こうして九月四日、会津坂下を目指し、越後街道を進軍する白河口軍別働隊と、神指城を守る新選組が衝突します。残念ながら戦いの詳細は判りませんが、越後街道側の二の丸土塁で戦った新選組は、やがて阿賀野川側の如来堂まで後退し、この地で新政府… twitter.com/i/web/status/9…
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年9月5日 - 00:05
こうして神指城で新選組を破った白河口軍は、多久宿も攻め落とし、当初の目的だった会津坂下に到着。隘路を守る会津藩兵を背後から襲い敗走させます。こうして会津坂下は開放され、一万を超す越後口軍が遂に鶴ヶ城に到着。こうして鶴ヶ城は完全包囲される事になりました。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年9月5日 - 00:10
新選組ファンにとっては、斎藤一の会津での最後の戦いとなった有名な如来堂の戦いですが、戦史的に見ると、新政府軍が鶴ヶ城を完全包囲するために、会津坂下を攻撃する中で起こった戦いの一つだったと言うのが、判って頂けると幸いです。 pic.twitter.com/4U7aXtJLnQ
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年9月5日 - 00:16
補足すると、神指城の二の丸最東端と、越後街道ではミニエー銃の射程範囲外とは思いますが、越後街道を進軍する新政府軍からすれば、側面を脅かす土塁群は目障り以外の何物でもないので、新政府軍の方から攻めかかったのではと思うものの、詳細の書かれた史料はないので、実際の戦闘は不明です(汗)
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年9月5日 - 00:28
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