東アジア歴史文化研究会

日本人の素晴らしい伝統と文化を再発見しよう
歴史の書き換えはすでに始まっている

支那が嫌われる七つの理由

2012-09-26 | 中国の歴史・中国情勢
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いまから11年前の平成13(2001)年に、拓植大学日本文化研究所客員教授の黄文雄氏が、たいへん面白い文章を書かれています。この度の尖閣、反日デモ、そしてこれまで中国が行ってきた行動パターンがこれら七つで説明がつくことと思います。

中国人と関わって損害をこうむった方々にとっては当たり前かもしれませんが、中国人を日本人のように親切で、善良な人々ばかりだと思ったら大間違いです。石平氏もだいたい同じようなことを指摘しています。なぜここまで顔貌が近いのに似て非なる隣人なのか。それは中国の歴史をよく理解しないとわからないことです。

おおよその日本人は、中国は儒教国家であり、徳のある人が多いと思っていますが、ついこの間、1966年から10年間も続いた毛沢東の文化大革命によって中国の全土は知識人、エリート、金持ちなどの大半が殺され、ことごとく文化を破壊し尽くした過去があります。それだけではなく家族、親族でも体制に反する行動、言動をとれば密告され、粛清されてしまいました。「造反有理」の名のもとに若者は紅衛兵となり、毛沢東の手先となり社会を内外ともに破壊していったのです。平気で嘘をつき、平気で人を裏切ることができなければ生きていけない社会であったのです。ついこの間まで。これで中国人の良心というものは地に落ちてしまいました。これは石平氏の体験にも赤裸々につづられています。

最初は信じられないと思われる方もおられるかと思います。しかし、以下の内容は極めて適切で的を得た表現だということがわかってきました。できればこの文章は、中国(支那)と関わりのある全ての人に読んでいただきたいと思う次第です。


黄文雄氏がここまで中国に対して執拗に批判し、強硬に主張される理由としては、1949年台湾に蒋介石ら中国国民党軍以下200万人が逃げ延びて、そのまま支配してきたことに原因がある。もともと台湾に住んでいた土着の本省人たちは日本の統治時代に極めて安定した生活をしていたところに、匪賊のような国民党軍が実行支配してきた。黄文雄氏の家族、親族のなかにそうとう犠牲者が出たそうである。あまりそのことは多くは語られないが、そういう原体験が根底にあってたくさんの執筆活動をされてこられたのではないかと思う。日本は台湾をいわゆる植民地支配したのではなく、極めて良心的な統治したと主張されている。日本人にとって嬉しい限りである。

そして、中国、または中国人と付き合うということは、以下の七項目のことを十分理解したうえで、覚悟をもって付き合うべきだということである。そして、たとえ被害を被ったとしてもそれでもかまわないと思って付き合わなければ、付き合いきれる相手ではない。利害関係だけでは損をするだけだと・・・。

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隣国同士で非常に友好的な関係を結んでいるという国は案外と少ない。 善隣は実はむずかしいのである。「呉越同舟」という支那故事があるが、これは、善隣を装わなくてはならない悲哀をよく表している。「遠交近攻」とは、善隣のむずかしさから生まれた国家存亡の戦略である。

支那と韓国は嫌日感情が強い。日本に反発し、日本ゆえにあなどろうとする感情は日常的に存在している。逆に、日本でも、嫌中・嫌韓感情が生まれている。 いくら「友好」を強調しても、すればするだけ「善隣」のむずかしさが大きくなる。

実は支那は、日本ばかりでなく、他の近隣諸国からも嫌われている。ベトナム人もインド人、ロシア人、チベット人も嫌中感情が強く、支那国内の回族のようなイスラム教徒は歴史的にはげしい文化摩擦が生じていたので、ほかの国より漢族に対する嫌悪感が強い。隣国同士の反感は、国同士の利害に関わることばかりに原因があるわけではない。こと支那に関するかぎり、この国の人々に共通している性格に起因することが断然多い。

