東アジア歴史文化研究会

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日本語と韓国語の違いが日韓摩擦を増幅する〜呉善花『謙虚で美しい日本語のヒミツ』から(国際派日本人養成講座)

2023-07-18 | 日韓関係

日本語と韓国語は語順や文法は似ているが、敬語、受動態、謝罪や感謝の言い方などの違いが、日韓摩擦を増幅させている。

■1.「社長はこの若い女性社員になめられているに違いない」

韓国生まれで日本に帰化された呉善花(オ・ソンファ)拓殖大学国際学部教授の近著『韓国人には理解できない謙虚で美しい日本語のヒミツ』には、外から見なければ分からない日本語の特質が、面白い経験をもとにいくつも紹介されています。たとえば、こんなエピソードがありました。

呉善花さんが来日したばかりの時期に、日本の会社でアルバイトをしていた時のことです。ある会社に電話をかけて、社長につないでほしい、と頼むと、電話口に出た若い女性はこう応えました。

「鈴木は今、席を外しております」

私は腰が抜けるほどびっくりしました。韓国人なら、「鈴木社長様におかれましては、今、席を外しておられます」

などと表現していたことでしょう。自社の社長を呼び捨てにするなど、韓国では考えられないことなのです。

韓国語では、他人よりも自分の身内を立てる言い方をします。これに対し、日本語の敬語では自分の身内を下げ、相手を立てる言い方をします。当時の私は、この事実を知りませんでした。そして、「なんという会社なんだろう。この鈴木社長様は間違いなく、この若い女性社員になめられているに違いない」と思ったのです。[呉、p14]

同じく敬語と言っても、日韓でかなり違うのですね。

もちろん、韓国語でも相手に敬語を使い、身内と相手の両方に敬語を使うのですが、自分の身内を下げ、相手を立てる日本語の敬語のあり方は、今でもとても不思議でなりません。[呉、p15]

おそらく外国語を学ぶ上でもっとも難しいのが、その言語が話者の文化と密接に結びついた所から生ずる独特の言い回しなのです。

■2.「社長が私を叱った」か、「社長に叱られた」か

日本語と韓国語は語順も文法も似ているので、1年くらいで日常会話なら、すんなりと学べるそうです。しかし、より深い日本語を使おうとした時に、つまづきやすいポイントがあると言います。それが「受動態(受け身)」です。

日本語では「社長に言われた」「先生に叱られた」「友達に勧められた」などと受動態をよく使います。呉善花さんは日本語学校で受動態を習ったとき、「日本人はなぜ、まどろっこしい受動態を使うのだろうか。意味は同じなのだから、わざわざ受動態にせず、能動態で表現すればいいではないか」と思ったそうです。

韓国語では、こういう「まどろっこしい」言い方はほとんどせず、「社長が言った」「先生が叱った」「友達が勧めた」とストレートに言います。呉さんは、どうして日本人は、こんな言い方をするのか、不思議で仕方がありませんでしたが、あるとき、ふと気がつきました。受動態で話す前に「問題は自分のほうにある」という気持ちになれば、すんなりと話せるのです。

たとえば、「社長が私を叱った」と言えば、自分は悪くないのに、社長の方に責任がある、という意味合いが込められます。それに対して、「社長に叱られた」と言えば、責任は自分にあってそれを反省している、というように聞こえます。

■3.「泥棒に入られた」と「雨に降られた」

日本語の受動態には、さらにすごい形があります。受動態とは他動詞、すなわち誰それに何かを「言う」「叱る」「勧める」というように、他に働きかける動詞から作られるものですが、日本語では自動詞、すなわち他への働きかけのない動詞、たとえば「逃げる」「入る」「死ぬ」などでも、受動態ができるのです。

「女房に逃げられた」「泥棒に入られた」「子供に死なれた」などです。呉さんは「初めてこの言い方に触れたとき、私は心底びっくりしました」と言っています。「彼女に振られた」なら自分の側にもそれなりに非がある場合もあるでしょうが、泥棒の場合は絶対に泥棒が悪いはずです。

私の頭のなかは混乱しました。まるで、自分の戸締まりや部屋の管理が悪かったかのように表現するのですから。

自分ですべての責任を引き受けることは、おそらく日本人の美意識なのでしょう。他人に責任転嫁することはみっともない、醜い行為だと、日本人はとらえているのです。[呉、p28]

