンはこう読め!』

2009年11月01日 | 極私的ベスト5
「愛される者の立場にいきなり立たされることは強烈な発見であり、外傷的ですらある。私は愛されることによって、明確な存在としての自分と、愛を生じさせた、自分の中にある不可解なXとの落差をじかに感じる。ラカンによる愛の定義--「愛とは自分のもっていないものを与えることである」--には、以下を補う必要がある。「それを欲していない人に」。誰かにいきなり情熱的な愛を告白されるというありふれた体験が、それを確証しているのではないだろうか。愛の告白に対して、結局は肯定的な答を返すかもしれないが、それに先立つ最初の反応は、何か猥褻で闖入的なものが押しつけられたという感覚だ」(『ラカンはこう読め!』pp. 82-83)

ちょっと時間が出来た今日みたいな日がダメである。

一応、部屋では本に取り囲まれているわけだが、どんな本を手に取ってみても、あんまり盛り上がらない。仕事で必要があって読む本はあるとしても、暇を埋めてくれるような「趣味は読書」の一冊は、その本たちのなかに見つけることが出来ない。と、決まって探すのがジジェクの『ラカンはこう読め!』。これは、面白い。墓場までもっていきたい数少ない一冊(死んだらラカン的な問題からは自由になれるんだろうけど、きっと、いや?)。

デタラメに開いてデタラメなところから読み出す。それで充分。

「私が誰かに「あなたは私の師です」と言ったら、私は然るべき態度でその人に接しなければならず、同じように、その人も然るべき態度で接しなければならない。ラカンが言わんとしているのは、われわれがこの遂行性、象徴的契約に頼らなければならないのは、他ならず、われわれが直面する他者が、私の鏡像、つまり私に似たものであるだけでなく、究極的に不可解な神秘であり続ける捉えがたい絶対的な〈他者〉でもあるからだ」(p. 84)

こんな文章を学生と読んでみたいものである。〈他者〉の存在、〈他者〉の欲望は、不可解さとともにしか理解されない。「ここにいる男を君たちが先生と呼び、そう呼ばれるので先生みたいな振りをしているけれど、本人はそんな先生なんてただ振りでやっているだけなんだよ」なんて言ってみたいが、こういう読書が前提にないと大変なことになりそうでもある。

〈他者〉との出会い、その不可解さを軽減してくれるのが、「幻想」と呼ばれるものだという。

「ラカンによれば、〈他者〉の欲望の謎に対する答えを与えてくれるのは幻想である。幻想に対して、最初に注目すべきことは、幻想は「欲望の仕方」を文字通りに教えてくれるということである。」「問題はむしろ、そもそも私が苺のケーキを欲望しているということを、私はどうしたら知ることができるか、である。まさにそれを教えてくれるのが幻想だ」(p. 87)

「幻想、すなわち幻の情景あるいは脚本は、「あなたはそう言う。でも、そう言うことによってあなたが本当に欲しているのは何か」という問いへの答である。欲望の最初の問いは、「私は何を欲しているのか」という直接的な問いではなく、「他者は私から何を欲しているのか。彼らは私の中に何を見ているのか。彼ら他者にとって私は何者なのか」という問いである」(p. 89)

「たとえばフロイトは、苺のケーキを食べることを夢想する幼い娘の幻想を報告している。こうした例は、幻覚による欲望の直接的な満足を示す単純な例(彼女はケーキがほしかった。でももらえなかった。それでケーキの幻想に耽った)などではけっしてない。決定的な特徴は、幼い少女が、むしゃむしゃケーキを食べながら、じぶんのうれしそうな姿を見て両親がいかに満足しているかに気づいていたということである。苺のケーキを食べるという幻想が語っているのは、両親を満足させ、自分を両親の欲望の対象にするような(両親からもらったケーキを食べることを心から楽しんでいる自分の)アイデンティティを形成しようという、幼い少女の企てである。」(p. 89-90)

現実的なもの、外傷的ものをひとに与える出来事は、例えば、冒頭の愛の告白であり、セックスもそうしたものとされる。セックスはだから、ひとが望んでいるかのように思われている以上に、ひとを傷つけてくる不可解なものであって、そうであるが故に、セックスの情景を映画で表象する時には、ある種の「幻想」がノイズとして置かれることがある。ジジェクは、『ライアンの娘』という映画での野外セックスの場面に、滝の音がインサートされていることに注目する。

「『ライアンの娘』のこの場面の逆説は、滝の音が、性行為から〈現実界〉を除去する幻想的な透過膜として機能しているということである。」(p. 91)

