白河戊辰戦争と併せて、棚倉戊辰戦争も調べていますが(棚倉戦争は白河戦争の派性と認識)、そこで参考にさせて頂いているのが、中世の城郭を調べている方達のサイトです。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年10月29日 - 14:34
個人的に、棚倉城の最終防衛ラインと考えているのが赤館城ですが、この赤館城と街道を挟んでの山にも、堀などの遺構があると書かれたページがありました。本当ならば、造られた時期は判らないものの、戊辰時に棚倉藩兵が使用を試みた可能性は高いと思います。何せ隘路の街道を挟む東側の山ですからね。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年10月29日 - 14:39
ただ、実際にこの山の陣地は、戊辰では使われなかったと考えています。史料を読む限り、棚倉藩兵がこの山に布陣する前に、新政府軍の板垣退助支隊がこの隘路を突破したみたいなのですよね。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年10月29日 - 14:47
一般的に板垣退助の指揮官としての評価は高いですが、棚倉戦争での板垣の指揮の特徴は、相手に戦線の立て直す時間を与えない電撃戦でしょうか。棚倉藩兵は郷渡村・番沢村・金山村・逆川村・赤館城址と言った防御拠点を設けていますが、一箇所防御拠点を突破された棚倉藩兵が、
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年10月29日 - 14:49
次の防御拠点で戦線を立て直す前に、板垣支隊が強襲して、戦線を立て直す前に突破されると言うのが続いています。そんな事もあって、棚倉藩兵の調練場が在った逆川村を突破された棚倉藩兵は、恐らく赤館城に籠もる間もなく、棚倉城下に敗走したと思われるのですよね。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年10月29日 - 14:53