東アジア歴史文化研究会

日本人の素晴らしい伝統と文化を再発見しよう
歴史の書き換えはすでに始まっている

独立の価値を明治に学ぼう(拓殖大学学事顧問 渡辺利夫氏)

2018-05-22 | 日本の歴史
明治維新百五十年を迎えたが、明治維新の意義を否定したり相対化しようとする動きが目に付く。明治維新を古めかしいものと決め付け、明治維新以来の国つくりが結果的に日本を戦争への道に進ませ、最終的に破綻したと主張する新聞もあれば、国会では野党の党首が「明治レジームからの脱却」などという聞いたこともない言葉を使って主張を展開する始末である。こうした思想的混乱は放置しておいてよいものではない。今大事なのは、明治維新をオーソドックスに受け止め、何を学ぶべきかを再確認することではあるまいか。そこで、拓殖大学学事顧問の渡辺利夫氏にお話を伺った。

「脱明治」?

渡辺 「明治レジームからの脱却」とはねぇ。ちょっと考えられない発想ですね。この言葉は安倍首相の「戦後レジームからの脱却」という言葉を意識したものであろうことが容易に想像できますが、国会審議の場で出たということですから、安倍政権との対決姿勢を示すためにあえてそんな言葉を使ったのかもしれません。けれども、そもそも明治維新というのは現代の日本の「基点」です。そんなふうに政争の具として持ち出すのはまことに軽率と言わざるを得ない。福澤諭吉は「一身の利害を以て天下の事を是非すべからず」と戒めていますよ。
それに、今は脱却どころか、明治という時代から学ばねばならないことが山ほどある。私は十年前に出た新脱亜論の序章に「先祖返りする極東アジア地政学」と書いたことがあります。その頃は中国が空前の軍事力増強を続け、南シナ海で挑発的な行動を露わにし始めた。韓国は歴史認識問題や竹島問題で対日非難を繰り返す。北朝鮮は核実験やミサイル発射実験を行う。こんな状況だったのですが、それを見て現在、幕末・維新から日清・日露戦争あたりの時代に「酷似」してきたと感じ、「先祖返り」と表現したのです。

言うまでもなく、それから十年経った今、彼らの言動はますますエスカレートし、国際法が平気で無視され、「力」による現状変更が行われようとしています。まさに明治という時代に日本を苦しめた地政学 的環境の再現のごとし、です。日本の進路を考える場合、明治は、日本人が深く追憶すべき時代だと私は考えています。「脱明治」を吹聴する感覚には、私は理解に苦しみますね。

明治維新はなぜ行われたのか

渡辺 端的に言えば、あの幕末から明治は帝国主義の時代です。力の強い者が勝ち、弱い者は洵汰されても仕方がない。実際に、列強はアフリカはもとより中近東のすべてを植民地支配下に置いていました。 そして、南アジア、東南アジアを経て、ついにアジアの大国・清をターゲットに、アヘン戦争(1840年-42年) を仕掛け、中国大陸の沿海地域や長江流域を次々と租借地にしてしまいます。そうやって世界を支配下に置いてきて、最後にわずかに残されていたのが日本だったのです。

アヘン戦争から十年余り後の嘉永六年(1853)、ペリーの黒船が浦賀に来航します。最初は四隻、次に七隻で、二回やってくるわけですけれども、大量の大砲を装着した艦隊です。これを品川沖まで進めれば江戸城を射程に収めることができる。完全な砲艦外交です。幕府はいかんともし難く、日米和親条約を結ぶほかなかった。また、この条約により下田にアメリカの領事館が設置され、そこでの交渉により安政五年(1858)には日米修好通商条約が結ばれます。これは日本に関税自主権がなく、アメリカに領事裁判権(治外法権)を認めるなど、まことに不利で屈辱的な条約でした。しかも、これを見ていたオランダ、ロシア、イギリス、フランスは同様の不平等条約を次々と日本に要求してきた。日本はこれも飲まざるを得なかったのです。

いったい、なぜ列強はこんな不平等条約を日本に押しつけてきたのか。ありていに言えば、日本は彼らと対等の資格を持った「文明国」とは見なされていなかったからです。

この時代にあっては、世界は大きく「文明国」と「未開国」の二つに分けられるというのが欧米人の考え方でした。輝く光を持つ文明国と、その光がまだ届かず未開のままに置かれている国という二分法です。文明国のみが理性的で道徳的な存在であり、彼らだけが対等な国際関係を持つ国です。ですから、万国公法(国際法)が適用されるのは、文明国だけだと考えられていました。未開国はその対象にもならない。というより、未開国は野蛮で不道徳な存在だから、文明国は未開国を征服して「教化」しなければならないとさえ考えていました。列強が砲艦外交で日本を開国させることにまったく躊躇がなかったのは、そういうイデオロギーを持っていたからです。ひどい考え方だと言ってしまえばそれまでですが、善悪の問題ではなく、それが帝国主義時代の現実だったのです。