なんとなく、こうした「滝の音」としての音楽というのを、音楽論として考えてみたくなる。映画音楽とは大方こういうものかも知れない。

で、整理すると、現実界の出来事とは、知っていないものではなく、単に知っているものとも言えない、「知られていない「知られていること」」である。

「知られていない「知られていること」、つまり自分はそれを知っているのに、自分がそれを知っているということを自分では知らないことである。これこそがまさしくフロイトのいう無意識であり、ラカンが「それ自身を知らない知」と呼んだものである。」(p. 95)

現実界は、ひとを惑わす不可解で恐ろしいものかもしれないけれど、ならば愛の告白もセックスも禁じられるべきなのかといえば、そういうわけではないだろう。言いかえれば、現実界との遭遇を阻止しようとする「幻想」は、正義の使者と言い切るべきものではなく、謎めいたものとのしかるべき出会いを適当なものに仕立てて邪魔するものなのである。

「われわれがいま直面しているのは、幻想という概念の根本的両義性である。一方で、幻想は〈現実界〉との遭遇からわれわれを保護する遮蔽幕であるが、最も基本的な形の幻想そのもの、すなわちフロイトが「根本的幻想」と呼んだ、主体の欲望する能力の最も基本的な座標を提供するものは、決して主観化されることなく、機能するためには抑圧されたままでなければならない。」(p. 104)

なんての読みながら、新譜『New York Hell Sonic Ballet』と『記憶喪失学』を聴く。

11/1

2009年11月01日 | 極私的ベスト5
今朝も。景色を横目に見ながら走るのが好きだ。すると遠くの建物はゆっくりと、中くらいの遠さのはそれより速く、近くの建物はすっと流れてゆく。まあこういうのポリリズムっていうんすかね、と思って眺める。あるいはガムランの、ゆっくりと音数の少ない低音とスムースで音数のやや多い中音と音数がすごく多くて速い高音みたいだな、とか。今日の土手は、リトルリーグの集会。七時前だってのに、20人くらい、大人も子どももお母さんも元気。走りながら「「イケメン」って何なんですかね」と質問してきた学生のことを思い出していた。「イケメン」って、男性が決めてきた男性の価値とは別の価値づけで男性を評価しようとする女性の振るまいなんじゃないかと、思った。昨日、先々週だったかの「めちゃイケ」で、バラエティの歴史のような番組をやっていたのを録画で見ていた。そこで、90年代、吉田栄作が海上でヘリコプターを用いて行ったスタントの映像を紹介してその後のナレーションが、「「イケメン」という言葉がない時代、かっこいい男が「男前」と言われた時代の映像でした」なんて言っていた。70年代も80年代も90年代もいまの「イケメン」にあたる女性ごのみの男の子は人気があったろう。けれども、基本的には男は男でなければならなかった。この「男らしさ」を規定してきたのはやっばり男で、男がいいと思う男がいいという価値観は揺るぎなかったように思う。「イケメン」ブームは、そうした男が男に与えてきた価値の衰退と連動しているのだろう。ある意味、男を男として見ない評価を女性が楽しんでいる、というわけだ。ますます男は無視されてゆく。

申し遅れましたが、今月の『美術手帖』に「桜井圭介の「運動」」という時評を書きました。
あと、しばらくするとReal Tokyo誌上にアップされると思いますが、大橋可也&ダンサーズ「深淵の明晰」について2000字くらいの文章書きました。

どちらも、ご一読よろしくお願いします。

土手

2009年10月31日 | 極私的ベスト5
いま、ぼくのフェイバリットは土手だ。
毎朝、浅川の土手を走っている。

強烈に気持ちいい瞬間がある。ジョギングは、健康やダイエットのためではなく、おそらくこの快楽のために存在しているのではないかと思う、思うとなんだか土手にたむろしているジョガーが生真面目な人たちというよりも、快楽主義者に見えてくる。最近よくあう小学生の姉弟。末恐ろしい若年ジャンキー(?)かと紅さす頬を横目にすれ違う。朝日が美しい。美しすぎるので、あまり見ないで放っておく。多摩テックの観覧車は、ゴンドラの部分が取り外されて、巨大な輪が山の上に伸びている。気づかぬ瞬間に撤去され、消えてしまうのだろうな。などと考え走る。これまではラジオかipodを聴きながらだったのだけれど、最近は何もつけないこともある。ただ純粋に「走るからだ」になって、頭は違うこと考えながらただ足と腕が反復運動をして呼吸をして、純粋に機械のように体を燃焼させる。首周りが小さくなって、シャツのボタンが苦しくなく留められるようになった。でも、あんまりまだ周りからは何も言われない。

