照干一隅(しょうういちぐう)
「照干一隅」とは「一隅を照らす」というイミ。
「一隅」とは、今、自分がいる場所や立場のコト、「照らす」とは、忘己利他―すなわち、己を忘れて他を利するの気持ちで、世のために自分に出来る限りの努力をするコト。
天台宗開祖・最澄は『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、
「国宝とは何物ぞ、宝とは道心(どうしん)なり
道心の中に衣食(えじき)あり、衣食の中に道心なし
径寸(けいすん)十枚 これ国宝に非ず
一隅を照らす これ則ち国宝なり」
・・と著している。
「道心」とは自己を高め、正しい道を進む心のコトで、「径寸」とは金銀財宝のコト。
「一隅を照らす、これ則ち国宝なり」は、『史記』にある有名な国宝問答、「照千里、守一隅」の故事を踏まえた言葉だとか。
―なので、「照干一隅」は、本当は「照”千”一隅」の写し間違いらしい・・という話もあるそう・・。
千里を照らすのは、なかなか容易ではないが、だからといって、ふてくされたりせず、”一隅”―自分の位置を守る・・というコトは大切だ。
この「照干一隅」という言葉にはじめて出会った時、思い出した話があった。
―たしか、高校の寮?のクリスマス礼拝だったか・・?
自分はミッション系男子校の寮生で、1人ずつ手にろうそくを持ってチャペルに入り、チャプレンの説教を聴く機会があった。
バレーの熱血コーチでもあったそのチャプレンは、聖書の授業も講義し、サイトウという名だったため、皆から”サイチャプ”というあだ名で呼ばれていた。
思い出したのは、その時、話された「ろうそくのような人になりなさい」・・というものだった。
ろうそくは、自分の身を削ってまわりを明るく、あたたかく照らす・・そんな話だったと思う。
それは、か細い炎かもしれない。
しかし、我が身を燃やす、一生懸命な、健気な炎は、きっと人の心に届く・・。
一隅を照らす。
―そんな者でありたいと思う・・。