――そこで、列強に征服されないためには、列強を列強たらしめているその「文明」そのものを自分たちも手に入れなければどうにもならないと。そう考えて断行したのが明治維新ですね。

渡辺 その通りです。日本はペリー来航から十五年で明治維新を成し遂げました。明治維新の基本精神を示した五箇条の御誓文には「旧来ノ晒習ヲ破リ天地ノ公道二基クヘシ」「智識ヲ世界二求メ 大二皇基 ヲ振起スヘシ」と書かれています。維新の直後にこれほど開明的な国づくりの方針を示し、しかも、天皇陛下が群臣を率いて神に誓われた。以降、版籍奉還、廃藩置県、学制発布、地租改正、殖産興業、富国強兵、帝国憲法発布、帝国議会開設・・・・・等々、短期間で近代国家を造り上げ、そして日清戦争・日露戦争に勝利し、条約改正を成して列強の一員となったのです。

なかでも日清戦争と日露戦争は勝ったからよかったものの、もし負けていたら、日本は清露いずれかによって植民地にされていたでしょう。だから、そもそも明治維新がなければ、現在の日本という国家は存在していなかったと想像されます。

また、日露戦争については多くの人が世界史的意義を持つ戦争だということを指摘していますが、司馬遼太郎氏は「人類史上の画期である」と表現しています。つまり、ノンホワイト(非白人国家)がホワイト(白人国家)に歴史上初めて勝利し、その事実がアジア・アフリカの有色人種の独立への志向性に絶大な勇気を与えた。それまで彼らは白人への挑戦はやっても詮無いものだと考えていたのに、同じ有色人種の日本がロシアに戦いを挑んで勝ったことで、俺たちもできないはずがないと。夢は単なる夢ではなく、実現可能な夢だと思わせた。この日露戦争の意義は、あらためて記憶されて然るべきでしょう。

独立のための文明開化

――開国するということは、そうした帝国主義が渦巻く国際社会の中に乗り出すことを意味していたわけですね。

渡辺 私が明治維新の大変革の中で注目しているのが廃藩置県、それから岩倉使節団です。廃藩置県は西郷隆盛が中心になって断行した革命で、これにより旧体制のエリートであった武士は身分も家禄も手放さざるを得なくなりました。そのため反動が大きく、士族の不満が全国に渦巻き、のちのち佐賀の乱、萩の乱 、秋月の乱、神風連の乱という形で噴出して、最後は西南戦争にまで発展します。

ところが、その革命のさなかに岩倉具視を代表として、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文など政府中枢の要人たちが参加した使節団が、一年八ヶ月にわたり欧米十二ヶ国の視察に行くのです。

新体制はできたけれども、どのように近代国家をつくったらいいかというノウハウがない。道路、鉄道、街灯などのハードはまだ分かるけれども、立憲君主制、政党政治、議会政治、宗教と政治との関係など近代国家の根幹に関わるソフトを制度として整え機能させるには書物を読むだけではなかなか分からない。そこで、指導者が欧米へ行って自分の目で確かめようと、実地に見聞し、必死に学んで帰ってくるわけです。

西郷を留守役に残したとはいえ、日本が一番危ないその時期に、こんなリスキーな行動を取ったのは凄いことなんだと率直にそう思うんですけれども、そこまで彼らを突き動かしたのは何だったのかというと、やはりそれをやらなければ文明国として認められない、という危機感だったと思います。

さっきも言ったように、文明国として認められないということは、野蛮で未開で人間扱いされない。万国公法の対象にもならない。ですから、なんとしても対等に処遇される国になりたいと。この熱望は尋常なものではなかったと思います。

この熱望が、国を―つにまとめ、国民を突き動かす原動力となったのです。そして日清戦争に勝利したことで、不平等条約のうち、治外法権は廃止されますけれども、もう―つの関税自主権が廃止されたのは、日露戦争に勝利した後の明治四十四年です。要するに、不平等条約の改正に日本は明治の全期間を費やさねばならなかった。いかに文明国、すなわち独立国として認められることが難しい時代であったかが分かります。

