東アジア歴史文化研究会

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中国に蹂躙されたチベットの歴史(ペマ・ギャルポ氏)②チベット問題とは何か

2011-07-03 | 歴史の真実
中国に蹂躙されたチベットの歴史(ペマ・ギャルポ氏)


②チベット問題とは何か
 1950年1月、共産党政府は「人民解放軍の基本的課題は、本年中にチベットを帝国主義国家の手から“解放”する事にある」と声明を出し、チベットを侵略する意思を明確にしたのです。その宣言の通り、カムやアムドの国境地帯に人民解放軍が徐々に集結し始めて、訓練や攻撃準備を始めたのです。驚いたのはチベット政府です。直ぐに中国政府に強く抗議をすると共に、「チベットが、かつて中国の一部であった事は一度も無く、チベットを支配する外国政府など存在せず、従って解放される必要は全く無い」と言う、声明を出しました。しかし10月に、4万人近い中国軍がチベット東部に襲い掛かったのです。数日間の戦闘でチベット軍は蹴散らされ、チベット東部は、あっと言う間に制圧されてしまいました。

 1951年5月には中国が、17か条条約(中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放に関する協約)を、一方的にチベットに突き付けます。ラサから北京に派遣された代表団は、調印しなければ直ちにラサに侵攻すると言う恫喝を受けて、強制的に条約に調印させられたのです。この条約は、国際法上は無効です。代表団はチベット政府から全権を委任されておりませんし、公印も持っておりませんでした。しかし中国政府は代表団に、ラサのチベット政府に連絡も取らせずに、偽造した公印を使用して調印式を行ったのです。ここから現在に至るまで、チベット人民の苦難の歴史が始まった訳です。しかし、この条文が忠実に守られたならば、チベットにとってまだ救いでした。条文では民族自決権、ダライ・ラマ体制を維持する事、宗教や伝統を尊重する事などが保証されていたからです。

 中国が侵略した1950年の時点では、チベットは独自の通貨もあれば、切手も発行しておりました。ダライ・ラマ法王も、これまでの社会が維持されるのなら、苦渋の選択で「17か条条約」を受け入れました。しかし、中国共産党は数年も待たずに、それらを全て破ったのです。

 中国は、チベットを解放したと言いますが、一体何から解放したのでしょうか? 最初は、米帝国主義から解放すると言う事でした。当時、チベット国内に何人の外国人がいたのでしょうか? そして、その中で米国人は何人いたのでしょうか? 外国人全部を合わせても、数人しかいなかったのですから。数人の外国人を追い出す為に、何十万もの軍隊を派遣する必要は全くありません。そして暫らくすると今度は、チベットを搾取しているのは、何の生産性をも持たない僧侶たちであると、僧侶を糾弾し始めたのです。そして、僧侶たちを人民裁判(タムジン)に掛け始めました。その次には、搾取の源は地主などの貴族階級だと言い始めました。こうして中国は解放する対象を次々と変えて、内政干渉はしないと言いながら、ダライ・ラマ法王を頂点とするチベットの社会体制を崩して行ったのです。

 宗教の破壊は、僧院や仏具と言った物理的な対象に留まらず、僧や尼僧に、強制的に政治的、宗教的信念の「愛国再教育」を施しているのです。また、ダライ・ラマ法王と、法王が認定したパンチェン・ラマ11世を信奉する事は、現在でも厳しく禁じられており、更には、ダライ・ラマ法王の写真を所持することすらも、現在のチベットでは違法なのです。

 中国共産党憲法第36条には、信仰の自由が保障されておりますが、この条文には裏があって、彼らの言う「自由」には、様々な制限が加えられているのです。その一つは、「教育の妨げになってはならない」ことであり、次は、「健康の妨げになってはならない」ことです。そして、共産党政府にとっては、多分、これが一番重要なのだと思いますが、「秩序を乱す様なものであってはならない」と言うのです。この憲法は自由を謳いながら、実際には何も出来ない様になっているのです。

 2008年3月14日、チベットのラサで発生した中国政府に対する抗議デモは、一部が暴徒化して大規模な騒乱へと発展致しました。中国政府は、ラサ市内に戦車や装甲車まで投入してデモを鎮圧して、事実上の戒厳令下に置きました。しかし、激化する抗議行動はラサに留まらず、四川省、青海省、甘粛省などにまで波及し、各地で多数のチベット人が亡くなっております。正確な犠牲者は不明ですが、3月17日時点で少なくとも100人、あるいは、それ以上と言われております。同日、チベット亡命政府議会は、死者は数百人に上ると言う声明を出しております。

 因みに、今回の「北京五輪の抗議行動」について、日本のメディアで“暴動”と言う表現が多く用いられているのは残念です。“暴動”とは、鎮圧する側の視点に立った言葉であり、チベット人にとっては、不本意な表現である事を理解して戴きたいのです。

 では一体、何故これ程の大規模な“騒乱”に発展したのか?と言うと、先ず一つ考えられるのは、今年2008年8月から開催される北京オリンピックを、中国政府が政治的に利用している事に対して、チベットの人々が強い反発を抱いていると言う現状があります。

