歴声庵

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神奈川県伊勢原市:太田道灌墓所(胴塚・首塚)、上杉氏糟谷館跡

2013年03月24日 23時26分15秒 | 登城記・史跡訪問


 洞昌院に建つ、太田道灌墓所の標識

 太田道灌と言えば、扇谷上杉家の家宰として有名なものの、戦国時代前期の人物な為、個人的には「長尾景春の乱」の際に、近所の小机城を攻略した人物くらいの認識しかありませんでした。しかし先日、仕事で神奈川県伊勢原市を訪れる機会があったので、前から存在は知っていた太田道灌墓所と、その道灌が殺された上杉氏糟谷館跡を訪れてきました。

 長尾景春の乱の鎮圧で多大な功績を挙げた道灌ですが、その手腕を主君である扇谷上杉定正に警戒されたのか、定正の居館である糟谷館に文明18年(1486年)に招かれた時に入浴後に刺客に襲われて横死します。道灌が主君定正に殺された理由については諸説あるものの、道灌を失った扇谷上杉家は国人衆の離反もあり急速に勢力を失い、やがて相模には北条早雲が侵攻を開始します。刺客に襲われた際、「当家滅亡」と言い残したと言われる道灌ですが、その言葉通り扇谷上杉家は、早雲の孫である北条氏康との間で行われた川越夜戦で敗れた事により滅亡します。
 もっとも扇谷上杉家を滅ぼした氏康は、続いて山内上杉憲正を関東から追い、遂に関東は氏康の手に落ちたかのように見えました。しかし憲正が越後に逃げ込んだ為に、扇谷上杉や山内上杉などは比べものにならない、上杉謙信公と言う厄介な存在が関東に侵攻してきた為、それまで順調に関東の支配権を広めてきた後北条氏は初めて泥沼の戦いに足を踏み込む事になるのです。


 上杉家糟谷館跡。実は上杉氏糟谷館跡については詳しい事が判っていないらしく、現産能大学近くの台地がそうではないかと言われていますが、詳しい発掘調査等はされていないそうです。実際郭内には遺構らしい物は残っていません。この郭内のどこかで、道灌は襲われたのでしょうか?。

 
 郭内には遺構は見かけられないものの、南側の郭外は土塁状になっているように思えるのですが…。




 郭の南側と、上粕谷神社が建つ台地の間は谷状になっています。空堀跡とも自然地形とも言われていますが、上杉氏糟谷館の南側を守る地形効果は大きかったと思われます。


 現在も郭の南側と、上粕谷神社が建つ台地はこの道のみが繋がっています。個人的にこの道はかつては土橋だったような気がするのですが…。
 尚、この上杉氏糟谷館跡は高速道路の工事により、近々取り壊されるらしいです。確かに観光客が来るような史跡では無いので、残してもお金にならないのは判りますが、釈然としないと言うのも正直な感想です。


 上杉氏糟谷館の南方を守る位置に建つ、上粕屋神社。


 上粕屋神社そばには、道灌が襲われた際に一緒に討たれた道灌家臣の墓所である七人塚が在ります。


 洞昌院に建つ、太田道灌墓所(胴塚)。上杉氏糟谷館跡と道灌の胴塚は至近距離に位置しているのが、実際に訪れてみて驚きました。




 また洞昌院から少し離れた大慈寺には、道灌の首塚が在ります。

 番外編


 「長尾景春の乱」中の小机城攻防戦の際、道灌が有名な「小机は先ず手習いのはじめにて、いろはにほへとちりぢりになる」の詩を詠んだ場所と伝わる、史蹟硯松の碑。
 小机城址の記事で書いたように小机城攻防戦の際、道灌は当初は小机城北東の亀甲山に布陣していました。しかし一か月以上経っても攻略出来なかった為か、亀甲山から小机城を隔てた南西4~5キロに位置する羽沢村の地で、歌を詠んだ後に小机城を攻撃して見事小机城を攻め落としたそうです。
 亀甲山は小机城の搦手に位置していましたが、道灌は鶴見川を隔てた搦手からの攻撃よりも、例え小机城正面からの攻撃になっても、軍勢を展開出来る平野からの攻撃が有利と判断して羽沢村から攻撃したのでしょうか?。

 訪問日:2013年03月18日、20日


3月23日(土)のつぶやき

2013年03月24日 01時18分57秒 | twitterまとめ

コミケなみに凄い事になっているらしいので、早く行くのは断念しました(汗)。パンフは欲しいので、開城一時間前くらいに行ってみようかな?。 @pacific_18 リリパのグッズ販売はどうなったのだろうか?

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そろそろ『なのは』イベントに出発。もし現場に着いて時間が余ったら、新横浜駅裏の篠原城址を見に行こうかな。ただし今回は下見のみで、本格的な訪問は後日の予定。


篠原城址を目指して、正覚寺内の墓地を突っ切って頂上を目指すものの、藪に阻まれて断念。これはちゃんとした装備がないと到達は難しそうです。とりあえず今日は下山します。