歴声庵

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河井継之助の武装中立論について

2009年07月05日 18時36分21秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 今回夏コミの原稿を書くに当たって、幕末の越後における会津藩の動向を調べていく内に、自分が今まで支持していた長岡藩家老河井継之助の武装中立論が詭弁に過ぎないと考えを改めました。この為に本日、北越戦争第一章の記事の「河井の武装中立論」について以下の記述を追記させて頂きました。

2009年7月5日追記
 本記事を書いた2003年当時は、上記のように河井の中立論を支持していました。しかし最近、幕末の越後における会津藩の動向を調べるに当たってこの考えを改めました。
 会津藩は討幕派の動向に備えて、慶応三年六月と翌四年二月に越後の諸藩を自分の陣営に引き込む為の、諸藩会議を開催しています(新潟県史通史編6)。この会議を会津藩と共に指導したのが長岡藩でした。この二回の会議、特に二回目の酒屋会議では、鳥羽伏見で勝利した新政府に対しての敵対姿勢を示す決議をしているのですから、長岡藩はこの二月の時点で会津藩と協力して越後諸藩を反新政府に纏めようと判断して良いでしょう。この諸藩会議の経緯を考えると、会津藩と共同歩調を取る長岡藩が「中立」と表明した所で、絶対主義による国内統一を目指す新政府軍が、長岡藩の姿勢を疑っても仕方ないかと思います。恐らく河井の中立論とは、新政府軍がそう疑ったように、新政府軍との開戦までの時間稼ぎに過ぎなったのでしょう。
 尚、自分自身の考えの変化を記録する為にも、あえて昔の誤った自説を修正せずに残させて頂きます。

 以上が追記させて頂いた文です。ところで一応完成した当サイトの北越戦争の記事ですけれども、あれから色々調べるうちに判ってきた事も多いので、今回の件以外でも追記したい事があるのですよね。
 特に同盟軍について、会津藩兵が民衆からの略奪に狂奔していた事は本サイトの記事でも書かせて頂いたものの、最近は長岡藩兵も領内で起こった巻・曾根一揆に対する対応の為に、前線にはあまり出兵していなかったのではとの疑念が起きています。この為「奥羽越列藩同盟軍」と言っても、越後戦線で真剣に戦っていたのは米沢藩だけと言う自説になっています。
 現状は野州戦争後編の記事の完成を優先していますけれども、いつかこれらの意見の変化も受けて、特に巻・曾根一揆を重視して北越戦争の記事を修正してみたいですね。