日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

寝る前に、

2012年05月31日 | Weblog
寝る前に、  12/05/31

1日の気持ちを整理し、落ち着けるために、僕は寝る前の30分を毎日、同じ曲を聴いて、床に入る。
第1曲目は、作曲家越谷達之助の名曲、石川啄木の「初恋」を聞く。
日本歌曲を歌わせるなら日本では、右に出るものがないと僕は思う、上浪明子さんの歌で聞くことにしている。
上浪さんは、ベルカント唱法を基礎に、研究を重ねて日本語の歌詞を明瞭に発音する唱法を編み出した、独特な日本語歌唱法を完成させた人である。

「初恋」は作曲技術の妙味と相まって、最高の歌の仕上げになっている。おそらく、石川啄木も満足であろう。
聴いていると、ほのぼのとした情感が、体全体をす包み込み、得もいえぬ深い味わいがある。初恋の心情を思い出させる名曲である。

次に聞くのは芭蕉布である。
沖縄には、台風の時期に、たった一回しか行ったことがないが、写真では青い大海原をよく見かける。
東大寺の元管長をされた、清水公照師が、作詞された「守礼の邦」に、作曲したので、だいたいの想像はつく。
作曲者の普久原氏作品のこの曲は、「ドドドドーシーラー」とド ド ドから、オクターブ上がったドに飛び、それから、シーラーと下がってくるところが沖縄のおおらかさをうまく表現されていて、歌い尽くされているところが好きで毎晩の定番に入っている。

3番目は、「山吹茶会」や中宮寺の国宝「半跏思惟像観音」についての想いの詞に作曲したもので、心落ちつく曲である。

30分前に飲んだ睡眠薬がきいて来るのに合わせて、タイマーを30分にあわせておいて、毎晩同じものを聞きつつ、寝ることが毎日の生活の締めくくりになっている。

天使と野獣のはざまにて

2012年05月30日 | Weblog
天使と野獣のはざまにて、

動物から、進化した人間は、動物の頂点に立とうといえども、動物の持つ野獣性を根底から払しょくしたわけではない。
つまり、人間には、天使の部分と、野獣の部分が共存するわけである。
心の中で、天使のように振る舞いたいと願う。人にとっては、日々の生活は心の背信行為の連続であろう。その食い違いがあるがゆえに人は泣き、笑うのでは無かろうか。
人間こそ、あるがままの事実、あるべきはずの事実、その通りに心を打たれる動物である。心と行為との戦いに一喜一憂するのが人間の感情によく現れる。

人間は、ある時には、信用しなければならないんだ。ある時には、絶対に信用してはならん、という現実がある。

付き合いがないが、政治家なんて、もともと信用できない人物ではなかろうか。しかし、それが悪いのではない。本来人間はそのようにつくられているからだ。勿論僕もそうだ。

結局こうなる

2012年05月29日 | Weblog
結局こうなる

高齢者で入院してい病人を在宅看護に切り替えていくというのは、寿命世界一を誇った日本の医療はどこかに間違いがあったと言うことを示した。
財政難である。延命工作しても金を食うだけで、社会的には意味の無いことだ。85才を延命工作して95才まで伸ばしたとしても何の意味があろう。
負担ばかりが大きくなって、病院も医者も介護家族も大変な思いをするばかりである。どこかで線を引かなくちゃと思う。無情のようだが。

原子力行政の抜本改革

2012年05月28日 | Weblog

原子力行政の抜本改革

菅直人前首相は28日午後の国会の東京電力福島原発事故調査委員会(国会事故調)で「(東電と電気事業連合会を中心とした)『原子力村』は今回の事故に対する深刻な反省もしないままに、原子力行政の実権をさらに握り続けようとしている。
戦前の軍部にも似た原子力村の組織的な構造、社会心理的な構造を徹底的に解明して、解体することが原子力行政の抜本改革の第一歩だ」と主張した。

.1,自己の責任をとろうとせず、正義は我らに在りという思いでいる無能な原子力村の住人は一人残らず、福島県へ転勤させてそこに閉じ込めろ。そうでもしなきゃこの種の人間には人の痛みが分からない。原子力行政を司るなんてとんでもないことだ。