――ということは、明治維新の最大の目的は、国家の独立だった。

渡辺 まったくその一点に尽きます。文明開化をして行く上で、圧倒的な影響力を与えたものとして挙げられるのが福澤諭吉の「文明論之概略」ですが、福澤は日本の文明化の必要性を徹底的に説いた後、最後の最後に論理を見事に転換して、「国の独立は目的なり、今の我文明は此目的に達するの術なり」と書いています。福澤が「文明論之概略」を書いたのはこれを言わんがためであったに違いない。文明化を通じての独立、これこそが福澤の生涯をかけてのテーマだったのです。

日本が独立を保ち得た理由

――それにしても、あの帝国主義の時代に、なぜノンホワイトの中で、日本が独立を保ち得たのでしょうか。

渡辺 ―つは、当時の指導者が正確な「自画像」を描いていたからだと思います。自分の顔は自分では見えない。私たちは自己を鏡に映すことによって初めてセルフ・アンデンティファイ(自己確認)ができますね。社会生活において自己を映す鏡とは、他者です。他者を鏡にすることによって、自分には何
が足りないのか、何が必要なのかが見えてくる。その点、幕末から明治の指導者は、列強を鏡にして、非常に正確な自画像を描き、進路を誤らなかった。

例えば、ペリー来航後、幕府がアメリカと条約を結んで開国すると、それに対する批判として攘夷運動が起こります。しかし、攘夷は一時、花火のように燃え上がったけれども、すぐに収束して行く。なぜかというと、彼我の戦力差が圧倒的なものであることを敏感に悟ったからです。

例えば、長州藩は関門海峡を通る外国船に砲撃を加えましたが、英米蘭仏四ヶ国連合軍による攻撃によって、たちまち砲台を占拠されてしまいます(馬関戦争)。日本の大砲から放たれる弾丸はただの鉄の塊でした。それに対して 、列強の砲弾には火薬が装填されていて破壊力は比較になりませんでした。それで長州は「とても攘夷などと言っていられない」と欧米の優れた文明を導入すべく、ガラリと方向転換するのです。

薩摩藩も生麦事件の報復にやって来たイギリス艦隊と戦っています(薩英戦争)。薩摩の場合は、島津斉彬の指導でいち早く近代化を進めていたため、イギリスとは互角に戦ったのですが、実際に戦ってみて、その艦隊の背後にあるイギリスの産業技術力や軍事力など国力総体を洞察した。ここが島津斉彬の志を継いだ薩摩藩の偉いところで、これを契機にさらに近代化を推進するのです。

――明治の殖産興業・富国強兵路線の雛形を見るようですね。

渡辺 そうですね。ちなみに、かくも正確に自画像を描いた日本とは異なり、中国や朝鮮は対外危機に直面しても、その鏡に自己を映すことに熱心ではなかったようです。例えば、朝鮮では対外危機に遭遇して、「衛正斥邪」の思想が持ち上がります。衛正斥邪とは、「正」を朝鮮の儒学とし「邪」を夷秋として、「正を衛り邪を斥ける」の意味です。日本の攘夷と同様の排外主義です。しかし、朝鮮の場合は、対外危機が方向転換の契機とはならず、排外主義の純度をより深め、専制君主制の一段の強化へと繋がって行きます。

一方、中国ではアヘン戦争以来、屈辱的な目に遭い続ける中で、西洋の知識や技術を学ぼうとする動きが起こります。そうした改革によってある程度近代化が進み、海軍力は日本を上回るほどでした。とはいえ、日清戦争に敗れた後は衰退の一途を辿り、清朝が滅んで孫文が新しい中国をつくるという動きも出てきたけれども、実態としては四分五裂でまとまらないまま、百年以上にわたり混乱が続きました。

人材を用意した江戸の教育

渡辺 もう一つ、日本が独立を保ち得た理由として挙げられるのは、旧体制(アンシャンレジーム)が劣化・衰退して行く時に、これを破壊し、新体制を創る人材を、地方が豊富に育成していたことです。江戸時代には徳川将軍家を頂点とする幕府があったけれども、幕府の領地(天領)は全国の四分の一です。のこりは二百六十数藩がそれぞれの領地を持ち、自立的に存在していた。いわゆる封建制の社会です。幕府の法律は天領でしか適用されず、天領以外の各藩では独自の法律、行政権、徴税権、裁判権、学問、祭礼などがあり、軍事力を蓄えていた藩もありました。それにより力量を持った人材が諸藩の内部に蓄えられ、幕末期のように幕府の統治力に衰えがみえた時には、薩長など地方の雄藩が結集すれば、幕府を倒し新国家を樹立し得るほどになっていたのです 。 地方が人材の 宝庫 だったのです。