いいかげん飽きても来ましたが、車に乗れば昨晩もKREVA『心臓』を聴く。もう2009年秋をこれ聴けば全部思い出せるくらい染みこませてしまおうとさえ思う。金曜日は、現代女性ファッション誌の分析を先週終え優美の歴史に入った「美学」(古今の女性の生き方を「見る/見られる」関係から考察するという内容、いずれダンカン、ベイカー、オノ、マドンナ、スピアーズ、松田、浜崎などを論じる予定)の講義(昨日はルネサンスの宮廷人の優美論)の後で、ピカソ「アヴィニヨンの娘たち」をきわめて精緻に分析した名著「哲学的な娼窟」(スタインバーグ)を院生三人とあともぐりの学部生とで読む。金曜日は、学生たちが突然遊びに来ることが多い。先週は、V系にはまっている学生が来て、V系のむちゃくちゃ面白いポイントを教えてくれた。今週は、アイドル志願の学生が「わたしもっと若く見られたいんです!」と18才にして若作りの相談に来た。確かに、金色のリポンを頭に付けて、中学生みたいなパーカーを身につけていた。なんだろと話を聞いてみると、アイドル志願者にとって18才はもうぎりぎりの年齢なのだそう。そうか。「森ガール」について熱く語る学生も来た。このポップ(?)な空間で「先生の単著『未来のダンスを開発する フィジカル・アート・セオリー入門』がこの前出たんだぞー、読みたまえ!」なんて、口が滑っても言えない(みなさんはぜひ、お目通し下さい!)。あ、でも、生協書籍部でレジ脇に置いてくれて、一冊売れたと、書店の方が教えてくれた。ちなみに、小さな書棚では『sweet』がはばきかせまくっています。

Krevaインタビュー

2009年10月07日 | 極私的ベスト5
自分の本が出るってことで少しテンパっちゃってますが、そんでなんだか記事のアップペース上がってますが、KrevaインタビューがYou Tubeにアップされていたので紹介します。

このアルバムは本当に素晴らしいので、聴いた方がいいです。『美術手帖』の芸術評論募集がカール・アンドレ論じゃなくKreva論とかで出たらすごくよいことだったろうになー。なんて発想クレイジーですかね。100回聴いても全然さびないだろうなー、っていうか古内東子って、そりゃないだろうってチョイスだよなー。「メロウ」。あと、音がすごくいいので、CDで聴いた方がいいっス。

Krevaインタビュー パート1

Krevaインタビュー パート2

Krevaインタビュー パート3

Krevaインタビュー パート4

Krevaインタビュー パート5

『ステッチ・バイ・ステッチ』

2009年08月08日 | 極私的ベスト5
いま目黒・東京都庭園美術館で行われている展覧会のカタログがアマゾンで購入出来るようになっています。
『ステッチ・バイ・ステッチ-針と糸で描くわたし』

こちらに「ステッチが現代美術へ変容するとき」という論考を寄稿しました。展覧会はもちろんのこと、こちらもご覧下さい。最近ぼくが考えている「レディ・メイド」問題を刺繍としての現代美術作品に当てはめてみました。純粋に美術の論考です。