2,是は僕は東海村の事故の時に声高に叫んだことだ。原子力事故の怖さがあの時点に身にしみてなかったら嘘。素人の僕でさえも再び事故が来るのでは無かろうかと、恐怖心を感じた。担当者、責任者ならなおのこと。職務に忠実であれば不安で夜も眠れなかったはずだ。何らかの手を打ったはずだ。

3,僕は菅さんはよくやった思う。批判する向きもあるが、あんなずさんな原子力管理でどうして席に着いていられようか。加えて東電の撤退問題。普通の感覚だったら責任者として、いらだち怒鳴るのは当然だろう。
らちのあかない本社の事故から逃亡せんとする人間を相手に、それでもまだ総理の椅子に座っておれというのか。素早く出過ぎた行動は闇夜に手探り状態ではやむを得なかっただろう。批判するもの達よ。 君だったらあの現場で何をする?それが菅さんよりも現実に即した言動であったかどうか 。胸に手を当てて考えて見るがとよい。机上では、現場から遠く離れたいたら、なんとでもいえるものだ。糞の役にもたたんがね。

政治家の評判

2012年05月27日 | Weblog
政治家の評判

面白いから、時々政治家の評価をインターネットで見る。のせられた評価の大半は、厳しいものである。なぜ厳しいのか、考えてみると、それは、政治に寄せている期待に、既成の政党が答えていないところからくるフラストレーションのはけ口となって、評価が厳しいのだ。
そして、庶民が政治家に寄せる期待は、決して過大なではなく、至って常識的なものが多い。

政治家が人々や企業の欲望や利害の調整という難しい立場に置かれているのは、十分理解しているが、例えば具体的に言うと、消費増税の前に、やるべき、ことすなわち徹底した行政、政治改革などは、先送りして、なおざりにしているような感じを与え、消費税アップを言われたら、本来増税を是認している僕でも、反対に回る。
似たようなことが、原発再稼働に置いても言える。
安全第1と言いながら、再稼働に向けて動く。政治家のいう安全は、それなりの科学者の見解も取りいれてはいるが、それは国民が求めている安全とは大きく違う。
反原発で、少々の不便でも、と考える国民の声よりも、経済界の要望に耳を傾けて、ものをいう。

要するに、手順がおかしいのだ。庶民が納得するような発言と、その実行を示しつつ、最後の結論に向けて、ゴーサインを出す。それでこそ国民は納得するのに、中途半端なことをして、国民を説得しようとするその姿ばかりが目立つ。説得どころか、その結果は不信感が生まれるだけだ。

「露見なら解散」

2012年05月26日 | Weblog
「露見なら解散」

<原子力委>04年にも秘密会議 毎日新聞 5月26日(土)2時31分配信

 使用済み核燃料を再利用する核燃サイクル推進側による秘密会議問題で、現行の原子力政策大綱(05年閣議決定)作成準備期間中の04年にも、内閣府原子力委員会が「原子力を巡る勉強会」と称する同種の会議を開いていたことが毎日新聞が入手した文書で分かった。少なくとも04年4月までに10回開催され、核燃サイクル政策について協議していた。出席した近藤駿介原子力委員長(69)は当時「表に出た瞬間にやめる」と発言したとされ、隠蔽(いんぺい)体質は8年前から続いていた。【核燃サイクル取材班】
毎日新聞が関係者から入手した文書の表題は「第2回原子力を巡る勉強会」。04年1月29日午前8~10時に開かれた。場所は今回発覚した昨年11月~今年4月の秘密会議と同じ中央合同庁舎4号館743会議室。近藤委員長が「表に出た瞬間に勉強会をやめる」と発言したと記載され、存在が露見すればすぐ解散する方針だった。

 「座席表」が付され、近藤委員長のほか▽斎藤伸三委員長代理▽前田肇(はじむ)委員▽町末男委員▽経済産業省・資源エネルギー庁の安井正也原子力政策課長▽文部科学省の渡辺格(いたる)原子力課長▽東京電力原子力計画部幹部▽関西電力原子力事業本部幹部(肩書はいずれも当時)--ら15人の氏名が記載されていた。推進派ばかりで慎重・反対派はいなかった。

