〔承前〕
▼第二の都会、マンダレーは雲南華僑の街だった
バガンからマンダレーまで、飛行機はたったの20分である。窓から見た大地は茶褐色、凸凹が多く、耕作のあとさえない。農業が近代化できないのは、河川の氾濫、洪水との闘いによるのだろう。
雨期には洪水、乾期には川の中州も干しあがる。住民は掘建て小屋に住むが、水で流されてもすぐに“新築”するたくましさを持っている。そういえばミャンマーはチーク材と大理石の本場だ。
商都のマンダレーは人口640万人、ヤンゴンより人口稠密な大都会である。このため市内から44キロも離れたところに新空港を建設した。マンダレー空港の滑走路、じつに4000メートル。ジャンボ機の乗り入れも可能。それなのに国際線で乗り入れているのはシンガポール、インドネシア、タイなど数社に過ぎず、ジャンボ用のブリッジは手持ちぶさた、出入国検査場もガラーンとしている。
国内線は小型のプロペラジェットで68人乗りだった。定期便以外に客があると臨時便をいつでも出すが、逆に客がすくないとフライト・キャンセルになる。飛行時間20分の、バガンーマンダレー間をもしバスで行くと、十四時間ほどかかるという。平野ではあっても深い渓谷と、幾本もの川が交通の利便性を削いでいるからだ。
ともかく新空港は「利用客が少数で、じつにもったいない話だ」とガイドが言ったが、これはマンダレーという、ちょうどミャンマーのど真ん中に位置する大都会の、商人達の戦略ではないのか。
というのも待合室でスーツケース、ズボンの人達はローレックスの金時計、明らかに華僑である。華僑は最近、随分と雲南省あたりからミャンマーへ流れ込み、商業地を買いあさっている。
新築のホテルや商店は華僑系が多いというので「台湾系も?」と聞くと、「台湾系は蒋介石との過去のいざこざがあり、国民党残党はタイ国境へ去って、ゲリラを指導したりしたためミャンマーと台湾は外交的に仲が悪い。台湾華僑は滅多にいない」と答えた。
空港から市内まで途中の光景はといえば、のどかな農村風景がひろがり、水牛、山羊。運搬はロバ。マンゴーの樹が庭先に実り、獲れすぎるため漬け物にもなる(これは旨かった)。緑が多く、共同井戸、溜め池。ここには古き良き農村共同体が息づいている。
庶民は藁葺きの高床式の掘建小屋に住み、テレビなんぞあるわけがない。外国人を見たことのない農村の子供達は恥ずかしがり屋、それでいて人なつっこく、物売りもまったく摺れていない。トタン屋根の家が付近では金持ちと見なされ、平野部でとうもこし、綿、ゴマの栽培、丘陵部では焼き畑農業が主である。だがバングラデシュやネパールほどの貧困でもないのである。
(この純朴な農村コミュニティは、しかしながら何時まで持つか?)
日本の高度成長は、田舎から大量の若者を都会部へと送り込んで工業社会を実現した。同時に農耕社会の伝統は希釈され、都会にでた若者が持ち帰る欧米流文化、ファッション、流行、物質のまぶしさに憧れて、田舎の価値観も壊れ、射幸心がとめどなく拡大した。古き良き時代の日本の伝統は年々歳々、工業化の進展とともに掻き消えた。
現在のミャンマー政権は市場経済に疎く、理論などそっちのけで経済政策をときおり無謀に変更する。
マンダレーでは旧ノボテルに泊まった。庭園が広く、王宮跡に近いのに物静か、ホテルの周辺には物乞いも物売りも居ない。これはインドとまるで違う雰囲気だ。ミャンマー的な静謐さ、この物質文明にまだ毒されていない宗教社会は、しかしいつまで持つのか。華僑の乱入と商業的拡大はいずれミャンマーの伝統的価値観を俗悪な方向へと押し流すことになるだろう。
夜、眠らないままホテルのバアでカクテルを飲んだ。喧噪な音楽、舞台の歌手は西洋と日本の歌を歌っていた。「ビルマの竪琴」よ、いずこ。
ヤンゴンのチャイナ・タウンに足を延ばした。
ショーウィンドーには世界の一流品が並び、アーケード街は殷賑を極めていた。そのわりに物乞いが少ない。中華料理のレストランがそこら中にある。縫製工場も宝石加工も華僑経営が多い。中国語が通じる。
ちなみに宝石はミャンマーの国益にかかわる重要産業だから税務監査がきびしく、翡翠、ルビー、サファイアなど僅か数十ドルの買い物でも逐一領収書が発行される。税金は売り上げの一割。ざっとアーケードを見たが華僑系が繊維、貴金属をほぼ独占し、雑貨、工芸などがビルマ族と観察できた。
経済問題は深刻である。 日本の1・5倍の国土面積に日本の半分の人口しか居ない。人口密度はしたがって日本の三分の一、どこへいっても水牛と大地。工業のインフラはと言えば電力不足により停電が多い。ハイウエィも建設がのろく、鉄道は半世紀前のスピード。また映画館がたくさんあるのにも驚いた。外国映画も輸入されていて意外や意外、韓流「冬のソナタ」が大ブームである。
ヤンゴンで宿泊したホテル「トレィダqーズ」には日本料亭も入っていた。日本酒の冷や酒も熱燗もある。これも世界的流行だ。二階のバアは完全にアメリカ式、ビリヤード、ダーツ。ここでも現地人がスコッチに酔い、英語の歌を外国人観光客にまざったビルマ人が歌っている。宗教律がうるさい筈なのに、この価値紊乱はやはりニューデリーやムンバイ(ボンベイ)と酷似しているのか。
「カミカゼ」というカクテルを飲んだ。命名が気に入ったからだが、飲むとなんのことはない、ウォッカにライムである。
外国資本の流入とともにビルマ人の若者の意識が急速に変わった。 伝統が希釈していく懼れはないのかという杞憂は現実の問題となった。雇用機会が増え、女性の就労機会が急増し、このため婚期が遅くなる。ミャンマーでさえ働く女性の婚期は30歳代が多い。その結果、結婚しても子供が一人か二人、進学率が上昇し価値観が変わる。中国、ベトナム、印度と同じである。
ミャンマーの人々が貧困に喘いでいても、人間性が豊かで、哲学的な人生への取り組みが比較的どっしりとして見えるのは仏教を基礎とする伝統文化を尊ぶ民族の精神である。日本のようにひきこもりが目立たないのは僧侶が求心力となった精神社会の強靱さでもある。戦後の日本がうしなったものは、こうした精神世界である。
仏教原理を価値観の頂点におくため軍人でも有名なパゴダへの参拝と寄付を演出し、憲法を超える宗教律にその統治の権威をすがる。仏教原理がまつりごとの求心力にある。タイが国王と仏教の権威を重ね持つ智慧に基づき、首相は国王に拝謁するかたちを踏襲して社会を安定させてきたように。
しかしミャンマー元国王はイギリスにより印度に拉致されてから半世紀以上も経った。その権威の代替を軍部が行うため、ミャンマーの統治形態もペルシアやサウジと同様に伝統的権威の確立はひどく遠のいてしまった。
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