およそ百年前、宣教師として支那の山東省で三十数年間伝道活動を続け、粒さに支那社会を見てきたA・H・スミスは不朽の名著『支那人の性格』を著した。私は台湾に居住する支那文壇の最長老で、かつて『醜い支那人』を著して日本人の支那人イメージを一新した柏楊氏に、スミスの分析とくらべて現在の支那人は変わったかどうか、尋ねてみたことがある。

柏楊氏の答えはノーであった。西欧文明の東漸による近代化の荒波をうけても、支那人の国民性はほとんど不変であった。現在、世界の企業が支那で事業を展開し、海外経験のある支那人も多数いる。

これほど対外的に開放されたにもかかわらず、支那人の保守的傾向はますます強まっているといってよい。支那が嫌われるのは、近隣相嫌うという隣国の原理というよりは、変わらぬ国民性から来ることが多い。 本論ではその国民性を徹底的に探ってみたい。


1.自己中心(自分以外は人間ではない)

「自己中心的である」を略して「自(ジ)己(コ)中(チュー)」などと呼ぶが、こういう人間が好かれることはまずない。支那人はまさにジコチューが国民性といってよい。そしてそれが国家規模に拡大され、自国中心主義になる。「中国」という自称がその最たる証拠である。

客観的に見てこの丸い地球上に中心となる地点がある訳はない。天下(世界)の中心を意味する「支那」は、地理上の中心点ではなく、精神的な中心である。ごく簡単に言えば、自分が世界の中心、文化の中心であるという強い思いこみだ。

この精神的な中心意識から生まれたのが、支那文明至上主義である。支那文化が最も優れており、周辺に伝えて文明の恩恵を与えているという同心円的な観念が中華思想の精神構造で、それは揺るぎない優越意識でかためられている。

支那人は古来、近隣国を蔑視してきた。この蔑視観は、文化の違う人々を人間と見なさないほどまでに強い。その優越意識はアパルトヘイト以上である。

その証拠に華人以外はみな禽獣として、民族名称には獣へんや虫へんのついた漢字を用いて書いた。
盛唐時代の代表的な知識人である韓愈は、著書「原人」で、夷狄のことを「半人半獣」とし、獣より進化したと評した。作家の魯迅は「支那人は人間を人間とも思わない」と、支那人の国民性を批判している。

このような支那人の人種差蔑意識に対抗しようとしたため、日本人は支那人からずいぷんと嫌われてきた。一八九八年の戊戌維新のとき、伊藤博文は維新派の康有為らに政治顧問として北京に招聘されたことがあった。明治維新の成果を清国維新派が評価して、維新の秘訣を徴されたのである。そのとき伊藤はこう忠告している。「まず、外国人を夷狄と呼ばない事だ」。

西欧諸国が清国に対して通商要求をするときに、どうしても耐えられなかったのはあの屈辱的な「三脆九叩」の礼をさせられることである。

アヘン戦争終結後の一八四二年、外国人を夷狄扱いする清国に対し、イギリスは南京条約第一七条でわざわざ英国を「英夷」と呼ばないように規定した。それでも支那が守らないので、一八五八年、アロー号事件後の天津条約の締結のさいに「夷狄」呼ばわりしないことを再度明文化させている。

清末に支那人と接した外国人の殆どがその傲慢さに苛立ち、イギリス通商特使として北京に派遣されたマカートニーは逆に支那人を「半野蛮人」と呼んだ。

イギリス公使兼香港総督J・F・デビスは支那文明を「半文明Lとみなし、初代総税務司のN・レイに至っては「アジアの野蛮人」と呼んで軽蔑した。こうなると、支那人とイギリス人のジコチューくらべである。


2.ご都合主義

ジコチューは自分の都合に従って行動する。したがってご都合主義が普遍化されるのである 。他人の都合や思惑は二の次、三の次というより、最初から考慮されていない。

政治の流れを見ても、一九五〇年代、「向蘇一辺倒」などといわれ、ソ連と蜜月の関係を結んでいたにもかかわらず、六〇年に入って突然「ソ連修正主義反対」、「ソ連社会帝国主義打倒」のスローガンを掲げて豹変した。