――教育の成果だと。

渡辺 ええ。明治五年に学制が発布されますが、アメリカの教育学者が調査したところ、当時の尋常小
学校の就学率は世界のどこよりも高かったようです。日本は非常に子供を大事にした国で、各藩には武士の子弟が通う藩校がありました。武士だけでなく、庶民は寺子屋で「読み・書き•そろばん」を習っていて、幕末には全国に約一万もの寺子屋があったそうです。ですから、学制によってにわかに就学率が上がったというのではなく、すでに江戸時代に津々浦々で実施されていた初等教育を制度化したということなのです。ですから、日本の庶民には相当に高い知的水準があった。少なくとも、ビジネスをはじめ何かするためのポテンシャルは高かったと言えるでしょう。

それがどんなに貴重なことだったかというのは、やはり他者という鏡に映してみれば分かります。中国や朝鮮の政治体制は封建制ではなく郡県制で、地方を郡に分け、その下に県を置く。そして中央の科挙の試験に合格した秀オを郡県のトップとして送り込み、強固で専制的な中央集権体制をつくっていました。そうすると、地方に人材が育つ「空間」が生まれません。近代化のために必要な人材は、中国でも朝鮮でも枯渇していたと言っていいと思います。

――日本はそうではなかった。

渡辺 あの時代の日本人は、欧米という鏡にきちんと自分の顔を映し、欧米と対等の力を持とうと方向転換しました。じつに敏感で、柔軟だったと思いますね。

「お人好し」では済まない時代

――弱肉強食の世界の中で、独立を維持してきた価値がよく分かりました。それこそ、今の日本人が学ばねばならないことですね。

渡辺 その通りです。とりわけ戦後の日本は、アメリカと日米安全保障条約を結び、アメリカの「核の傘」の下で安楽に暮らしてきました。「何かあったらアメリ力さんが助けてくれる」と経済発展だけを考えていればよかったわけです。しかし、今はもうそれでは済まない。明治と同様の厳しい国際環境の中で、いかに独立を維持して行くかが問われています。

その時の指針になるのが、明治の先人達の言動です。ピンポイントの判断に狂いがあったら亡国だという緊迫した状況の中で書いた政治家の文章と行動は、現代人の胸に強く響きます。例えば、福澤諭吉は「外国交際の大本は腕力に在り」と書いています。また、日清戦争前後の外交の全局を指導した陸奥宗光は徹底したリアリストでした。外交とは友好や善隣ではなく国益の確保そのものであると、誰の助けも借りずに、独力で清国との戦いに打って出ました。

また、日露戦争前後の外交の全局を指導した小村寿太郎は、イギリスと同盟を結んで背後を固め、全力を対露戦に注ぎ込むことができるよう、的確な情勢判断と気概・機略で国を引っ張って行きました。国論をまとめ日英同盟を成立させた小村の功績は不朽のものです。ただ、その前提には明治維新以来、日本人が一丸となって築いて来た近代国家としての「力」があったことを思い起こしたい。当時は、艦船の排水量で軍事力を算定した時代ですが、じつはイギリスと日本の排水量を合計すると、他のすべての国の排水量の合計より高かったのです。それゆえ日英同盟はロシアの南下政策を警戒するイギリスにとっても抑止力になります。ロシアヘの恐怖を共有するだけでなく、大英帝国が恃むに足る「力」を日本が持っていたからこそ日英同盟が成立したのです。

今の日米関係に則して言えば、果たして日本はそれだけの「力」を持っているでしょうか。今の有り様ではどう考えたって同盟国アメリカに失礼ではないかと。やはり自力で対抗できるだけの軍事カ、情報力、その他様々な手段を持つ努力を進めねばならない。尖閣諸島で何か起こった時、日本人が全く血を流してもいないのに、アメリカの海兵隊が血を流してくれるなどと考えるのは、余程のお人好しです。
日本人はそのお人好しを七十年以上も続けてきたけれども、日増しに高まる中国や北朝鮮の軍事的圧力を考慮すると、この惰性のままでは亡国の淵に沈むのではないでしょうか。

そんな絶望的事態にならないよう、この明治維新百五十年の節目を、希望へと転じる新しい歴史の「基点」としなければなりません。そのためにも、われわれ一人ひとりが、明治という時代によく学ぶ必要があると思いますね。

渡辺利夫
昭和14年、山梨県生まれ。慶應義塾大学経済学部卒、同大学院博士課程修了。経済学博士。専門は開発経済学、アジア経済。筑波大学教授、束京工業大学教授、拓殖大学教授、同学長・総長を歴任。現在、同学事顧問、日本李登輝友の会会長。「成長のアジア 停滞のアジア」「放哉と山頭火」「士魂」「決定版 脱亜論」など著書多数。第27回正論大賞など受賞歴多数。

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