戊辰北越戦争で半ば伝説のように語られるものの、その実情は謎に包まれているガトリング砲について書かれた小冊子です。著書は長岡在住の方で、長岡歯車資料館の館長と言う異色の経歴の持ち主であり、技術者の視点からガトリング砲について書いてくれており、興味深い内容になっています。
ガトリング砲の構造の説明から始まり、長岡藩が購入したガトリング砲のタイプを推測するなど、技術者としての視点を駆使した興味深い内容になっています。史料の読み込みもしっかり行なってくれており、第一次長岡城攻防戦時の、長岡藩砲兵隊の配置や、ガトリング砲の移動の経路などは興味深く読ませて頂きました。
また佐幕贔屓がガトリング砲を過大評価しているのに対し、「砲身を左右に振る事ができないので、散開した敵に対しては効果が少ない事が予想される」と、技術者の視点から見て冷徹な評価を下しています。これを裏付けるように「隊長曰ク西軍散布進撃ス、此器此場益ナシ」との引用がされていました。これはガトリング砲の猛射に対し、新政府軍(薩摩藩兵?)が勇猛に突撃を行なったとの通説を覆すものだと思いますので、本書をきっかけに第一次長岡城攻防戦についての研究が進むのを期待させて頂きます。
ただ、このタイトルと著者の知識から、未だに謎となっている長岡藩が購入した二門のガトリング砲の行方について言及されるかと期待していたのに、結局結論が出されなかったのには残念でした。しかし一方で、小説家の早乙女貢や中村彰彦等の会津贔屓が、長岡藩のガトリング砲のその後について無責任な発言をしているのに対し、技術者の視点からその無責任な発言を明確に否定しているので、技術者の視点から見ても、長岡藩所有のガトリング砲の行方は判らなかったと言う事なのでしょうね。
本書はこのように小冊子ながらも、技術者の視点から見たガトリング砲についての興味深い記述がされていますので、戊辰北越戦争を調べる方にとっては、参考文献の一つとして役に立つでしょう。
これは初耳でした。ガトリング砲の射撃を描写した史料は『北国戦争概略衝報隊之記(今井信朗著)』だけだと思っていましたので、ぜひ史料名と著者名がわかれば教えて欲しいです。
>新政府軍(薩摩藩兵?)が勇猛に突撃を行なったとの通説を覆すものだと思いますので
すんません。これ通説かどうかはわかんないっす(苦笑)。薩摩の突貫攻撃でガトリング砲を押し切ったというのは私だけが言っているだけのような気がしますので~。
これの根拠は前掲書『北国戦争概略衝報隊之記』に書かれて有りまして、神田口の防戦の描写で、
河合自ラ「カットリングコン」ヲ発し(三百六十発元込六穴ノ大砲)、薩州兵ヲ射殪ス。サレドモ南軍破竹ノ如ク競ヒ進ミテ撓ズ。河合継之助モ肩先ヲ射貫レ、銃兵十四、五人討死シ、力尽テ城中ニ引入ル。
とあり、城下の攻防ゆえに両側は屋敷であり、道をまっすぐ突撃するしか手が無いと想像し、きっと薩摩兵がチェスト集団突撃したのだろうと考えたからです~。
どもども~、お尋ねの件ですが、長岡市出版の「長岡藩戊辰戦争」収録の、長谷川五郎太夫(この人の役職は不明)の日記からの引用です。また引用されている文の前に、「河井総督竒関砲ヲ引来ル」との記述があります。
この「長岡藩戊辰戦争史料集」はコピーをしているので、今度コピーしましょうか?
ただミクに書いた通り、三月いっぱいは研修になるので、四月以降になりますが・・・。
ともかく、これで河井がガトリングを撃ったという裏付けが取れそうで一安心です。
さて、「隊長曰ク西軍散布進撃ス、此器此場益ナシ」の一件、多少史料批判の必要性ありかなぁと思います。散布進撃と言っても、城下町の路上なので、広範囲分散展開できないはずと私は考えています(両サイドが屋敷の壁や長屋なので)。路上いっぱい広がっての突撃であれば、首が振れないガトリングと言えどもミニェー銃とセットで射撃できればある程度の効果(敵を撃ち殺すのではなく、弾幕によって敵を竦ませる等々=火力制圧状態)は期待できます。散布進撃が、十字路の多方向より同時突撃で有れば、ガトリングを90度旋回せねばならず、その効果は薄いと思われ。もしくは、分散展開できるほど道が広いか・・・。この本を書かれた著者さまが、どのような戦局判断をなされたのか興味がありますね。
今度、時間のあるときにでもじっくり読ませてくださいませ~。
長州兵なら弾幕で竦んでくれますが・・・・
薩摩兵は弾幕ぐらいでは竦んでくれないか(苦笑)
効果が無かったのは相手が薩摩だからだと思ってみたり?(笑)。
>散布進撃と言っても、城下町の路上なので、広範囲分散展開できないはずと私は考えています
当時の長岡城下の地図はありますので、果たして散兵可能かどうかは検証してみたいですね。
>長州兵なら弾幕で竦んでくれますが・・・・
「防長回天史」を読む限り、大手門方面に向かったのは長州藩兵だったと思うので、ある程度は拘束出来たのではないでしょうか。もっとも薩摩藩兵とは違い、正面攻撃を嫌う長州藩兵はすぐに散開し、それがあのように書かれたと思っています。
この辺は仙台から帰還したら、是非お話させて下さいませ。