そして六〇年代、日米安保、アメリカ帝国主義反対を唱え、旧日本社会党と共同声明まで出した支那は、七〇年代に入るやある日突然、日米安保賛成、反ソ親米に急変した。このとき日本の旧社会党員は肩すかしを食らい、いわゆる進歩的文化人はどれほど困惑したことだろうか。

日本にかぎらない。文化大革命を礼賛した世界の文化人たちは、文革収拾とともに、文化大革命そのものが「動乱の十年」となって評価が逆転して、支那人の敵として振り落とされていく。  支那人のご都合主義についていくのはたいへんなことである。

戦後、日本の世論は「支那人とは、原則を重視する民族」という神話を信じていた。それは支那政府がいつも「平和五原則」「周恩来四原則」「日中三原則」と原則ばかりを唱えていたので、つい幻惑されたためであろう。

実は、これは原則ではなかった。 偏執、強情、拘泥を「原則重視」に読み間違えたのである。ジコチューの支那は、原則(建前)と本音を実にうまく使い分ける。 日本人はまったくこの点を読むことができない。あまりに思いやりのある民族であるため、日本人は相手の意に添うことばかりを考え、ときには迎合することさえある。

ジコチューの支那人と、相手の意に添うことの上手な日本人ならば、これほど理想的な友好カップルはないはずだ。だが、それはあくまで日本人がついていかれるならばの話である。

人治国家の支那では、法はあっても自分の都合で利用したり、無視したりするのが通常である。したがって、朝令暮改、契約反故などが頻繁に起こり、たいていの日本人は支那人の独断にふりまわされ、最後にはノイローゼになってしまう人までいる。


3.独善(悪いのはすべて他人だ)

仏教と儒教は支那から朝鮮を経由して日本に伝えられた。
宗教が共通なのだから、精神文化も共有しているように思えるが、根本となる死生観がまったく異なっている。

日本人は「死ねば神」「死者悉皆成仏」といって、死後にまで生前の利害や怨恨を問わない心を持っている。だが、支那人には強烈な勧善懲悪の倫理意識があり、自分の敵は死後もその墓を暴き、屍にむち打ち、魂まで食らおうとする。人は死しても安らかに眠ることができないのである。

しかも信仰の自由はなく、国内で邪教とされた宗教は徹底弾圧し、日本の総理の靖国神社参拝にまで政治的に干渉してくる。

支那の内政干渉は靖国問題にとどまらない。歴史教科書、政府高官の発言、南京事件の評価、日本の生存権問題に属する日米安保、憲法改正論議、ダライ・ラマや李登輝前台湾総統の訪日、航空会社の空港使用、ホテルでの国旗掲揚など、ありとあらゆることに干渉し、外交問題にしようとする。

かつてテレピ朝日の二ュースステーションで、キャスターの久米宏がチベットに関して発言した内容に支那が圧力を加え、翌日の放送で支那に対して謝罪した事件があった。同じように、テレピ各社の支那特番で、支那政府と協力して制作されたものであるにもかかわらず、放送後、支那の一方的な抗議を受け、公開謝罪させられたケースが何度もある。

支那の独善的な思惑の押しつけは、日本に対してだけではない。  世界のいたるところにおよんでいるのである。たとえば、旧西ドイツやデンマークなどでチベットの人権侵害問題をとりあげる議会に圧力をかけ、決議をしたら報復すると恫喝した。また江沢民主席はかつてスイスでデモ隊に遭遇したときに、迎えに出たスイスの首相に対し、自国の管理もできないのかなどと、いちじるしく礼を失する発言をしたことがある。

アメリカに対しでも同様の干渉を加える。李登輝が総統の座にあったとき、卒業したコーネル大学の訪問のために訪米を申し入れたことがあった。アメリカの上下両院が李氏の訪米を受け入れる決定をしたにもかかわらず、支那はこの決議に関しても「誤った決議」だとして反省を求めたのである。

