東アジア歴史文化研究会

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日清戦争から120年の歳月が流れた(宮崎正弘コラム)

2014-11-21 | 中国の歴史・中国情勢
日清戦争から120年の歳月が流れた(宮崎正弘コラム)

2015年は中国、韓国が主体となり、ロシアを巻き込んだ「反日キャンペーン」がさらに拡大しそうである。まず韓国では2015年3月1日を「独立運動記念日」として、政府主催の記念式典を開催する。朴大統領は「加害者と被害者の立場は千年経っても変わらない」と演説している。ついで韓国は3月26日は「テロリスト」の安重根を愛国烈士として祭り上げ、中国ハルビンの「安重根記念館」でも行事を行うという。

中国ではどうか。まず5月4日に「五四運動記念日」、7月7日が廬溝橋事件の記念日。おそらく習近平は北京の「抗日戦争記念館」の記念式典に出席し、日本批判の演説をするだろう。7月25日は日清戦争開戦の日に当たるが、すでに2014年に120周年の集会を行っている。8月15日の終戦記念日に韓国は「光復節」を行う。

また中国では9月3日を「抗日戦争勝利記念日」と位置づけており、日本がミズーリ号で降伏文書に署名した翌日にあわせ、対日戦争で「勝利した」ことにする。歴史捏造である。9月18日は瀋陽にある「918記念館」で抗日行事を行う。くわえて11月21日に「旅順大虐殺記念日」なるものを定め、1894年に旅順で日本軍の大虐殺があったという歴史捏造日にも記念行事、続いて12月13日、南京陥落を「南京大虐殺殉難国家追悼日」なる式典とする。

いずれも歴史的事実とは無関係の歴史捏造による政治宣伝、愛国主義の政治プロパガンダ記念日だが、反日気運を盛り上げ、つぎの尖閣諸島強奪に正統性を加味しようとする試みである。ここにロシアが加勢しそうな雰囲気がある。第二次世界大戦70周年にあたり、旧連合国の政治キャンペーンやイベントと意図的に重ね合わせられると、厄介なことになる危険性がある。

さて2015年4月17日は、日清戦争の終結となった「下関条約」から120周年の節目にあたる。この条約を以て李鴻章は日本に賠償金を支払い、台湾は「化外の地」といって割譲した。本来なら国家が祝賀行事を行うべきだが、民間団体が主催のイベントしか日本では予定されていない。英国はトラファルガー勝利記念日を、フランスもパリ解放記念日を、豪やNZはたとえ敗戦した日であろうと「ガリポリ記念日」に盛大な軍事パレードを行う。

習近平の中国は「甲午戦争の仇を討つ」と放埒に豪語してやまない。「愛国主義による中華民族の復興が中国の夢」と本気で唱えているのだから。

▼当時、東洋一の艦船を誇った清がなぜ日本に負けたのか?

「甲午戦争」とは中国でいう日清戦争のことだ。当時、世界第四位の海軍力を誇った清は、西欧から購入した新鋭最強の軍艦を保有し「アジア一の海軍力だ」と自慢していた。ところが日本ごときに「なぜ負けたのか」と多少の反省を籠めて甲午戦争を研究してきた。そしてこんどこそ日本を打ち負かせると自信過剰なほどの論説が中国のネット上に展開されている。「愛国」を鼓舞し、反日で国民を糾合しようとする中国共産党の宣伝戦争の一環だが、あちこちで矛盾が吹き出している。

陳破空(米国に亡命した論客)がこうした動きに厳しい論評を加えている(香港誌『開放』、14年八月号)。1888年、清は北洋艦隊を創設した。これは清末期の洋務運動と富国強兵策の結果である。北洋艦隊の規模は日本の連合艦隊を上回り、艦船比較で12vs10,火砲の数量にいたっては日本の連合艦隊の三倍だった。

現在の日中軍事力比較では中国海軍が質量ともに圧倒的に日本より勝る。中国海軍は65隻の潜水艦、31隻の駆逐艦、61隻の護衛艦、数百隻のミサイル装備船と一隻の空母を誇る。中国海軍の23万5000人に対して日本の海上自衛隊は僅か4万5000人しかいない。

経済力を見ても当時の清のGDPの五分の一が日本の国力だった。世界の総合GDP比較で清は17・6%,日本は僅かに3・5%だったのである。今日、中国のGDPは世界第二位。日本は三位。こうした比較を勘案すれば戦う前に勝敗は明らかであろう。

しかし清は日本に負けたのである。第一の理由は軍の果てしなき汚職と腐敗である。軍の費用をがじるように幹部が食いちぎった。訓練費用から兵士の食費にいたるまで貪官の汚職の犠牲となり、兵士の士気があがるわけはなかった。武器庫から砲弾を横流ししていたのだ。開戦三ヶ月前に慌てて砲弾を買い直した。艦船を動かす燃油を売り払い修理工場では機械を売り払っていた。いまもこの汚職と腐敗体質に替わりがないばかりか、中国人民解放軍の汚職の金額はべらぼうである。

たとえば2002年、中国海軍はロシアから現代級駆逐艦を購入したが、ロシアの売値6億ドルが中国軍の装備修理工場をへて最終的には14億ドルに化けていた。近年摘発されただけでも王守業中将(海軍副司令)の横領額は一億六千万元。谷俊山のそれは200億元と桁外れ。各地に豪邸、皇帝並みの大豪邸を建てて皇帝並みだった。失脚した徐才厚、郭伯雄らは中南海の贅を尽くしたお屋敷に暮らしていた。戦略ミサイル部隊もセメントでできたミサイルで員数を偽装し、予算は使い切っていた。

北洋艦隊の基地は威海衛の沖合に浮かぶ劉公島だった。艦長以下は艦で寝泊まりせず自宅には妻妾が同居していた。一般兵士は淫売窟へ通い、賭場は華やか、技楼だけでも70軒を数え、「武人は荒淫である」と嘯いて、まじめに艦隊勤務をしていない。開戦時、「威遠」と「来遠」の艦長は不在で妾の家にいた。指揮官が不在で誰も何をして良いか分からず、たちまち日本軍に撃沈された。さきの王守業は愛人が六名、谷俊山は二十三人だった。

北洋艦隊司令の丁汝昌らは責任を取って自殺した。まだ彼らは恥を知っていた。いまの人民解放軍幹部らは恥を知らない。日本に必ず負けるだろうが、誰も自決する軍人はいないだろう、と陳破空は結論した。 

さて外的な勝因がある。
第一にアメリカは当時、朝鮮を見限っていた。
第二に英国はロシアの南下を防ぐ手だてとして清を利用しようと試みたが、とても駄目と判断し日本に梃子入れをする。英国はこの時点で日本重視に舵取りを切り替えた。したがって英国領事館の情報は代理人を通じてほとんど日本へ流された。 旅順で虐殺がなかったことは既に多くの文献で証明されている。この流れが1902年の日英同盟に繋がり、それから三年後の日露戦争勝利に繋がった。

(この文章は昨日(11月18日)に開催された「日清日ロ戦争記念顕彰国民大会」での宮崎の講演に加筆したものです)

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