@tosi0531 この説は歴史家では無く、小説家の加来耕三が広めた話であり、根拠の乏しい説と言わざるを得ません。しかし薩長嫌いの人に広く支持され、半ば有力な説であるように言われているので、先日はあのようなコメントをしてしまいました。ご不快に感じましたら、申し訳ありません。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年7月7日 - 08:45
@tosi0531 広く知られている説でも、出典を調べてみたら、根拠が曖昧というのは多々ある事ですので、個人や組織の名誉などデリケートな話題でしたら、引用元を疑って頂ければ幸いに存じます。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年7月7日 - 08:47
上野戦争での新政府軍の砲兵運用について、雑文的になりますが書かせて頂きます。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年7月7日 - 09:18
新政府軍は本郷台等の高地に砲兵を配置しましたが、有名な佐賀藩のアームストロング砲以外にも、四斤砲(薩摩・佐土原・久留米等)やボートホイッスル砲(岡山等)、他にもモルチール砲、ハンドモルチール砲が複数
これらの砲が配置されていました。一般に不忍池を越える事が出来たのはアームストロング砲だけと言われていますが、池の幅や当時の高さを考慮しても、四斤砲やボートホイッスル砲は勿論、ハンドモルチールでも十分届いたと考えられます。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年7月7日 - 09:22
これらの砲が次々に榴弾を撃ち込んだのが、新政府軍の砲撃の実情で、彰義隊に致命傷を与えたと考えられます。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年7月7日 - 09:26
ただ、四斤砲やボートホイッスル、ハンドモルチールなどは戦況の推移に従い、野戦軍の応援に向かい、次第に本郷台を離れます。
武雄淳氏『佐賀藩アームストロング砲』によれば、最後まで本郷台から砲撃を続けていたのは、佐賀藩のアームストロング砲だったので、アームストロング砲の伝説が生まれたのではないでしょうか?
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年7月7日 - 09:29
何より、アームストロング砲の伝説は「小説家」の司馬遼太郎が諸悪の権現だと思いますが(汗)
@Sakuraoka0429 @maEmpire 私も参加したいです~(日にちが合えばもう一人)。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年7月7日 - 21:30