一党独裁、全体主義国家の支那は違うが、アメリカ建国の理念は議会制民主主義である。議会は民意を代表し、いかなる決議も民意の反映であることには変わりない。

議会の決定は大統領といえども無視することはできないことが、江沢民にはわかっていない。アメリカ議会に対する反省要求は、中華思想の露骨な表現であった。日本ならばすぐに反省し、謝罪してしまうだろうが、アメリカは相手にしなかつた。


4.責任転嫁

「悪いのは全部他人で、成果は全部自分のおかげ」という責任転嫁と絶対無謬の独善意識が中華思想の真骨頂である。

私は台湾で生まれ育ったが、小中学校時代に、近代支那が貧困・落後したのは列強の侵略と清朝の腐敗、軍閥内戦に原因がある、と教えられた。中華人民共和国では、それがすっかり国民党政府の責任にされている。

また、文革が終焉すると、「動乱の十年」の責任は全部四人組のせいにされた。毛沢東の過ちに触れられることは決してなく、あれほどの社会的混乱の責任をすべて四人の政治指導者に押しつけたのは、裏返せば、支那人の破廉恥な無責任意識のなせるわざである。

改革開放になると、急激な経済開放のために強盗殺人、賭博、麻薬密売、買売春、人身売買、詐欺、迷信など、「六害」「七害」と呼ばれる凶悪犯罪が横行するようになった。これはある意味で当然の結果である。  こうした無秩序は支那本来の姿であり、百年変わらぬ国民性の復活にすぎない。

ところが支那はそれを認めず、資本主義の精神汚染だと決めつけ、今度は「社会主義新文明を創造せよ」と呼びかけ、党大会のたびに決議などしている。資本主義のモデルについていくだけで手一杯だというのに、何主義だろうと新文明の創造などできようはずがない。

西欧文明が東アジアに大きな影響をおよぼしたのちの支那人の不幸、落後はすっかり西欧のせいにされてしまったのである。近代支那の没落はアヘン戦争以後、すべて列強の侵略の結果に帰され、支那自身にどんな問題があっても、それに目を向けることはない。

こうした責任転嫁は、支那文明の優越性に対する固執の表れともいえる。自己の無謬性の過信によって独善的となり、ことに日本人のような自虐的な国民に対しては、反省や謝罪を要求することをやめようとしない。

明末、異端の儒学者といわれた李卓吾は、その著書『蔵書』の中で、支那人についてこう指摘している。「いかに自己礼賛するかについては苦心惨憺するが、自己批判についてはまったく関心を持たない」と。

最近、支那駐在の日本人商社関係者が支那人気質について調査をし、以下のような支那人像がまとめられたという。

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絶対自分の非を認めない。 それは支那人が責任感の意味を知らないというよりも、失敗を他人のせいにする習性があるからだ。もともと、支那は熾烈な競争社会であり、責任をとる段になったら、なるべく自分の身にふりかからないようにしなければ生き残れないからだ。
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5.人間不信(二人で井戸をのぞくな)

支那人は国家を信用していないばかりか、社会も人間も信用していない。妻さえ住用しないのは、もともと他人だからとしても、血のつながった親子や兄弟でさえ信用できないのである。

毛沢東の極左政策の時代に、「父母よりも毛主席が親しい」と言う言葉が流行り、当時は支那社会の砦とも言うべき家族まで階級の敵と目され、子が父を告発することさえ頻発した。劉少奇や林彪は、政敵ではなく我が子に密告され、一人は獄死し、一人は逃亡する途中で死亡したのである。

支那のことわざに「一人で廟に入るな、二人で井戸をのぞくな」というものがある。一人で廟に入ると、悪い坊主のカモにされ、殺されて金品を奪われてしまうかもしれない。二人で井戸をのぞくと、相棒に突き落とされる危険があるという意味である。

