江戸庶民には会津藩びいきもいれば、新政府軍ひいきもいましたよ。
— おいでよ山口@民俗 (@minzokunokai1) 2018年4月30日 - 10:53
この記事書いた人は、東京国立博物館所蔵のこの瓦版の存在をしらないのだろうなあ。もしくは故意に無視しているか。史料は両方の立場からのものを見ないと…ね。… twitter.com/i/web/status/9…
福島県柳川町史の資料編を読んでいたら、栃窪村に陣地を構築したとの記述を確認。「こんな山奥に何故陣地を?」と思って、地図を確認したら、梁川道から仙台藩領へ繋がる間道が、この栃窪村を通っていると判りました。
— 大塚進也@5/26軍事史学会年次大会 (@tukaohtsu) 2018年4月30日 - 15:01
つまり、この栃窪村陣地の目的は、間道を通り仙台藩領を侵攻する事の阻止。目的が判れば場所は特定しやすいと思い、国土地理院のサイトを確認しましたが、この辺りに陣地を構築したのではないでしょうか? ここなら東西から挟撃も容易ですし。
— 大塚進也@5/26軍事史学会年次大会 (@tukaohtsu) 2018年4月30日 - 15:04
maps.gsi.go.jp/#18/37.910218/…
人の手も入っていない間道の様ですので、胸壁や塹壕の遺構が残っている可能性は高いかと思っています。
— 大塚進也@5/26軍事史学会年次大会 (@tukaohtsu) 2018年4月30日 - 15:08
ただ、標高は250m足らずと言えども、麓からはかなり距離があるので、訪問するのは大変そうですね( ̄。 ̄;)
もし探索に行くのならば、… twitter.com/i/web/status/9…
2月に新たに確認したトーチカですが、
— たまや (@tamaya8901) 2018年4月30日 - 17:55
現在測量調査を進めています。
この週末に水準測量をして標高を入れました。
余力があれば国土座標も取り付けたい。 pic.twitter.com/FQIiorrPpt
おおっ、参加させて頂いた身としては、それは楽しみです(* ̄∇ ̄)ノ twitter.com/naishimasahiko…
— 大塚進也@5/26軍事史学会年次大会 (@tukaohtsu) 2018年4月30日 - 19:24
戊辰戦争時の野戦築城で不思議に思ってしまうのが、多くの方が調べているのにも関わらず、甲州勝沼の戦いでの甲陽鎮撫隊の陣地がどのような物か全く見えてこない事。多くの著書、ネット記事で甲陽鎮撫隊が陣地を設けたと書かれてはいますが
— 大塚進也@5/26軍事史学会年次大会 (@tukaohtsu) 2018年4月30日 - 21:26
それが単に柵を設けただけか、畳や俵を積んで臨時の胸壁としたのか、それとも塹壕を掘り胸壁を築いたかが書かれた物を見掛けた事が無いのですよね。もし塹壕を掘り胸壁を築こうと試みたとしても、工兵を有さず、野戦築城の教育を受けた士官が居たか疑問が残る甲陽鎮撫隊に野戦築城が可能だったのか?
— 大塚進也@5/26軍事史学会年次大会 (@tukaohtsu) 2018年4月30日 - 21:31
工兵が居なかったとなると、と二門の大砲の砲台を築いたと言われても、それは単に畳や俵で覆っただけ。下手すると甲州街道に置いただけではと思ってしまいます(柏尾山麓の小径は、四斤砲発射の反作用の距離を稼げないので)。
— 大塚進也@5/26軍事史学会年次大会 (@tukaohtsu) 2018年4月30日 - 21:34
菱山や岩崎山の山中に布陣した部隊が居たとされますが、塹壕を掘ったとしたら、少なくとも岩崎山の方に現存してても良さそうですが、聞いた事はありません。そうなると単に木に隠れていただけなのかなとも思ってしまいます。
— 大塚進也@5/26軍事史学会年次大会 (@tukaohtsu) 2018年4月30日 - 21:39
以上の様に、人気が有り、多くの方が調べているにも関わらず、一向に甲陽鎮撫隊がどのような陣地を構築したかが見えてこない事からも、陣地に関する調査はされていないのかなと思ってしまう今日この頃です(・ω・)ノ
— 大塚進也@5/26軍事史学会年次大会 (@tukaohtsu) 2018年4月30日 - 21:44
あと実際の勝沼の説明板での「幕府軍のキャノン砲」とか、「官軍の鉄球弾」などの説明不足な解説も止めて欲しい( ̄。 ̄;) 写真を見る限り「キャノン砲」は四斤砲の事を指しているのは間違いないとして、「鉄球弾」と言うのは球形弾の事なのか、榴散弾の事なのかが判りません(´・ω・`)
— 大塚進也@5/26軍事史学会年次大会 (@tukaohtsu) 2018年4月30日 - 21:51
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