駿州江尻城と言えば、武田氏の駿河支配の拠点と言う事もあり、戦国駿河を代表する城の一つだと思います。天正十年の織田家による武田家征伐まで、武田氏の駿河防衛の本拠して、織田家(駿河方面の担当は徳川家ですが)の侵攻を防いだ程の知名度の高い城ですから、長い間私は江尻城跡はある程度は遺構が残っていると思っていました。しかし今回江尻城跡の近くに仕事で行く事になったので、江尻城跡に寄ってみようと調べてみたら、あれだけ知名度の高い城にも関わらず、江尻城は市街地開発により遺構は影も形もなくなっていると知って驚きました。しかし折角近くに行くのだから、遺構が無くても行ってみようと、江尻城跡を訪れてみました。
巴川対岸から見た、江尻城本丸跡(清水江尻小学校)
江尻城が巴川沿いに築城されたのは、純粋に防衛上の為かと思っていたら、解説版によると信玄の駿河侵攻の補給地点としての役目の為に巴川沿いに築城(前身を大幅に増築)されたの事です。つまり江尻城は河川通運の拠点でもあったわけですね、実際この画像を撮影した江尻城対岸のこの場所は、江尻城廃城後の江戸時代に船高札が建てられていたそうです。
船高札についての解説版。
個人的に河川水運に興味がある身としては、このような解説版を読めて嬉しかったです(^^)
清水江尻小学校に建つ、江尻城の解説版。
現在は清水の地名で呼ばれるこの地ですが、昔のこの地の呼び方が江尻でした。余談ながら、この解説版は小学校の柵の上に建てられているので、読み難いです(汗)
ところで、この解説版のイラストを見て思ったのが、巴川沿いに築城された江尻城ですが、巴川沿いは同心円状に築城されていますよね。武田氏が平野に築城(前身を大幅に増築)した城で有名なのは駿州田中城ですが、田中城も同心円状に築城されていますよね。同心円状に築城するのが、武田氏の平野部築城のセオリーだったのでしょうか?
外堀に位置した魚町稲荷神社。
ちなみにこの神社を建立したのは穴山信君(梅雪)だったそうです。武田氏を裏切った事で評価の低い梅雪ですが、江尻城城下町の町割りをしたのも梅雪だそうですし、内政手腕は中々の物だったのではないでしょうか。そうで無ければ、幾ら一門衆の有力者だっただったとしても、武田氏の駿河方面を担当させられる事はなかったでしょう。
三の丸に位置した小芝八幡宮。
遺構が残っていない城跡は、このような当時から現存する神社仏閣で、当時の縄張を偲ぶしかありませんね。
二の丸の名が残る、町名の由来の解説版
遺構は何も残っていませんが、「二の丸」や「本丸」や「大手」など、町の中には城下だった事を示す町名が残っています。
画像はありませんが、実は清水江尻小学校の敷地内には、江尻城址の石碑が建っているそうです。しかし私が訪れたのは、児童の登校時間帯だった為、児童と共に小学校の敷地内に入る勇気はなかった為、肝心の江尻城址の石碑の画像はありません。江尻城址の石碑を見れないのは残念ですが、流石に小学校に侵入した不審者として、新聞の三面記事に載る勇気は私にはありませんでした(^^;)
訪問日:2011年12月21日
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