ここの所このブログで声優さんの事ばかり書いて、戊辰戦争関連の記事を全く更新していませんが、別に戊辰戦争史を調べるのを辞めた訳ではなく、今は復古記や米沢藩関連の史料を読み直して、今は北越戦争史の記事をコツコツ書き直すのに専念しています。
そんな自分の書いた北越戦争の記事を読んでいて気付いたのですが、6月14日の八丁沖西部戦線での戦いに際し、私は新政府軍の陣地である大黒村を「大黒村は新政府軍の戦線では突出部なのですから、そこを重点的に攻めなかった千坂高雅も、守りを堅固にしなかった山県有朋も戦術眼が無かった」と書いてあったんですよね。しかしよく考えたら突出部を攻撃側は重点的に攻め、防御側は精鋭部隊を配置して守りを固めると言うのは、軍事理論が発達した現代では常識ですが、当時はそこまで軍事理論は発達していなかったと気付いた訳です。確かに現代に生きる者なら、私のような一般人でも「戦争論」「戦略論」「戦争既論」など優れた軍事理論の著書を読めて、突出部の重要性を理解出来ますが、それをもって軍事理論が発達していない時代の戦いを批判するのは傲慢であり、驕りだと言うのに気付いて修正した次第です。
そんな訳で6月14日の戦いでの突出部の件は削除して、他に全般的に文章を修正しました(ただ他の千坂の失策に関しての文は残しています)。
しかしこの現代の軍事理論で、当時の戦術を批判すると言うのは他の記事でも書いていそうなので、他の記事も見直したいと思います。
最後に余談ですが、「現代の軍事理論で当時の戦術を批判するのは傲慢」と書きましたが、「戦争論」に限っては大村益次郎は読んでいたんですよね。しかも原文で(^^;)
当時ようやく刀を捨て小銃隊を編成し始めた日本の状況に対して、1人「戦争論」を読み自分の軍事ドクトリンを構成する参考にしてた所からも大村の偉大さが伝わって来ると思います。
そんな自分の書いた北越戦争の記事を読んでいて気付いたのですが、6月14日の八丁沖西部戦線での戦いに際し、私は新政府軍の陣地である大黒村を「大黒村は新政府軍の戦線では突出部なのですから、そこを重点的に攻めなかった千坂高雅も、守りを堅固にしなかった山県有朋も戦術眼が無かった」と書いてあったんですよね。しかしよく考えたら突出部を攻撃側は重点的に攻め、防御側は精鋭部隊を配置して守りを固めると言うのは、軍事理論が発達した現代では常識ですが、当時はそこまで軍事理論は発達していなかったと気付いた訳です。確かに現代に生きる者なら、私のような一般人でも「戦争論」「戦略論」「戦争既論」など優れた軍事理論の著書を読めて、突出部の重要性を理解出来ますが、それをもって軍事理論が発達していない時代の戦いを批判するのは傲慢であり、驕りだと言うのに気付いて修正した次第です。
そんな訳で6月14日の戦いでの突出部の件は削除して、他に全般的に文章を修正しました(ただ他の千坂の失策に関しての文は残しています)。
しかしこの現代の軍事理論で、当時の戦術を批判すると言うのは他の記事でも書いていそうなので、他の記事も見直したいと思います。
最後に余談ですが、「現代の軍事理論で当時の戦術を批判するのは傲慢」と書きましたが、「戦争論」に限っては大村益次郎は読んでいたんですよね。しかも原文で(^^;)
当時ようやく刀を捨て小銃隊を編成し始めた日本の状況に対して、1人「戦争論」を読み自分の軍事ドクトリンを構成する参考にしてた所からも大村の偉大さが伝わって来ると思います。