歴声庵

ツイッター纏め投稿では歴史関連(幕末維新史)、ブログの通常投稿では声優さんのラジオ感想がメインのブログです。

香坂勘解由について

2011年04月09日 19時42分42秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 戊辰戦争に参加した米沢藩兵の将兵の中で気になる人物の一人として、香坂勘解由と言う人が居ます。多分苗字からして信濃香坂氏の系列だと思いますが、開戦当時は数多い小隊長の一人だった香坂勘解由は、戦争後期には仮参謀に昇進した斉藤篤信の後を継いで、第二次長岡城攻防戦の際には、八丁沖西部戦線を攻撃する三個大隊を率いる大隊長の一人にまで出世します。
 しかし香坂勘解由が活躍するのは、第三次長岡城攻防戦で敗北して、同盟軍が総崩れになった後でした。長岡城が再落城すると、千坂高雅・甘粕継成・斉藤篤信と言った首脳部は、逸早く米沢本国に撤退します。しかし大多数の米沢藩兵が未だ長岡城周辺に居る中で、米沢藩兵の撤退にて香坂勘解由はその手腕を発揮します。大隊長なので自分の大隊を率いて撤退するのは当然ながら、香坂勘解由は他の大隊所属の小隊も収容しながら撤退しているのが記録されています。大津英助の日記から、大井田修平大隊所属の小隊を収容したのは間違いないのですが、凄いのは四散した大井田修平大隊所属の小隊をバラバラに収容しています。これは単に近くの大隊を収容するのは困難でしょう。
 そんな健闘をして無事米沢本国への撤退に成功した香坂勘解由は、休む間もなく新政府軍の侵攻に備えて米沢藩境に出兵しますが、現地の陣地を視察した際、こんな陣地では新政府軍を支えきれないと軍政府に上申するなど(米沢藩戊辰文書)、その識見を披露しますが、残念ながら戊辰戦争関連の記録からは、この後香坂勘解由の名は見れなくなります。米沢藩が新政府に降伏した後、会津方面と庄内方面にそれぞれ出兵するので、どちらかの軍には所属していると思うものの、残念ながら今のところは香坂勘解由の名が書かれた史料は見た事がありません。
 そんな戊辰で活躍した香坂勘解由が維新後どのような人生を歩んだかが全く判らないのですよね。新政府に出仕したかもしれませんが、千坂高雅・甘粕継成・斉藤篤信・宮島誠一郎のように高官になった訳でなければ、中々記録には残っていませんし、ましてや米沢の故郷で尽力したのなら、それこそ中々維新後は判りません。まあ戊辰当時にまだ34歳の若さなので、大井田修平のように隠居した訳でなく、その後に第二の人生を歩んだと思いますが、現在の私には判りません。ただ確かに戊辰で花開いた香坂勘解由のその後は気になるものの、戦術指揮官としては優れているものの、戦略には関わっている訳ではないので、米沢藩の戦略を担当した千坂や甘粕や斉藤に比べると、興味は弱いかな。でも香坂勘解由や柿崎家教や横山与一と言った大隊長についても、いつかは調べてみたいですね。


4月8日(金)のつぶやき

2011年04月09日 02時05分58秒 | twitterまとめ
09:43 from web
RT @itaru_ohyama: 現在閲覧数175 安政大地震に襲われた150年前、被災した江戸っ子は、単に復興にとどまらず、より良い社会を築く世直しを目指しました。鯰絵と呼ばれた風刺画に託された江戸っ子の心意気がココに! http://www.difolio.com/ ...
10:05 from web
コメントを入れてるリツイートを時々見ますが、あれってどうやっているんでしょう。普通にリツイートするだけでは、自分の感想が書けないんですよね。
23:52 from web
RT @itaru_ohyama: 現在閲覧数178 安政大地震に襲われた150年前、被災した江戸っ子は、単に復興にとどまらず、より良い社会を築く世直しを目指しました。鯰絵と呼ばれた風刺画に託された江戸っ子の心意気がココに! http://www.difolio.com/ ...
23:54 from web
今日更新の『溝らじ』『おれつばラジオ』共に面白過ぎます。連続で聴くと本当に抱腹絶倒でした。『溝らじ』で『おれつばラジオ』ネタが出ますし、もうフリーダム過ぎる(^^;) それにしても両番組で涼子たん壊れまくっている(^^;)
by tukaohtsu on Twitter