病気「だけではない」辞任の理由
安倍首相辞任の背景にあるトランプ政権の圧力と、その理由になっているアメリカの長期計画について解説したい。
安倍首相が突然と辞任した。辞任の理由は潰瘍性大腸炎だった。これは難病に指定されたやっかいな病気である。大腸の粘膜に潰瘍やただれができる炎症性の疾患で、下痢や下血、腹痛を繰り返し、重症の場合は手術で大腸をすべて取らなければならない場合もある。
いくつかの治療薬があるが、薬で完全に治って再発しないのは1割程度とされ、8割ぐらいの患者は一時的に症状は治まっても再び発症する「再燃寛解型」と呼ばれるタイプに分類される。さらに残り1割の患者は、半年以上にわたって症状が治まらない慢性持続型と呼ばれる。安倍首相はこの「再燃寛解型」であったと思われる。
新型コロナウイルスの蔓延、それに伴う予想を越えた経済の地盤沈下、そして米中対立の激化など緊急の対応を要求する課題が多く、その激務とストレスから、かねてから患っていた潰瘍性大腸炎がぶり返し、今回の辞任に至ったというのがもっぱらの報道である。
もちろん、病気の再発が安倍首相辞任の直接的な原因であったことは疑えないが、首相を辞任に追い込んだ「別の原因」があった可能性が高いことがさまざまな方面から指摘されている。
米シンクタンクのレポートに隠された意図
すでにネットでは情報として出回っているので周知かもしれないが、安倍首相を辞任させる圧力になったのは、「CSIS」というアメリカの安全保障系のシンクタンクから発表されたレポートであった。
ちなみに「CSIS」は、リチャード・アーミテージや故ジョセフ・ナイ、またマイケル・グリーンなどの「ジャパン・ハンドラー」と呼ばれ、歴代政権に仕える日本担当チームが結集しているシンクタンクだ。現在のトランプ政権の対日外交政策にも影響力があるといわれている。そのため「CSIS」が日本に向けて出すレポートは、アメリカの意向を伝えるものとして理解され、日本の歴代の政権に対して影響力を持っている。
7月30日、「CSIS」から「日本における中国の影響:どこにでもあるが特定のエリアはない」という題名のレポートを発表した。これは安倍政権下における中国の影響力を調査したレポートだ。
このレポートは(少なくとも表面上は)、安倍政権をことさらに批判したものではない。レポートの趣旨は「日本における中国の影響力」の調査だ。中国はアメリカやヨーロッパをはじめあらゆる国々に経済的、政治的、そして文化的な影響力を強化する政策を実施しており、その多くはかなり成功している。たとえば、中国政府が世界各地に開設した中国の文化センター「孔子学院」は、特にヨーロッパ諸国で中国の文化的な影響力の拡大に貢献している。
今回の「CSIS」のレポートは、中国のこうした文化的影響も含め、日本における中国の影響力を文化的・政治的・経済的な側面から調査して、分析したものだ。
「安倍政権は国内の親中派を上手く抑えている」しかし――
このレポートは、日本における中国の影響力が限定的であることを示している。
他の諸国と同様、日本にも「日中友好協会」や「孔子学院」のような中国文化を広める施設はある。しかしながら、日本人の持つ中国に対する伝統的な警戒感と違和感が背景となり、中国の文化的な影響力を拡大させる戦略は成功していないとしている。むしろ「Kポップ」や「韓流ドラマ」などを活用した、韓国の文化的な影響力のほうが大きいという。
これは文化だけではなく、政治や経済も同様で、中国による影響力の拡大策は限定的であるとしている。
そうしたなか安倍政権は、一部親中派のいる外務省をうまくコントロールし、中国の影響が政治に及ばないようにしているとして、安倍政権の対応を評価している。
中国の影響下にある政治家や高官は安倍政権の内部にいる
このように、このレポートそのものは安倍政権に対して批判的ではないものの、日本の政界における中国の影響については一部懸念を表明している。中国の影響下にある政治家や高官が、安倍政権の内部にいるという批判だ。
レポートには次のようにある。
「秋元司議員は自民党内部の親中派、二階派に所属している。この派閥は、別名『二階・今井派』とも呼ばれている。内閣総理大臣補佐官で元経産省官僚の今井尚哉は、中国、ならびにそのインフラ建設の計画にはソフトなアプローチを採るべきだと安倍首相を説得した。また、元和歌山県知事で和歌山の動物園に5匹のパンダを持ってきた二階幹事長は、2019年4月には特命使節として中国に派遣され、習近平主席と会見した。そして、アメリカの(反対)意見にもかかわらず、日本が中国の『一帯一路』に協力すべだと主張した。二階は習近平主席の訪日も提唱した」
これは安倍政権そのもの対する批判ではないものの、安倍政権の内部には親中派が存在し、中国寄りの政策を実施しているとする懸念を表明したものだ。
このレポートが出たのは7月30日である。8月に入ると、それにタイミングを合わせたかのように、安倍首相辞任の可能性を探る記事や情報が急に増えた。
このタイミングを見ると、辞任は、このレポートで表明された安倍政権への懸念に対応したものである可能性が高い。
CSISのレポートは「日本への指令書」
だが、「CSIS」のようなアメリカの歴代政権に近いシンクタンクがレポートを出したとしても、日本に政策変更を迫ったり、また最悪の場合は首相を辞任させるだけの影響力はあるのだろうか?