「タスクと相対性理論」

2009年08月07日 | 極私的ベスト5
「相対性理論、今年に入ってリリースした『ハイファイ新書』が売れに売れた4人組バンド。相対性理論にはタスクの要素が強いと感じる。というよりも前作『シフォン主義』よりも更に『ハイファイ新書』がより、相対性理論の方向性を強く示すことに成功した=タスクの要素を増した作品である。というのもまずパッと魅きつけるのはよりその声質を巧みに使い、お人形さんのようなキャラクターを定着させ、そして昨今の初音ミクやPerfumeを彷彿させるvo.やくしまるえつこの機械ボイス的甘い歌声、そして狙ったような歌詞。要するに加工/装い感が否めない程のどこかアニメ的な声なのである。
 そんな歌声のやくしまるえつこが歌う歌詞を抜粋してみると、「ああ先生 フルネームで呼ばないで 下の名前で呼んで お願い お願いよ先生」「年下じゃいけないの? 答えて 答えて 先生 先生 卒業式近づいて サヨナラも言えないで いやだな わたし まだ女子高生でいたいよ」(「地獄先生」)「愛してルンルン 恋してルーレット 恋してるんだ 愛のメッセージ」(「品川ナンバー」)…等のくすぐったくなるほどの甘い言葉である。
 そんな歌詞だからこそもちろん作詞の制作を行っているのはやくしまるえつこだろうと思ってしまいたくなるが、相対性理論で作詞作曲を手掛けるのはba.真部脩一である。相対性理論においてやくしまるえつこはお人形さんである。” 先生”や”会社員”等が登場し、彼らに対して歌われる言葉は、思春期以降の男子の”一度でいいからこのシチュエーションでこんなこと言われてみたい!”という妄想=男性の作成した歌詞に従い、甘い歌声で、男子からすればくすぐったい妄想の中のセリフ、女子にすれば今時そんな言葉なかなか言わないわよ!といいたくなってしまうような妄想内の出来事/言葉ををそのまま体現するためのお人形さんなのだ。
 ”お人形さん”という言葉は、どんなアイドルよりもどんなキャラクターよりもやくしまるえつこにぴったりである。彼女はライブではマイクに対してまっすぐに棒立ちをして、加えて無表情で男性の淡い欲望の詰まった歌詞をさらっと掬い上げるように歌い上げる。
 他のアイドルはどうだろうか。ステージ衣装はまるでお人形のようではあるが、たいていのアイドルはかわいらしい表情をくるくると変えながらダンスをし、パフォーマンスをする。これはそういった風潮や流れをひっくるめて体現化されたゲーム、アイドルマスターも然りである。男性の妄想を完全に意識したゲームの中のキャラクターであるからもちろん、彼女たちはそういったシチュエーションに身を置き、紆余曲折を経て最終的には着せ替え人形のように様々なコスチュームに着替えさせ、ダンスをさせられるのだ。アイドルマスターのキャラクターは操り人形のように男性の欲望を叶えるためにコントロールされてしまう。男性的視線はその過程の出来事に対しての対応に見ることができる相手の感情すらも妄想中で楽しむ事が可能である。そういった点で彼女たちは実に”秋葉原のメイドさん”的である。
 ところがやくしまるえつこは彼女たちとは全くの別物なのだ。彼女たちをフィギアだとしたらやくしまるえつこはフランス人形や日本人形といったようなお人形さんなのだ。フィギアはパーツを自在にチェンジし、自分好みのルックスを完成させ、間接も自由に曲げ、表情すらも望まれたままに、本当に自在に操る事が可能である。
 だがしかしお人形さんはそのようにはいかない。彼女はクラシカルで表情の変化のないお人形さんとして、けれど現代のアキバ的性感覚をすくいあげる要素をしっかりと持ち合わせたお人形さんとして、観客の前に登場させられる。やくしまるえつこは彼女がお人形さんであることを望む観客の前に、アキバ的要素の前に、男性的妄想の前に、そして何よりも相対性理論の前に立たされ、それらの、言うなれば半ば思うがままに飾り付けられているのだ。彼女をがっちりと縛り付け、お人形さんに仕立て上げているのだ。やくしまるえつこを仕立て上げ、そう演じさせる相対性理論であるのだ。」

これは、ぼくが前期に行ったダンス史の講義の学期末レポートの一本。二年(20才くらい)の学生が書いた。「タスクと相対性理論」というタイトルは、「優美という問題と○○」「タスクと○○」「手塚夏子WSについて」(2回にわたって手塚さんに来ていただいたのだ)のなかからひとつ選んで論述せよという課題を出したことから。若干ダンス史における「タスク」概念とはぴったりきていないかもしれない。けれども、タスクの遂行者として「やくしまるえつこ」を考えるというのは、興味深い。タスクの指令者は誰か、ということをクールに考える機会になるからだ。そしてまた、このレポートを読んで、女性からの視点で相対性理論を考えると、例えばこういうことになるわけか、と考えさせられた。

と、採点地獄の最中に読んだこのレポートにひっかかっていて、採点が終了した後数日たってから(昨日)、メール出してレポートをデータでもらったのだった(許可は得てアップしてます)。で、しばらく机の上でほったらかしにして置いた「SV」の相対性理論特集を、ようやくぺらぺらしてみる(いま「ぺらぺら」中)。冒頭が大林宣彦へのインタビュー。なんだか、痛い。サブカル(『SV』的世界)ってオタクとは別角度とはいえ結局美少女へのコンプレックスに大きな重心のある世界だよな、、、と80年代論文献を読みながら考えていた矢先、そうか、大林と80年代とサブカル、、、痛い。大林曰く相対性理論とは「「我思うゆえにわれあり」ではなく「我あなたがいるがゆえに我あり」なんです」と。痛い。