「泥棒に入られた」という言い方は「雨に降られた」という表現に近いでしょう。「雨に降られ」ても、自然現象の雨に文句を言うのではなく、自分が傘をもっていなかったことを反省するように、「泥棒に入られ」ても、泥棒に文句を言うのでは無く、自分の戸締まりが不十分だったことを反省する。

日本人は他者の責任を追及する言い方には抵抗を感じるのでしょう。それは「和」を保つための姿勢とも言えます。「他人に責任転嫁するのはみっともない、醜い行為」だという日本人の美意識は長い間、他者との和を保つために日本人が育ててきた智慧であると言えそうです。

■4.他者の責任追及を避けたいとする日本の姿勢の問題点

受動態を多用して、なるべく他者の責任追求を避けたいという日本語と、ストレートに能動態を好む韓国語の違いは、日韓の歴史摩擦にも反映されます。

韓国人は「日本が韓国に対してひどいことをした」と言い、「日本人にひどいことをされた」とはあまり言いません。つまり、すべての責任は日本にあって、韓国には一切の非がないと主張しているわけです。

韓国人の価値観というのは常に能動的です。何かに対して抵抗していって自分を正当化していこうという考え方が、とても強くなっています。[呉、p28]

しかし、韓国語の方が世界標準には近いのです。英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語などでも、受動態は日本語ほど多用しません。それだけ、世界は他者の責任追及の姿勢を持つことが普通なのです。世界の歴史では戦争や犯罪が当たり前で、他者の責任を追及しなければ生き延びていけなかったのが、悲しい現実でした。

一方、他者の責任追及を避けるという日本語の特徴は、「空襲を受けた」「原爆が落とされた」というような表現に顕著です。地震や台風で被害を受けても、日本人は大地や空を責めたりしないように、空襲や原爆攻撃という史上空前の戦争犯罪にも、米国の責任を追及したりしません。

こういう姿勢は、国際政治では大きな弱点となってしまいます。北朝鮮の拉致、中国のチベットやウイグル民族弾圧、ロシアのウクライナ侵攻などの犯罪行為の責任を追及しなければ、世界は良くなりません。

■5.「〜させていただきます」と「〜して差し上げます」

受動態とともに、呉さんを驚かせたのが、「〜させていただきます」という「使役受け身」の敬語です。

読者の方から「あなたの本を読ませていただいています」と初めて言われたとき、私はかなり驚きました。私から、「本を読んでください」とお願いしたわけではありません。それなのに、なぜ「あなたの本を読んでいます」ではなく、「読ませていただいています」とおっしゃるのかと、混乱してしまったのです。[呉、p31]

「〜させていただきます」に相当する韓国語での言い方が「〜して差し上げます」だそうです。

韓国では、企業の担当者が大事な顧客に商品を説明するときは「説明をしてさし上げます」と言いますし、ガイドさんが旅行客を観光地に案内するときも「案内をしてさし上げます」などのように言います。

日本人にとっての謙虚さとはへりくだって自らを下に置くことですが、韓国人の謙虚さとはあくまで上の立場にいる人々から、下の立場にいる人々に恵みを施すというものです。そうした発想が、「〜してさし上げる」という言葉にも垣間見えています。[呉、p31]

呉さんはスピーチなどで「お話しさせていただきます」という言い方には抵抗感を感じていました。そういうと、なぜか「私には力がありませんけれども」という意識になり、自分の存在感がなくなるような気がして落ち込んでしまったそうです。しかし、それも気持ちの持ちようで変わってきました。

時間はかかりましたが、強く意識をしながら「話をさせていただきます」と使っていくうちに、「こんな私にも話をする機会を与えてもらい、本当にありがたい」と、気持ちが大きく変わりました。[呉、p32]

「〜させていただく」というのは、相手に対する感謝の気持ちの表れだったのです。

■6.「支援させていただく」は韓国人には卑屈に見える

この美しい言い方も、日韓関係では悪影響をもたらします。日本はいままで多大な援助を韓国にしてきました。しかし、日本人の美意識として、その恩を売るような言い方は好みません。それで、「ちょっと協力させていただきます」という感じの対応になります。

この日本人の態度がとても卑屈に見えて、「そんなみっともない日本人がかつて韓国を踏みにじった」ということが韓国人には耐えられなくなってしまうわけなのです。

韓国から見ると、「支援させていただく」という日本の態度は卑屈に見え、罪意識があるからなのだ、とかえってマイナス評価や、反日感情を呼び起こしてしまうのです。[呉、p34]

どうも日韓の文化的差異は、両国関係がうまく行かないように、行かないようにと働いているようですね。

■7.「あなたと私は『ありがとう』を言うような間柄じやないでしょう!