ちょっと想像できないかもしれない。しかしながら、そのような例は過去に枚挙のいとまがない。比較的に最近の例を見てみよう。
2014年10月3日、「CSIS」は、「安倍の危険な愛国主義:なぜ日本の新しいナショナリズムは地域と日米同盟に問題となるのか」というレポートを発表した。これは当時の安倍政権のナショナリズムが東アジア地域の安全保障、及び日米同盟を損なう可能性を警告したレポートだ。そこには次のような警告がある。
「残念ながら現在の東アジアの情勢では、安倍のナショナリズムはアメリカにとって大きな問題である。もし安倍のナショナリズムが東シナ海において不必要に中国を挑発したりするならば、信頼できる同盟国というワシントンの日本に対する見方を損なう恐れがある。」
そして、これを回避するために韓国との間にある「従軍慰安婦」の問題を解決するように提案をする。
「もし安倍の『従軍慰安婦』やその他の問題に対する姿勢が東京とソウルとの協調を損なうのであれば、この地域の軍事的な不確実性に対処するアメリカの能力を弱め、同盟の強化に向けたアメリカの外交努力を損ねることになりかねない。」
「東京はこれらの政治問題の重要性をよく認識し、可能な分野で歴史問題の緊張を和らげる努力をすることは重要だ。(中略)これは特に日韓関係で重要である。もし日韓両国が前向きであれば、大きな前進が期待できる。日本が発揮する柔軟性は、日本の保守層がナショナルプライドを放棄することにはならない。」
つまり、日韓関係を改善するために、安倍政権のほうから「従軍慰安婦」問題を解決せよということだ。
日本はアメリカの言いなり
安倍政権の反応は速かった。このレポートが出た3週間後、日本政府は「国家安全保障会議」の谷口氏を特使として韓国に派遣し、この問題の解決の糸口を探った。
その後、日韓・日中は外相レベルの会談を実施し、懸案だった日韓ならびに日中韓の首脳会談の実現した。
そして、2015年12月、協議を重ねた日韓両国は慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決を確認した「慰安婦問題日韓合意」を締結した。
もちろんこの合意は、残念ながら現在のムン・ジェイン政権によって破棄されたものの、この当時は懸案だった慰安婦問題の最終的な解決として高く評価された。
安倍辞任の背景に、アメリカの戦略転換
このように、特に「CSIS」が日本に向けて出すレポートの政治的な影響力は非常に大きいものがある。日本の政権の方向性を実質的に変更するほどの力があると見てよい。今回の安倍首相の辞任の背後には、「CSIS」のこうしたレポートの力が働いていた可能性はやはり否定できない。
ではなぜ、トランプ政権は安倍首相の辞任を望んだのだろうか?