レポートにはこうある。「彼女たちをフィギアだとしたらやくしまるえつこはフランス人形や日本人形といったようなお人形さんなのだ。」この水準の議論に匹敵する文章を探そうとすると、例えば、平田俊子の「ほらほら、そっちじゃなくてこっちだよって、お兄ちゃんたちが楽器の音でやくしまるさんを優しく操っている気がする。やっぱりこのバンドは頭のいい男の子たちのバンドじゃないのかな」(『SV』2009.7 p. 35)

「天使かつアンドロイド」(p. 37)と評するリーダー真部脩一は、そうしたあり方に自覚的なのだと思う。こうしたやくしまるえつこがいま抱えることになった役割に対して、どういうことが言いうるのか。「お人形さん」=「アンドロイド」=「天使」をひとが今後どう解釈していくのか。

あっと、そもそもぼくがこの記事を書こうとした動機というのは、『SV』が休刊になったという事態を自分はどれだけまじめに考えられるのかと、最近自分に問いかけていまして。別に『SV』に連載していたような人間でもなく、以前はちょこちょこ書く機会はもらっていたものの、最近はすっかりで、ほとんど書き手として無視されていると思っていて、それで仕方ないので架空の『SV』特集を妄想したりしてひとり盛り上がっていたりしたのですが、そんなぼくとは縁遠い『SV』が、しかし休刊するとなっては大問題。大袈裟に言うといままで漠然と「サブカル」と呼んでいたものの多くについて、機能不全に陥っているということが明らかになったということなのではないでしょうか。なんとなくそうだったけれど決定的にそうなった。言いかえれば、ぼくたちが「サブカル」という世界やあり方について、信用を与えていたOSがもう使い物にならない状態になっているのかもしれない、そんな危惧を抱かせるのです。

そんで、例えば、「相対性理論」を特集することで、ここにサブカル(『SV』的なもの)健在といった感じになるだろうと、そうしようとしてたのではと思うのですが、それは一体、どんな事態なのだろうとまじめに考えたくなったわけです。考えないとまずいんじゃないかな、と。やっぱり「パフューム」でも「アイマス」でもなく、ましてや「アゲ嬢」でも「女装する女たち」でもなく、「やくしまるえつこ」に行ってしまう心性とは何か?そして、それを「サブカル」サークルの外側のひとはどう見るか?ということを、考えるべきですよね。ある時期の日本映画が誰も彼も宮凬あおいに救いを求めたような、またある時期の日本映画が薬師丸ひろ子や原田知世に救いを求めたような、そんな自分たちの自助行為に熱心でどうしたものかな、と思ってしまうのですよ。つーか、サブカルって昔も今もきわめて男の子的な世界なんですよね。(一方、レポート書いた20才頃の女性たちは大方無視されてますよね。)いやいや、心地いいですよ。相対性理論、「男の子」として魅了されます。が、そんなこと無邪気にのたまえば、しらーっと蹴り飛ばされる環境(女子大学という)に生きている身としては、「理論」で癒されててどうすんだろ(俺)、と思ってしまうのです。

久しぶりに

2009年06月14日 | 極私的ベスト5
曽我部恵一BAND「今、分かりやすいロックンロールを鳴らすということ」は、すごく腑に落ちる話で、ぐっと来ました。ロックはポップアートなのだ、ということがこれだけ分かりやすく述べられているのが素晴らしい。刺繍を用いた現代美術は自分たちがレディメイドであることに対して正直であるからいい、正直である時にいいと思える、という論考を庭園美術館で七-九月に行われる「Stitch By Stitch」展カタログのために今書いている最中で、だから一層、励まされたよ。

Fotodeath 極私的ベスト5(4/30付)

2009年04月30日 | 極私的ベスト5
grow UP! Danceプロジェクトが日曜日に最終日を迎え、終わった。ぼくは、なんだかとっても寂しい気持ちになっていて、ぼくのような立場だとこういうイベントに観客以外で関わることはそんなにないから(DCは別だけど、DCの場合にはあんまりこんな気分にならなかったのは何故だろう)、「祭りの後」的な空虚に苛まれて、翌日の國學院の講義の後に、古本屋でやけ買いをしてしまったのだった。

