昨夜 娘が帰ったとき ちょうどテレビでは
「たけしの‥」をしていた。
いつもの事ながら、明日にもわが身に
おきそうに思うような病気をしていた。
どういういきさつで 話が始まったのか
忘れてしまったが、娘が
「お父さんが入院して個室にいた時、
お母さんの代わりに時々泊まったけど、
あれは自分にとって良かったと
思っているよ。」と言った。
一週間に一回 当時大学生だったこの娘と、夫の
妹に 交代で泊まってもらい、私は家に帰っていた。
上の娘は 日中 仕事がないときに来てくれたり
交渉事や車での送迎をしてくれていた。
下の娘が小さい頃 夫が仕事漬けで
接することが少なかったため
父親が苦手な子だった。
中学校の頃 いじめにあいそうになったことがあり、
子煩悩な夫は 自分が小さかった頃に
接する時間が少なかったことを気にしていた。
二人でいた病室での時間、
夫は自分のことより、もう二十歳を過ぎた娘の
ことを心配したそうだ。
ご飯は食べたか、ケーキを食べたらとか‥。
娘が夫が亡くなった後に話してくれた。
しかし、病室で一緒に過ごしたことへの思いは
はっきり聞いてなかった。
父親の残り少ない時間を一緒に過ごす‥
よかった‥と、私は思っていたが、本人の口から
聞くのは初めてだった。
特に 何を話したということもないようだけど
何気なく過ごした貴重な時間が、娘にとって永遠に
忘れられないものだと思う。
その中で、闘病記は現在闘病している人だけでなく、遺された人にも生きる力を与えることがあると、四十代の女性が話していました。
二年前に、胃がんで七十二歳の父親を亡くしたその女性は当時仕事も忙しく、父親を見舞いに行くことしか出来なかったが、父親が亡くなってから「何か他にすることがあったのではないか…」と見舞いに行くことしか出来なかった
自分を責め続け悩み苦しんでうつになりかけていたそうです。
でも、ある本のことばによって生きる力を得たそうです。
番組では本の名前は出ませんでしたが、女性が手にしていた本は、三十年くらい前に私も読んで感動した本だったので表紙でわかりました。
三十一歳の若さでがんにおかされ、奥さんやよちよち歩き
の女の子を遺して亡くなった内科医の闘病記というよりは手記です。
みっつの不幸
病人にとって大変に苦しいことが、みっつあるとおもいます。
そのひとつは、自分の病気が治る見込みのないことです。
ふたつめは、お金がないことです。
みっつめは、自分の病気を案じてくれる人がいないことです。
私はその中でも、このみっつめの不幸が一番苦しかろうと
思います。誰ひとり自分の十字架を担ぎあげてくれる人がなく、自分ひとりで泣きながら病と闘っていくこと。こんなに辛いことはありません。そして、このみっつめの不幸に泣いている人は、決して少なくありません。私がそのような患者さんを回診し、いろんな会話をしていますと、その人は泣くのです。
「今日も誰も見舞いに来てくれなかった」
淋しい、淋しいと泣くのです。母親を捜す子供のように、その人は泣くのです。人はひとりで生きられるものではないと思います。人の心に飢え、愛情に飢えた一人ぼっちの人たち。こんなに辛いことはなかろうと、私は思うのです。
見舞いに行くことしか出来なかった女性は、この文章を読んで生きる力を得て、遺されたお母さん共々前向きに生きているそうです。
一人ぼっちにすることなくいつも母さんが傍にいて、たまには最愛の娘と水入らずの時を過ごすことのできたご主人は、ひとつめの不幸はあったけど幸せ(?)だったのではないでしょうか?
昔 若かった頃、入院した病室で、夫と姑に
入院費のことでいやみを言われ、いつも 金銭面で心配している若いお母さんがいました。私より8才くらい上だったでしょうか。
元気なときには 農作業で重労働をして 子供を三人生んでと、苦労話を病室でしてくれました。
病気は術後も完全ではなかったのに、いつも新入りの私を気遣ってくれ、病室が明るくなるような人でした。
私より一足先に退院したのに、私が退院後の経過を見るための検査に行ったとき、再度入院されていました。
多分 もう旅立たれたと思います。
あのときの自分の病気と周りの人の話などから、病気の時 誰も心配してくれる人がいないほど 寂しいことはないと、私もいつも思っていました。
いつも病院では、私が夫の気持ちの代弁者になり、
いやなことや話は夫の元に届かないように気をつけていました。
病室という空間で、一緒に過ごす時間が持てたことは辛い中でも 楽しいひとときでした。
夫も「あんたがいてくれるから、助かる」といってくれました。