 例えば、聖火リレーで聖火を、チベット人にとっては聖地である、チョモランマの頂上まで運んだ事や、あるいは北京五輪のマスコットに、ジャイアント・パンダや、チベット・カモシカが使用されている事にあるのです。日本人にとっては、1972年の日中国交回復時に、上野動物園に2頭のパンダが送られて来て、大変なブームになった事もあり、中国の動物だと言う印象があるかも知れませんが、パンダは、その生息地域を見てもわかる様に、本来はチベットを代表する動物なのです。この様に平和の祭典と言う美名を隠れ蓑にして、中国政府が自分たちのチベット支配を、既成事実化しようとしている事に、チベット人が猛烈に反発していることが挙げられます。

 今回の騒乱の発端は、3月10日、ラサの「ジョカン寺」近くの土産物街パルコルで、僧侶や尼僧を含む10人あまりのチベット族が、チベットの旗を振り、ビラを配りながら抗議活動を行ったところ、武装警察が殴るなどの暴力で制圧した事にあります。更に同日、「デプン寺」から「ジョカン寺」まで、僧侶約300人が抗議デモを行ったところ、数千人規模の武装警察隊に封じ込められ、その時に50人以上が拘束されたのだ、と言うのです。これを受けて翌日、チベット郊外で僧侶を中心に、600人以上の規模の抗議デモとなり、更なる逮捕者が出ました。

 3月10日は、1959年の「チベット蜂起」の記念日であり、これまでにも毎年、チベット内外では、何らかの抗議運動や記念行事が行われて来ました。更に、49周年の今年の場合は、昨年10月にダライ・ラマ法王が米国議会から議会最高の栄誉である「議会名誉黄金章」を、贈られた事に対しての祝賀行為をしようとした僧侶たちが、公安当局に拘束されました。その時点では未だ僧侶たちが、釈放されてない事に抗議する意味も加わっていたのです。しかし抗議デモは例年の事であり、中国側も充分承知していた筈です。しかも僧侶たちのデモは、あくまで平和裏に、整然と行われていたにも拘らず、武装警察隊が僧侶たちを公然と警棒で殴るなどして、強制的に解散させたのです。これにはチベットの民衆を、あえて刺激する意図があったのではないのか?との疑いもあるのです。それは、オリンピック前に邪魔になる連中を拘束しておこうと、公安当局が考えたのかも知れないからです。

 こうしてラサ市内の緊張が高まる中、ついに市民が怒りを爆発させる決定的な出来事がおこりました。14日朝、市内の「ラモチェ寺」の前で、僧侶を中心とした座り込みの抗議活動をしていたところ、その中に武装警察のトラックが突っ込んで来たのです。そして、無抵抗の僧侶たちに対して、殴る蹴るの暴力を働き、数人の死者が出たのです。僧侶たちが一方的に撲殺される様子を目の当たりにした市民が、日頃の抑圧に対する怒りを抑えられなくなったとしても、無理はありません。数百人規模の市民や僧侶が、市内の中心部パルコルに繰り出し、抗議デモを行ったのです。残念な事に市民の一部には暴徒となって、中国人が経営する商店を焼き討ちするなどの事もあった様です。これに対し、武装警察隊はデモ隊めがけて発砲し、暴徒とは言っても石を投げるくらいの事しか出来ないチベット人側は、即座に鎮圧されてしまいました。その際に数十人のチベット人犠牲者が出たのです。デモ隊と武装警察隊が衝突した事を受けて、チベット自治区第一書記は「これは人民戦争だ」と、言い切りました。つまりは、戦争と言う事ですから「チベット人は皆殺しにしろ」と言っているに等しい訳です。上からの命令ですから、武装警察隊は何の躊躇もなく発砲した事が考えられます。この言葉によって、公安当局の対応が過激化した部分もあるのではないかと思います。

 4月17日の中国政府側の会見では、自分たちが何人のチベット人を殺したかについては、一切触れておりません。彼らはデモ隊が暴れて、罪の無い中国人を殺したと言う事しか発表せず、「虐殺」と言っても差し支えない様な武力鎮圧を実施したにも拘らず、自分たちは正義であり、治安を乱すチベット人デモ 参加者が、商店を破壊、略奪して、路上で車に火を放つ映像を生々しく伝えたのです。中国が、国内の暴動シーンを放映するのは極めて異例ですが、僧侶たちの デモ行進や、治安部隊が鎮圧する場面は全く流されませんでした。

 中国がチベットを手放そうとしない理由は幾つか考えられますが、重要なのはチベットの地下資源です。チベットに中国が鉄道を引いた本当の目的は、この地下資源収奪にあるとチベット人は懸念しているのです。チベット亡命政府が1992年に発表した資料では、126種類の鉱物の存在が確認されていて、リチウム、クロム、銅、鉄の埋蔵量は、世界的にも有数だと言います。また、アムドには油田や天然ガス田が確認されております。それ故、資源飢餓国だった中国としては、絶対に所有・開発したい訳ですから、簡単には手放さないのではないでしょうか?

これからも未だ暫らくは、チベット人の不幸は続きますが、日本人の皆さんの応援を、どうか宜しく、お願い致します。



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