東アジア歴史文化研究会

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連載コラム(30)『日本の百霊域(パワースポット) 西郷さんがのっしのっしと行軍している

2023-11-02 | 日本の歴史

西郷隆盛の軌跡を追うスピリチュアルジャーニーの過程で、個人的な霊的体験を述べる。 

西郷隆盛命を祀る南洲神社は鹿児島市内の高台にある薩軍墓地に隣接し、錦江湾をどっかと見下ろしている。腰を据えて日本の未来を祈っている。

江藤淳は晩年の『南州残影』(文春文庫)で、「西郷南州は思想である。この国で最も強固な思想である」と書いた。

そして南州墓地に立った江藤淳は述べた。

「桜島の噴煙と相対峙するこの場所から、西郷隆盛、篠原国幹、桐野利秋以下が、麾下の軍勢を卒き連れて、今にものっしのっしと進軍を開始しそうな幻想に囚われる。桜島をはるかに越え、遠い南瞑の海に向かって、その幻の大軍団の進軍はつづけられる」

噴煙をあげる桜島をしっかりと直視し、その先に国に運命を見ている。「この国は滅びるのではないか」とでも言いたげな墓地の葬列の有様は悲壮なのである。

▼霊気漂う南州墓地

薩軍墓地は明治十三年から造営がはじまり、九州各地に散った遺骨を収容、令和二年現在、2023人が祭られている。

墓地の敷地に入って正面の階段をのぼると中央が南洲神社の祭神となった西郷隆盛の墓だが、その陣形を見ると寒気を催す。

若き日に最初に訪れたときは名状しがたい震えがおさまらなかった。十数年を経て二度目に参詣したときは穏やかな春の日だったにもかかわらず鬼気迫る雰囲気が漂っていた。

一天俄かにかき曇り、激しい雷雨がくるのではないかと思った。

三度目に参拝したときにようやく落ち着いてちゃんと墓参ができた。四回目の墓参は平成二十九年の三月だった。雨交じりの寒い日だった。筆者は若き日からの宿題だった西郷論をようやくにしてまとめることができた(拙著『西郷隆盛―なぜ日本人はこの英雄が好きなのか』、海竜社)。

南洲墓地の構造的な陣形(墓揃え)は恰も西南戦争における西郷軍の布陣、戦国の馬揃えのごとくである。

中央にある西郷の墓の右に桐野利秋、永山盛弘(弥一郎)、池上貞国、辺見十郎太。左が篠原国幹、村田新八、淵辺高照、別府晋介らと続き、烈士が眠る大きな墓園になっている。墓地内には幾多の著名人が揮毫した石碑、海舟の歌碑も並んでいる(永山弥一郎については現在、伊藤秀倫が『週刊文春』に永山伝を連載中)。

辛亥革命の立役者のひとり黄興も、明治四十二年に宮崎滔天の案内で西郷墓地を訪れ墓参している。その記念碑が境内にある。知る人ぞ知る黄興は、辛亥革命の事実上の立役者であり、もう一人は宋教仁だった。宋は日本亡命、国民党の創設者だったが、袁世凱の刺客に暗殺された。孫文は辛亥革命においては飾りに過ぎず、実際にはこの二人が指導した。そもそも蜂起の日、孫文はアメリカにいた。

墓地の左上に西郷南洲顕彰館がある。コンクリートの立派な建物である。ホールでは郷土史家の勉強会をやっていた。

西郷は蹶起に際して、その理由を新政府に「尋ねたき儀、之有り」とした。西郷暗殺団が密かに派遣され鹿児島市内に潜伏中という噂が広がっていたからだ。尋問する気迫、その精神に揺れ動かされ自ら死地に赴くことになるわけだが、後世の歴史にその「刻印」を、その正気(せいき)を伝える文面は壮烈の一語に尽きる。

西郷隆盛は後輩の育成、人材養成のため、退職金のすべてを投じて創った私学校の生徒らが弾薬庫を襲ったときは鹿児島に不在であり、猟犬とともに野良着をきて日当山温泉からもっと奧の山麓にあった。西郷は暴発した生徒らとは無関係であると主張すれば、事件は小さな窃盗事件として片付けられたかもしれない。

しかし西郷は学生の暴走に呼応するかのように起った。この時の西郷の心境を推し量ることは不可能である。しかし死をもろともしない、歴史における正論を鮮明に後世の記憶に残すためであり、合理主義や科学で、西南戦争の意義を説くなどの、賢しらな歴史家の言はあまりにも現代的解釈である。

湊川に散った楠木正成も、庶民の困窮を見かねて起った大塩平八郎の乱も合理主義では説明できない。かれらは功業と高名を求めて立ち上がったのではない。日本の悠久の歴史の美を求めて散華したのである。

冷静に西南戦争を客観視するならば、万一の勝利の僥倖がのぞみえたのは挙兵した部隊を熊本を素通りさせて福岡、長崎をおさえ、一挙に船舶を確保して大阪へ攻め上るという軍略があった。それを建言したのは西郷小兵衛らだったが、桐野利秋、篠原国幹の主戦論をまえに簡単に退けられた。

▼桐野利秋が戦争の主導権を握った

歴戦の強者、人斬り半次郎の異名をとった桐野利秋は、その熾烈な戦争観から一挙に熊本を攻めれば勝てるとし、強硬論をとなえた篠原国幹に同意した。

桐野は熊本鎮台司令長官を歴任した経験があり、政府軍の脆弱性をよく知っていた。たとえ新政府側の熊本鎮台司令官が歴戦の勇士である谷干城であるにせよ雑兵は烏合の衆と変わらないと読んだ。

熊本城を落とし、薩軍の緒戦の勝利を目撃すれば土佐や長州など各地の不平浪士らが西郷軍に合流する可能性は非常に高かった。官軍に勝つ蓋然性は薄いとはいえ、なによりも民衆が西郷軍に味方していた。軍費不足を「西郷札」という軍票を印刷して物資を調達したときも商人ばかりか付近の農家が西郷札を抵抗なく受け取った(松本清張の『西郷札』は、この私弊を時代背景に描いた)。

政府軍は豊富な軍事金と軍備を背景にして八代から上陸して西郷軍の兵站を背後から絶ち、小倉からは乃木希典、児玉源太郎、三浦悟楼ら支援部隊がかけつけたため戦線は伸びきり、苦戦を強いられた。

大活躍は抜刀隊だった。

官軍側の結果的勝利は徴兵による後続部隊と兵站の充実にくわえ、軍艦と大砲の威力、加えて運輸の独占、通信の独占にあった。官軍は電報網をフルに使った。

筆者は先年、佐賀の篤志家で「佐賀土曜サロン」の主宰者だった故松永又次から「形見分けだ」と言われて官軍の電報録を戴いたことがある。この戦線からの電報の記録は情報の迅速な把握に役立ち、政府軍の戦いをいかに有利にしたことがわかる。


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