なんてことは、まあどーでもいいんですが、いまあらためてオルデンバーグ、ぼくのなかできてます。最高です。最近、UbuWebで「Fotodeath」の映像がアップされていることを知って、一層盛り上がってます。


Claes Oldenburg, "Fotodeath"

"Claes Oldenburg: An Anthology"を読むとこんなことが書かれてあります。


「食べ物と衣服の一部が経験の、過去や現在の断片であるならば、ストア全体やストアの住人は歴史的であった。歴史を、過去や現在を、「ストア」の内や外で実施されたパフォーマンスは、絶えず参照していた。『街のスナップショット』は、物と振る舞いのモードとの間の類似的な関係を移行すべく企てられた。ルーベン・ギャラリーで1961年の二月、「街路The Street」のエンヴァイラメントのなかで上演された『サーカス(「アイアンワークス/フォトデス」)』は、「輝く光のなかでのファルス劇」としてパフォーマンスが定義されうるのと同じくらい、あるものからべつのものへの一定の変容を証し立てた。
「サーカス」は「アイアンワークス」と「フォトデス」の二つのパートに分かれていて、日常生活のステレオタイプに基づいていた。その5つの活人画の行為は、同時に生じており、実際のサーカスのリングにおけるかのようであった。互いに交差しあったり、重なりあったり、これらのタブローは、その偶然的な性質のために、予期せぬ仕方で起こっているように思われるイメージを形づくっていた。それらのタブローは物語的ではなく、偶然的にことが起きた。その効果はドラマ的ではなく謎めいていて、絵画のなかの人物が突然話し始めたりタブローの上で動き回っているかのようだった。」(Claes Oldenburg: AnAnthology, p. 24)

「あるものからべつのものへの一定の変容」とは、例えば、3人がベンチに座っていて、その際に、彼らを写真に収めようとすると、ポーズを取っている内に、ぬるーっと3人がへたり込んでしまうそんな場面がそれだと思います。「Fotodeath」とは、「カメラが生きたイメージを捉え、イメージに死を与え、未来に向けてそれらに永遠の生命を与えようとする」(ibid., p. 27)という意味らしい。オルデンバーグは、レディメイドをあらためて制作してしまう、制作された「ファウンド・オブジェ」の作り手として興味をもっているのだけれど、それはまたソフトスカルプチャーだけじゃなくて、パフォーマンスにも反映していて、麻袋にひとが入り込んでいて、その後に、麻袋にスプレー缶を入れたりする瞬間などは、ものと人間の等価性を明確に証し立てているシーンだと思います。いいんだよなあ。

あと、(女性の)膝の部分だけの彫刻を作っていたりもしていて、彼は「絶対領域」の先駆者だったりもします。

London Knees (1966)

極私的ベスト5(4/7付)

2009年04月07日 | 極私的ベスト5
ともかくtofubeatsが聴きたいと、ふいにそんな瞬間がやってきて、まだCDを手に入れてないから、じれったい気持ちになって、その場をやりすごして、それでもまた、ときどきPCの前でそんな気持ちがやって来ると聴いてみたりする。「やっぱいいな。」とまた惚れたのが今日なので、ネットに転がっているtofubeatsくんの音源を並べてみました。順位って、付ける必要ないんじゃないかな。なんだろ、彼の音源を聴いて、一度イベントで実際に目と耳で感じて、「2009年的な青春のかたち」を知ったような気がして、いま18才なひとがうらやましくなり、これなら18才やりたいよと思う。2/7付の「極私的~」でも
第1位でエントリー。

BONNIE PINK -A perfect sky (TOFUBEATS REMIX)

PARADISE GO!! GO!! -Party night (tofubeats house edit)

Perfume + Cherryboy function -the endless polythythm lovers

サイプレス上野とロベルト吉野 -Bay Drem ~From課外授業~(TOFUBEATS REMIX)

ウェザーリポートYATTA!