この人間不信社会で生き残り、競争に勝つために兵法が発達した。孫子は「兵は脆道なり」と言った。つまり戦争は詐欺の道だというわけである。

支那人気質の最大の特色も「詐」にある。支那人は「詐の民」だという人もいる。親は子に対して「人にだまされるな」と教育し、常日頃口うるさく教えている。

戦後、日本人は支那人の詐欺ぶりを目の当たりにして驚愕した。偽残留孤児、偽難民、偽装結婚、偽造パスポート、闇銀行、偽造卒業証書、偽造プリペイドカード……。自分の利益のためにはどんな物でも平気で偽造するし、どれをとってとも日本人の想像を絶するものばかりだ。

世界中で今大きな問題になっているのは、支那の偽ブランド品である。知的所有権の盗用は別としても、薬、タバコ、酒、食品等、人が健康を害したり、悪くすれば命を落としたりしてもお構いなしに、どんどんコピーを作ってしまう。

支那政府は「打仮運動」と称して偽ブランドの追放キャンペーンを行っているが、効果はまったくない。現在の支那は、公金横領、賄賂横行、汚職天下の国であり、偽物天国である。今日も支那のどこかで偽プランド品が製造され、世界にばらまかれている。

嘘でぬりかためられた人間不信の社会の中で、支那人は上から下までだましあっている。政府はマスコミを通じて民衆をだまし、民衆は面従腹背で良民を装いながら国家を食い物にする。支那人社会で詐欺師が暗躍し、偽物が氾濫するのは当然なのだ。


6.土匪国家

この数年来の日本における支那人犯罪の急増はいまや常識といえる。実際、外国人犯罪者の半数以上が支那人犯罪者で、新手のピッキング強盗となるとほとんどが支那人の手によるものである。

石原慎太郎都知事も、この類例を見ない凶悪犯罪を新聞で指摘しているし、ある自衛隊関係者は、警察署に収容された支那人に提供する食事の一食分の経費が、自衛官のそれよりも高いことをぼやく有様だ。

日本ばかりではない。 世界の多くの大都市が支那人密入国者の問題に悩まされている。シベリアヘの支那人密入国者は年間50万人にのぼるという信じがたい数字も出ている。蛇頭の年間総収入は世界の麻薬密売の収入の数字をとうに超えている。

支那人が海外流出すると、流出した先で社会が大きく変化する。  台湾の生活環境の変化は、その代表的な一例である。

台湾は戦時中、疎開して家を離れても物が盗まれることがなかった。しかし、戦後、40万の日本人が台湾から追放され、代わりに200万の支那人が大陸から流入すると、台湾はたちまち泥棒の国と化した。

泥棒の多さは高層ピルの上階でも窓に鉄格子がはまっていることが如実に物語っている。あの特異な建築群の景観は、泥棒のせいなのである。 台湾では「支那人を見たら泥棒と思え」という教育を親がするようになった。

94年、支那の浙江省杭州の千島湖で、台湾入観光客24人を乗せた遊覧船が湖上で強盗にあい、全員が船室で焼き殺された事件があった。台湾では有名な事件である。

当時の支那政府はこの痛ましい事件が強盗殺人事件であったことをひた隠しにしていた。李登輝総統は激怒し、支那を「土匪国家」だと非難した。

支那が「土匪国家」であることは、歴史的にも知られている。清代の乾隆帝時代、英国の通商使マカートニーは、『奉使記』の中で沿道には乞食と盗賊ばかり目立つと記している。

中華民国初期は、「賊のいない山はなく、匪のいない湖はない」と言われるほどで、賊の数は推定2000万人、軍隊より多かった。その当時、上海や満州の各都市では公共パスに武装兵士が最低二人同乗していた。そうでなければ安全が確保できないのである。

現在でもいたるところで「車匪路覇」に注意を呼びかける看板がかけられ、改革開放後の支那を特色づけている。90年代、匪賊との銃撃戦で殉職した警官は毎年二千人あまりにものぼる。なぜそれほど匪賊が多いのか。結論を言えばそれが伝統文化なのである。

