@tamaya8901 茨城には、また今度行くと思いますので、期間愛内に伺えたらと思っています。また、書泉と言えば、11月のミリタリーマーケットも楽しみにしています(^^;)
承前)薩摩藩には鹿児島城下に住む城下士(西郷・大久保はその下層)のほか、地方に住む郷士と門閥層(一所持)の家来である私領士(陪臣)がおり、その比率は1:6:3。武士人口の9割を占める郷士と私領士を戦争に動員すればよかった。実際、戊辰戦争には約6000人出征し、1割弱の戦死者。
承前)薩摩藩は他藩と異なり、膨大な武士人口を抱えていた(全人口の30%程度)。なお、戊辰戦争終結後、薩摩藩では戦死者、戦傷者、戦病者への給付を行っている。かなり手厚いのでは。たとえば、戦死者のうち小隊長クラスの遺族には扶持米100俵を30年間、足軽でも18俵を15年間という具合。
承前)維新後、長州藩=山口藩の藩政の実権を正義党や戊辰戦争従軍者が握ったのは薩摩藩=鹿児島藩も同様。長州の権大参事を高杉小忠太がつとめたように、鹿児島では桂久武・伊知地正治・大迫貞清・伊集院兼寛・大山綱良らが就任。西郷自身は当初藩政から身を引いていたが上京する直前、大参事に就任。
承前)鹿児島藩では藩政改革に伴い、軍制改革も行われる。常備隊(4大隊、4小隊、4砲隊など)が新設された。大隊長は中村半次郎、篠原国幹、川村純義、野津鎮雄、種子田政明、樺山資紀らで、のちの西南戦争で敵味方に分かれた面々。藩政改革の全体基調は戊辰戦争の中核をなした下級城下士主導。
今晩出発する、会津旅行の準備をしていますが、今回は山登りもせず、車中泊(高速バス)なので、あまり荷物はないかな?
とりあえず明日は、戸ノ口原で白虎隊の防衛ラインを鎧袖一触で粉砕して、一気に若松城城下に雪崩れ込んだ、新政府白河口軍の侵攻ルートを辿りたいと思います。
ところで実際に訪れてみたら、新政府白河口軍が占領後宿陣した十六橋と、白虎隊が布陣した戸ノ口原って、1㎞も離れていないですよね。夜間だから判らなかったのかもしれませんが、これだけの至近距離で両軍が宿陣していたとは驚きでした。
ちなみに、新政府白河口軍が、戸ノ口原目指して突進したのは、この道だろうと思っています。そして戸ノ口原で白虎隊を撃破した白河口軍は、そのまま滝沢峠も突破して、電撃的に若松城下に雪崩れ込みました。 pic.twitter.com/97eRkOakoV
@saemonhiguchi それならば、他の藩みたいに農兵を取り立てなくても大丈夫だったのだろうと、妙に納得しました(^^;) もっとも平時における領民の負担は凄い事になりそうですが…(汗)
石原さん、ちゃおぽて~♪
「じゃがバターふりかけ」なる物を発見しました。意外にも、ちゃんとじゃがバターの味がしてビックリ。ご飯にかけるのも美味しいですが、個人的には単体で醤油をかけて、ツマミにするのがお勧めです。 #ちゃおびいもけん pic.twitter.com/FJe0c4uOzP
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