もってけ!Go Go Fine Day (tofubeats MASHUP)tofubeats @WIRE08 SUN STAGE

ちなみにtofubeats MySpaceにもいろいろと音源が。

4/5はSDにてsim+otomoを見た。変拍子ががつがつと体中に食い込んできた。simのよさがあらためて分かった。対バンのImai Kazuo Trio(今井和雄, 伊東篤宏, 鈴木學)もよかったな。今井さんかっこよかった。音楽が成立する仕方のようにダンスは成立しないものだろうか。とずっと考えていた。この日は、六本木に行く前に、gudpの公開中間発表のようなものがあって、ダンスの面白さと難しさにつきあっていたので、きっとそんなこと考えていたのだろう。音楽は、音が出てしまうとそれはすべて何らか音楽の成分としてともかく置かれる。ダンスだってそうなはずで、体が動けば、それがどんな動きだろうと成分になるはず。とはいえ、ダンスには明らかに、「これでは不十分だよ」と思わせる何かが残ったり、あるいはそんなものはなくてスコーンといったりする。そんなふうに、そこによし悪しの幅が存在している気がするのだ。楽器として見た場合身体はゆるくて、しっかりとしていないくて、音楽のようにはいかないということなのだろうか。ゆるさの幅というか、内実をもっとしっかり知りたい。また、案外と音楽のようにダンスも出来るのか知れない。大木裕之さんが数日前、トリシャ・ブラウンを意識したダンスというのをパフォームしていたのだけれど、それはそれはゆるかった。けれど、それでも成立している感じがあったのだ。

極私的ベスト5(3/7付)

2009年03月07日 | 極私的ベスト5
第1位 少女時代
坂本龍一特集の『ミュージック・マガジン』今月号を読んでいたら、どこかの記事で紹介されていた少女時代。くわしいことはよく知りませんが、永遠にソニョシデ(少女時代)!などを参照すると、彼女達がいま韓国で爆発的な人気となっていることが分かる。「ミュージックバンク」という番組(ベストテン番組がまだ健在なんですね、日本の80年代みたいというべきか。音楽番組をお笑い番組化してしまった日本がひとり迷走してしまったとみるべきか)で7週連続一位、それがこの曲少女時代「Gee」。インド・ポップスのごとき陶酔的な要素があるリズム隊、振りもそれを増幅させるようなキュートな仕草の連続。しかも、えっと、はっきりいって超可愛いですね。あからさまぶりっこな佇まいは、松田聖子世代のぼくだからなのか、悪くないなーと思ってしまう。韓国のモー娘。という言い方があるようだけれど、これを未来のアイドルの原型として受けとめる誰かがあらわれたとき、何か面白いことが起こるのかも知れない、かな?これにもちょっと似てますよね。聴けば聴くほど良くできた曲だと思ってしまう。東方神起みたいに、日本で人気になるのもそう遠くないかも。日本男子のオタク化が批判されたりするけれど、将来、日本男子の韓国アイドルびいきなんてことが社会現象化するかも知れない。そんなことになれば、ドメスティックなオタク文化論は、色あせてくるのかもね。元気がいいのがいいですよね。日本の場合、学校文化、オタク文化、ゴス文化、テクノ文化くらいしかソースがなくて、病んでることがアイデンティティみたいなのばかりで、音楽が痩せてしまっている気がするのにくらべると、パワフルで前向きでかわいくて、だから残酷で、いいなと思ってしまう。(今日はベスト1のみ)

最近見た公演
初期型「DUMB!」
中村公美「はじまりはじまり」
手塚夏子「プライベートトレース2009」
Port B「雲。家。」
TPAM 鈴木ユキオ、手塚夏子(神村恵は遅刻して見られず)
小川水素(「グリッド3.5」)、ノシロナオコ(code20xx 「小さな部屋のための試作("trans-mission<GROUP>第一案")」)、鈴木一琥(「ゑびす」)
快快「MY NAME IS I LOVE YOU」


極私的ベスト5(2/26付)

2009年02月26日 | 極私的ベスト5
痛みで胃の位置を感じるようになったのは、ぼく史上、昨年4月より常勤の仕事がはじまってからで、そんな常勤の仕事をしてお金をもらってくらす人間としてあまり発言してはいけないこともあるだろうなんて思っていると、どんどんブログなどという場所に無邪気にボム(書き込み)するエネルギーがそがれて、、、なんてどーでも良いこと書かないとブログ書きはじめられなくなってきているのでした。

今朝、Aと話したことで、人間が反射的になっているということがあって、つまり、人間にスポンジのようなバウンドが無くなって、つるっとした金属板みたいになっていて、もちろんぼくもその一人だと思うけれど、ひとから受ける刺激が、キャッチボールにならないで、ボクシングみたいになってしまう、刺しつ刺されつみたいになってしまうのが今、現在、2009年の2月のぼくたち(「ぼくたち」の範囲はどこまでなんだろう、東京から離れればいいってこと?)なのだろう。簡単な話で、少し前までは、ネット上に公演についてなど、率直に自分の思うところを書いても、なんとなくそれは単なる批判(非難)みたいに解釈されずに、そのいわんとするところを多様な仕方で受けとめる雰囲気というのがあったと思うのだけれど(いや、そんなのぼくの思い過ごしだったのか)、いまはほとんど消えてしまったように思う。自分が単に塩酸振りまいているみたいなことになってしまっているのだったら、そんなことはしたくないよなあと思ってしまう。文脈とか、言わずして語っていることとか、もうそういうものは通用しないような気がして、どんどんひとが閉じていってしまう。一種のヒステリーの膨張が、いまこの自分の暮らしているところで起きていることなのでは。