「天下は馬上で取る」「勝てば官軍、負ければ賊軍」という歴史の法則に基づき、王朝末期には生活手段を失った民が賊に変身し、やがて易姓革命の原動力となった。易姓革命は、盗賊を正当化する支那の歴史の原理といえる。チペットに対しても、台湾に対しても、この強奪行為を正当化し、周辺諸国との領土をめぐる紛争は絶えない。

増え続ける密入国者によって支那人犯罪が世界に広がり、かつて白人に恐れられた黄禍が華禍となって、ますます嫌中感情が増幅されることだろう。


7.危険な「友好」

親善、好意を示す「友好」という言葉は、本来嫌われるはずがない。だが、支那人との「友好」だけは別である。新聞やテレビなどのマスコミは、米、英、仏、独と日本との大人のつきあいには普通「親善」という言葉を用い、「友好」というキャッチフレーズを使うことはあまり見られない。  だが、支那に関するかぎり、なぜか「友好」という言葉が使われ、日中交流の専門用語のようになっている。

戦前、戦後を通して、日本と支那は「友好」と「非友好」に二分されていた。一時、支那との関係はもっぱら「友好人士」や「友好商社」という、支那からお墨付きをもらった一部の日本人に独占されていた。

1972年に日支那交正常化がなると、日中間の交流は「友好人士」の独壇場でなくなり、やがて「子々孫々にいたるまで」という形容がつけられて「友好」が強調されるようになった。  普段、人間不信の社会で生きているので、支那人は人間関係についてことさら「友好」を強調しないと不安に襲われる。しかし、支那を相手にする側にとって、支那が強調する「友好」ほど不安なものはない。なぜなのか。

その理由は「友好」の解釈権がもっぱら支那の側にあり、支那の規定する「友好」におとなしくついていかなければならないからだ。ことにしたたかさをあまり持ち合わせていない日本人は、腹芸が下手でタヌキとキツネの化かし合いができない。しかも日本人は外圧に弱く、支那流の「友好」パフォーマンスに対抗するのがきわめて下手である。

「友好」という言葉を額面どおり受け取っていると、思わぬ落とし穴にはまることになる。実は支那が「友好」を語るとき、ことに相思相愛を語るときが最も危険なのである。 それは歴史を振り返ればわかる。

たとえば、中ソ、中印、中越戦争が起こったときは、いずれも両国の「友好」関係が蜜月のピークに達した時期にあたり、まさに老子のいう「物極まるときは必ず反(かえ)る」という結果になった。

だいたい人間の歴史で、民族間、国家間に「子々孫々の友好」などあったためしがない。支那との「友好」は、すなわち彼らの独善的な価値観を全面的に受け入れることでしかない。

日本人は支那がたたみかけてくる友好の嵐に翻弄され、身も心もくたくたになってしまう。そして考えれば考えるほど嫌悪感を越えて怒りがこみあげ、やがて「日中友好」の滑稽さに気づくことであろう。(黄文雄)

おわり


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8月10日、出版された黄文雄氏の『日本人はなぜ中国人、韓国人とこれほどまで違うのか』(徳間書店)の本が、このところの尖閣問題、竹島問題でほとほと中国、韓国に嫌気がさしているだけに、たいへん売れているそうです。この間10万部を突破したそうです。黄文雄氏は喜んでおられました。ちなみにこの本の内容は「中国人の6割が中国人をやめたいと思っている。古代から中国人は日本を理想と思っていた。韓国人は日本人よりも中国人が嫌い。韓流の歴史ドラマは見栄っ張りのウソだらけ。日本人に教えたい中国人、韓国人の不都合な真実」などだそうです。


第1章 日本人が誤解している中国人 
第2章 日本人に理解できない韓国人 
第3章 中国・韓国がうらやむ日本 
第4章 中国も韓国も日本なしには生きられない



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