◎貴サークル「たまや」は、日曜日 東地区“V”ブロック-07a に配置されました。
— たまや (@tamaya8901) 2017年11月2日 - 18:07
夏コミで出して在庫切れになっています
『この弾薬箱の片隅に』の再版と、
これの補遺編を出します。
#この世界の片隅に #C93
twitter.com/tamaya8901/sta…
『西郷どん!』刊行記念対談 林真理子×中園ミホ | カドブン kadobun.jp/talks/46 #カドブン
— マンチカン 帝國 (@maEmpire) 2017年10月31日 - 20:16
例えば対談でも名前の上がった、村田新八等はイメージで語られて現在に至る人物で、実像を少しでも捉えた著作はない。また論考も非常に少ない。
その多くは勝海舟の村田評、『西南記傳』『翔ぶが如く』等の範疇で語られる程度である。著者の専門は西南戦争になるが、村田の動向、発言に関しては懲役人筆記、従軍した鹿児島士族の日記、回想等で拾う事が出来るが、批判を交えた上で引用されてい… twitter.com/i/web/status/9…
— マンチカン 帝國 (@maEmpire) 2017年10月31日 - 20:34
村田新八の思考では面白い例がある。相良長良によると高瀬での戦闘終了後、伊倉で行われた本営会議で村田、篠原国幹に戦策を問われ、浅江直之進と南ノ関襲撃を主張したのに対し、村田は熊本の本営との隔絶、弾薬運搬の不備を説き、当面は吉次峠、田… twitter.com/i/web/status/9…
— マンチカン 帝國 (@maEmpire) 2017年11月2日 - 17:22
相良の上申書は『鹿児島県史料 西南戦争第四巻』に収録されており、木留、田原方面の作戦転換に関しては『薩南血涙史』も相良上申書を反映した記述となっている。また『近世日本国民史 西南戦争』も血涙史を引用している。木留、田原に出張本営を… twitter.com/i/web/status/9…
— マンチカン 帝國 (@maEmpire) 2017年11月2日 - 17:39
3月7日頃、村田新八は熊本の本営に小隊長の補充を頼み、10日に3個小隊の増援を受ける。木留の会議で小隊長は進撃を出張し、11日に村田、三官(小・半・分隊長)、押伍で戦地を斥候、14日に再度、木留で会議を行っている。著者推測になるが… twitter.com/i/web/status/9…
— マンチカン 帝國 (@maEmpire) 2017年11月2日 - 18:02
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