実はいまトランプ政権は、中国封じ込め策へと転換し、そのための世界戦略の再編成を始めている。中国やロシアとの比較的に近い関係を維持する安倍政権では、この新戦略を実施するのは不可能であると見られたからだ。
中国に対して軍事的に脆弱なアメリカ
ところでオバマ政権は、特に南シナ海で拡大を続ける中国を抑止するために、中国軍の「接近阻止・領域拒否(A2/AD)」を目的にした次の2つの軍事戦略を持っていた。
1)エアシーバトル
中国本土のミサイル基地や空軍基地を攻撃して、中国軍の反撃能力を奪う。
2)オフショア・コントロール
米空母機動部隊で「第一列島線」を全面的に閉鎖し、中国を経済的に封鎖する。そして中国の弱体化をはかる。
この2つの戦略である。
しかしどちらの戦略もアメリカには勝ち目がないことがはっきりした。どのようなシミュレーションを使っても、アメリカ軍に勝ち目はない。
まず(1)の「エアシーバトル」だが、中国本土のミサイル基地や空軍基地は地下深くに存在する。そのため、空爆による破壊は不可能なので、中国は反撃能力を温存する。中国は空母キラーの「東風21」や、グアムや日本の米軍基地も射程の範囲にある「東風26」で攻撃し、米空母機動部隊と米軍基地を壊滅できる。米軍基地の施設は地下ではなく地上にすべてあるので、中国のミサイル攻撃には無防備だ。「エアシーバトル」のように下手に中国本土を攻撃すると、アメリカは負ける。
また(2)の「オフショア・コントロール」も実現は難しい。中国は「一帯一路」でユーラシア全土を包含する経済圏をすでに構築しているため、「第一列島線」を閉鎖するだけで経済封鎖はできない。陸路からエネルギーや食料は輸入可能だ。中国はそのまま経済力も軍事力も温存する。案だった慰安婦問題の最終的な解決として高く評価された。
米軍の根本的な再編成
もしアメリカが中国を封じ込めるつもりなら、現在の米軍の編成を前提にした戦略では封じ込めはできないことになる。実現不可能だ。
中国を効果的に封じ込めるためには、現在の体制の根本的な再編成が必要になる。それは次の3つに要約できる。
1)無防備な米軍基地をアジア各地に分散化させる
2)日本をはじめ同盟国と共同で中国を封じ込める
3)中国の発展を遅らせるための制裁強化
この3点である。
まず(1)だが、これは数百発に上る中国のミサイル攻撃を回避するために、いまの日本や韓国に集中している米軍基地の体制を再編成し、台湾の高雄市、フィリッピンのスービック湾、そしてベトナムのカムラン湾などの地域に米軍基地を分散させるというプランだ。これには、米海兵隊の装備を海上で戦闘できるように改める「フォース・ディフェンス2030」という計画も含まれる。また、自衛隊のミサイル基地を離島に分散させる案もある。
だが、これらを実行するためには10年程度の時間が必要だ。たとえば、高雄市やカムラン湾に米軍機地を作るためには、ベトナムや台湾と安全保障条約を締結しなけれならない。ベトナムは最近アメリカと近い関係にはあるものの、同盟国ではない。安全保障条約の締結には相当の時間が必要だ。
また中国が主張する「ひとつの中国」政策をアメリカも受け入れているので、台湾との国交はない状態だ。ましてや、安全保障条約の締結などいまのところできない。
そしてフィリッピンのスービック湾だが、1991年に米海軍はここから撤退し、基地はフィリッピンに返還されている。いまはショッピングセンターとして再開発されている。ここにまた米軍基地を作るとしても、数年後のことになる。
重要になる(2)と(3)
このように、(1)の米軍基地を再編し分散化させるには10年程度の時間がかかる。
その間、中国の抑止策として重要になるのが(2)と(3)だ。トランプ政権は日本や韓国、さらには東南アジア諸国やオーストラリアなどの同盟国と連携し、中国を封じ込め、孤立化させるための体制を構築する。
さらに、米軍基地の再編ができるまでは、中国にあらゆるタイプの制裁を発動し、少しでも中国の足を引っ張って中国の発展を抑止する。
米中間で「どっちつかずの日本」は望めない
さて、このように見ると、「CSIS」のレポートでアメリカが安倍政権内の親中派の存在に警鐘を鳴らし、やんわりとだが安倍政権を批判した理由がよく分かるはずだ。
これが安倍首相辞任の背景になった圧力でもある。
トランプ政権は、中国を封じ込めるための長期的な体制構築に向けて動き出した。これを実現するためには、アメリカと足並みを揃えて反中国の強硬路線を採ることを、日本をはじめとした同盟国に強く要求している。
そのような状況では、「一帯一路」に協力し、習近平主席を国賓として招く親中的な安倍政権は、トランプ政権にとっては都合が悪いということなのだ。
安倍首相の辞任は、中国を軍事的に封じ込め、対抗できる長期的な路線に、トランプ政権は大きく舵を切ったことを意味している。
菅官房長官が次期首相になることが確実になった。菅首相は、トランプ政権からの非常に強い圧力にさらされることは間違いない。
中国とアメリカとのバランスをとり、両国と友好な関係を維持する方向性は許されないだろう。しかし、中国に明確に対抗することには相当な犠牲を覚悟しなけれなならないはずだ。
アメリカが中国に軍事的に対抗できる長期的な体制の構築ができるまでは、米中戦争は起こらない。しかし、対中国包囲網の構築に日本は確実に巻き込まれることだろう。日本の命運がかかっている。
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