ぼくは折に触れひとに言っているのは、必要なのはマッサージではないか、ということでして。もちろん、個人的にマッサージに行きたい願望が募っているということでもあるんですが(行って揉んでもらえば、こんな書かなくて良いこと書かなくて良い?)、それはそうとして、マッサージ力は必要ですよ。電車に乗ってて、隣に座ったひとがへんな閉じ振りを発揮するとつらい気持ちになるんです。近い将来、座席はパーテーションが設置されるかも知れないなんて思ったりして、そうした閉じる傾向をひらく、ひらかなくてもゆるめる力をひとが発揮するようになるといいなあ。そのあたりに、「最後の人間」が見え隠れしているようにさえ思う。人間が人間じゃなくなるっていう境界線がそのあたりにある気がする。いや、もうそんな人間じゃなくて良いじゃんなにいってんの!みたいに感じてるのかもぼくも来年の今頃は、とかとも思ったりするんですけれどね。

ぼくにとってのベスト10(は大変なのでベスト5)は、これです。世間は下記(前回の記事)の通りです。いや、CD売り上げが「世間」を表現することになるのかもう分かりません。何が世間を表現することになるのか、もうよく分かりません。ならば、ともかく自分のベストは何なのかはっきりさせておきたいのです。といってなかなか大変なことですよ。はっきりさせるのは。衝撃というのも一日でどんどん消費されていってしまうんですよね。溜まっていかない、ぼくだけですかね。

第1位 ミャオ族の踊り
先日、BSでミャオ族のドキュメンタリーをやっていて、あまりにキュートなダンスを踊っていたのが忘れられず、ネットで調べてみたのだった。アジアのダンスの強烈に甘い、ぶりぶりな世界。背景にあるのは、強烈な男性中心主義なのではと思わされる。とはいえ、やみつきになりそう。こういうアジア的なものが、つまらぬモダン化をすることなく、そのアジア性を存分に発揮するところに立ち会いたい、というかこんな村祭りに行ってみたいものです。

第2位 某著作めどがたつ?
あまり大きな声ではいえませんが、近々完成しそうです。木村BRAINZ本。

第3位 最後の円盤(音がバンド名)presemts(2/23)
2時間半続いたライブの最後の五十分程は、「ストリート・ファイター」のキャラクター2体をダンサーに仕立てて、ダンスを踊らせるというものだった。十分で終了するはずが、四十分も延長したのは、小林が途中からコントローラーをうまく操作出来なくなってしまったから。何度もやめようかという雰囲気になったのだけれども、諦めない川染の熱意が、ほとんどその熱意だけが会場に一体感を与え、二十回目くらいでとうとうダンサー2人が相打ちになり、血しぶきを上げながら同一の弧をふたつ描いて倒れた。その瞬間の感動は、なかなかすごかった。これ、練習しとけよ!って話かも知れないんだけれど、ばたつくところにこそ彼らの方法があるとすれば、彼らのストラクチャーのなかにこのツッコミは回収されるものとみるべき?強烈に退屈で、しかし決して飽きない不思議な2時間半だった。ゲームのキャラを踊らせる作品を見たのはぼくは初めてだった。これ、ありだと思いました。

第4位 目撃!小学生の女の子が、男の子の家に押しかけチョコレートを渡す瞬間
それは、例の日のことでした。小五くらいの女の子たち3人組が、一戸建ての家の前で超不審な様子でうろうろしているかと思ったら、ひとりが残って、玄関から出て来た男の子に手を伸ばしている。オーッ、決定的瞬間!男の子も女の子もずっと覚えているだろうこの瞬間に思わず立ち会ってしまった。

第5位 今日はタヌキが3匹
自宅の前の階段をあがるところで、今日も出くわした。時間が早かったからか、なんと3匹も菱形のあの顔が。と思っていたら、タヌキの視線の先には、タヌキ山に接したお宅の奥様の顔が。ぼく-タヌキ×3-奥様の三つどもえで、30秒程見つめ合う。