吉野台地から眺める錦江湾・霧島方面。天孫降臨の霧島連山がかすかに見えます。西南役中期、薩軍の包囲にさらされた川村中将総管の征討支軍は、海路から重富(写真中央左付近)の海岸に支隊を強襲上陸させ、鹿児島市街の本隊と挟み撃ちにする形で吉… twitter.com/i/web/status/9…
— 佐倉桜香 (@Sakuraoka0429) 2017年11月3日 - 16:15
昨日はありがとうございました。お話しどおり、昨日の会長は、今まで利いた事の無いお話しが多かったのが印象的でした。一方で農兵隊の装備には一切触れなかったのが寂しかったです…。 twitter.com/shiseikai1/sta…
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年11月4日 - 23:37
@tonamiaizuhan ありがとうございます。もし、また何か機会があれば、宜しくお願いします。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年11月4日 - 23:38
棚倉藩の断片的な史料を読むと、棚倉城攻防戦では、棚倉藩兵は新町の木戸付近に12ポンド砲を配置したと書かれています。地図を見る限り、隘路を抜けてきた板垣退助隊が、桧木川を渡河しようとする所を、散弾で狙い撃ちしようとしてたと推測。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年11月4日 - 23:45
しかし相手は板垣退助、隘路西側山頂の赤館城跡を占領すると、ここに四斤砲を引っ張り上げて、山頂から城下目がけて砲撃します。高所を占領されては、12ポンド砲も一方的に砲撃されて沈黙し(棚倉藩の記録にも、役に立たなかったと記述)、棚倉藩兵は自ら城下に火を放って敗走しました。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年11月4日 - 23:49
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