「ありがとう」という感謝の言葉も日韓では使い方に大きな違いがあります。韓国語では「ありがとう」は「カムサハムニダ」と言いますが、これは公の場で使ったり、深くお礼を言う言葉で、家族や友人の親しい間で、頻繁に言う言葉ではありません。

ある韓流ドラマで、姪が叔母に対して「カムサハム二ダ」と言ったとき、叔母は「あなたと私は『ありがとう』を言うような間柄じゃないでしょう!」と怒っていました。これが韓国人の普通の感覚だそうです。

ですから、呉さんも日本に来たばかりのときは、親しくなった人に助けられても「ありがとう」とは言いませんでした。すると、相手から「ありがとうくらい言ってよね」と言われて、ドキッとした経験があるそうです。日本では、夫が妻にお茶を入れてもらうだけでも、「ありがとう」と言います。

私は来日当初、「頻繁に『ありがとう』と言ってしまうと、心がこもっていないと思われるのではないか」と疑念を感じていました。しかし、無理をしつつも「ありがとう」と言うようにすると、不思議なことに、すべてに対してありがたい気持ちが湧いてきて、日本人の気持ちがわかってきたのです。

やはり言霊の力には、すごいものがあります。[呉、p60]

このあたり、韓国は日本の援助に関しては、「日本は私たちにひどいことをしたのだから、日本が韓国に経済援助をするのは当たり前」という意識があると同時に「経済援助に対してあまりにも『ありがとう』と伝えると、かえって両国の心理的距離が離れてしまう」との思いもあるそうです。

それに対して、日本は「せっかく経済援助をしてやったのに、韓国は『ありがとう』のひと言も言わない」と感じているのです。感謝の言葉一つにも、こういう行き違いがあるのですね。

■8.「済みません」は、自分の心が「澄んでない」

「すみません」という謝り方も、大きく違います。慰安婦問題にしろ徴用工問題にしろ、韓国側は何度も謝罪を求めます。一方、日本政府の方は、今まで何度も謝罪を繰り返してきました。これは日本側の謝罪を、韓国側は「心のこもった謝罪」だと受けとめていないからのようです。

日本語の「私が悪かったです」に相当する「ザルモッテスムニダ」という情緒的な言葉を、天皇か首相が何度も繰り返して、土下座をし、涙を流さなければ、韓国人の心には届かないようです。

一方、日本語の「済みません」は、「澄んでいない」、つまり、自分の気持ちの深い所が、罪悪感で濁っているという意味です。損害を賠償したり、相手が許してくれていても、自分の心はまだ「澄んでいない」。清明な心持ちを大切にしてきた古代日本人の心ばえが、「済みません」という言葉に宿っているようです。

外形的なオーバーアクションをしないと謝罪と受け取らない韓国人と、心のありようを問題にする日本人。ここでも重大な行き違いがあります。

こういう日韓の行き違いをどうするのか。国家間の交際は近代欧米社会が育ててきた国際ルールが基準となっています。日本人も韓国人も、あくまで国際ルールに従って、付き合っていくほかはありません。

日本としては、国際ルールを踏まえて、国内では当たり前の思いやりは国際政治の場では控え、かつ韓国の国際ルールに外れた行いについては、冷静に批判する、という態度が必要でしょう。それを繰り返しながら、互いの行き違いを少しづつ縮めていくことが必要です。

日本社会は他の地域よりもはるかに平和かつ安定的な状態が長らく続いてきたので、相互の思いやりについては、数世紀ほど国際社会より先に進んでしまいました。そのため、国際社会で振る舞うには、戦国時代くらいの常識に戻らなければならないのです。

(文責 伊勢雅臣)


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