撒兵隊の名簿(くずし字)に出てくる「指図役小役」って何??、「指図役下役(分隊長)」と言う役職はありますが、いくら何でも「小」と「下」では点の数が違うので、読み間違えてはいないとは思うのですが…。 難しく考えずに「下役」と意味は同じと考えて良いのでしょうか(汗)
夏コミ原稿の内容を考えがてら、小机城址を散歩していたら、遊歩道上に巨大なタケノコが生えていたのでビックリ。私の身長よりも高いよ、このタケノコ(汗) pic.twitter.com/BMwUkwALJr
航空機がない設定なのに25mm機銃があるっておかしいという意見もあるようですが。小型高速で移動する舟艇がある以上、目視でそれに迅速に対応できる火器が十分でないと、こんなことにもなるんやで・・・。 #はいふり pic.twitter.com/UFdTQbllPi
@YamakanSS そうです、呼ばれているのですよ(^^;) そんな訳で、私も呼びかけましょう。インプットした知識をアウトプットするのは楽しいよ~(^^;) 更にアウトプットすると、同好の士も出来て、良い事ずくめですよ~(^^;)
ネットにて、『はいふり』で艦長の岬ちゃんが「無能だ」と批判される中で、「(『真田丸』の)安房守よりかは見込みが当たっているだろう」との反論には大笑いしてしまいました(^^;)
@naishimasahiko 以前、それで会津戊辰戦争が出たのですが、史実を反映し過ぎてて、奇跡でも起きない限りは同盟軍(会津側)が勝てないという、凄いゲームバランスでした(汗)
『論考集』も出て、一段落しましたので、少し自分のパートの宣伝をさせて頂きます。今回、重要なテーマの一つが、戊辰戦争での斉藤一最後の戦いとなった、「如来堂の戦い」です。
実は、この如来堂、関ヶ原前に上杉景勝公が築いた、神指城の遺構に建っており、戊辰戦争時もこの遺構は健在でした。
つまり如来堂の戦いは、神指城の遺構で戦われた事になるのですが、なぜ斉藤率いる新選組が如来堂に入り、神指城如来堂の戦い(勝手に命名(^^;)が、どのようなものだったかと言うのが、重要なテーマの一つになっています。
神指城は一般的に実戦を経験せずに廃城になったと言われますが、関ヶ原合戦から268年後に、初めての実戦を迎える事になります。初めてこの事を知った時は、本当に背筋がゾクゾクしたのを覚えています。そして、上杉の城である神指城で戦ってくれた事が、私が斉藤に興味を持つきっかけになりました
妄想を逞しくすると、かつて「毘」の旗が翻った神指城に、268年後に斉藤が「誠」の旗を掲げた事になります(あくまで妄想)
なお、現在の神指城址はパンフが置かれているだけの寂しい場所ですが、「毘」と「誠」の旗を交互に並べれて配置すれば、観光的に映えると思うのですけどね~。
いっそ、「毘」の旗と、「誠」の旗を両手に持ち仁王立ちする斉藤のイラスト設置すれば、閑古鳥が鳴いている神指城址にも、もっと訪れる人が増えるのでは…。
以上、本編では書けなかった、神指城と斉藤に対する想いを呟いてみました(^^;)
余談ですが、如来堂が神指城の遺構に建っていると言うのは、城郭研究家やファンの間では有名な話で、別に私が新発見した訳では無いので、誤解なされないで頂きますようお願いします。 pic.twitter.com/dPlz3Rxlpv
@nakachandaisuki 先生! 戊辰戦争では明らかにハードの方が先に発達し(輸入し)、その後に実戦を伴いながらソフトを発展させていったモデルケースだと思います。それこそ剣術家だった土方歳三が、一年半後には塹壕陣地に籠もっての防御戦闘をしています。
後装式アームストロング砲の欠陥が明らかになったのは、薩英戦争で艦載砲の砲尾閉鎖機が装薬の爆発力に耐えきれず腔発事故を起こしたことによる。そもそもアームストロングは軽野砲向けの閉鎖機構を発明したのであって、それを海軍が大口径艦載砲に採用したのは無理があると分かっていたのだけど。
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