会津容保は大政奉還のあと兄尾張慶勝らの勧めに従い守護職を辞任し、帰国すべきだったのだ。つくりあげた立場に執着し、結局王政復古で解任され、鳥羽伏見戦争を起こしてしまった。どうあれ錦旗に抗したのだから無条件に謝罪すべきをせず、それが会津戦争をうみ、婦女子など非戦闘員をまきこんだのだ。
— 中村武生 (@busyo3) 2017年12月24日 - 09:01
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