 毎日新聞は「第7回原子力を巡る勉強会」(04年3月11日開催)と題した別文書も入手した。再処理工場で使用済み核燃料からウランとプルトニウムを取り出し、高速増殖炉(FBR)で使う核燃サイクルが議題だった。国側が「21世紀後半からFBRを導入するなら電力でやる(経営する)のか」と尋ねると、事業者側が「経済性がなければできない」と難色を示し、国側が「電力ではないのか(電力でやるべきだ)」と押し返す様子が記載されている。結局、原子力政策大綱にはFBRは2050年ごろから商業ベースで導入を目指すと定められた。
8年前の勉強会はデータ整理にとどまらず、大綱の核心部分の一つを論議していた。今回の秘密会議も、今夏にも策定する新大綱のうち、核燃サイクル見直しを巡って開かれたことが分かっている。
当時を知る経産省関係者は「ムラだけの秘中の秘で、着々と準備を進めていた。今回も秘密会議を開いていたと聞いて、原子力ムラは原発事故以降も何も変わっていないと思った」と話した。

 近藤委員長は毎日新聞の取材に「確かに勉強会はあった。議案を配布するようなものではなく、海外の事例などを研究するもので問題はない。(表に出たら解散すると言った)記憶はないが出席者に表に出たら解散すると言った)記憶はないが出席者に『注意してちょうだい』とは言った」と話した。

1此の連中は、福島の事故と被災者の苦しみをなんと見ているんだ。
全くどこ吹く風で、自分たちの都合のよい原子力推進者のみを集め秘密会議で事を進めようとしている。実に卑怯な、卑劣な人間集団だ。
一人一人国会に呼び出して喚問すべきだ。
何故正々堂々とやらないのだ。原子力政策が日本の将来にとってどれほど国家の重要な問題か自覚があるのだろうか。委員長を務める近藤は、卑怯丸出しの恥知らずだ。こんな人間を原子力委員会においておくのが間違いだ。

2,今回の事故で原子力委員会がどれほど無能だったか知れ渡ったはずだ。にもかかわらず、8年前の体質が変わっていないという。

3,原子力委員会は賛成派だけ集めて秘密会議とは 、許されることか。
やましいことをやっているから、「表に出た瞬間に勉強会をやめる」と発言し」これを記者から確認されると 、(表に出たら解散すると言った)記憶はないが出席者に『注意してちょうだい』とは言った」と話した。
これはどのように言い逃れをしようとも、国民に知られたくない、やましいことの証拠になる。また証明になる。

4,これらの連中を全員、即刻首にして、新しい委員会を立ち上げないと国家のためにならない。前々から指摘していることである。

扇動市長の陰に日本の不満

2012年05月25日 | Weblog
扇動市長の陰に日本の不満

米有力紙ワシントン・ポストは1面に「扇動市長の陰に日本の不満」と題した記事を掲載、橋下徹大阪市長への期待が日本で高まっている現状を分析した。
 
僕は彼のことを扇動市長だとは思わない。日本は福島の事故に遭うまで、考えが足りなかった。安全神話に載せられていたのはその典型である。目を覚ましたときに時宜にかなった発言をするから、際だって目立つが、考えて見れば
彼の言う事は全て、常識的なことである。特別扇動的だとは思わない。

同紙は、橋下市長は「小さな政府」を志向し、野田佳彦首相と同じくらい知名度が高く、支持率は首相の3倍近いと紹介。

野田総理より彼の方が知名度はあると思う。言う事なすこと全てが今の日本では目立つから。地味な総理よりは発言内容も明確で行動的なのは特筆に値する。
変革を求める橋下氏の呼び掛けは、経済に不安を抱え、増税や震災復興、エネルギー政策について決められない中央政府に反感を強める国民の心に響いている。
実にその通りである。増税の前提条件がかすんでどうなるか判らないときに増税一本槍で物を言う総理は橋本氏の行動力を身につけないと、説得力が無い。当然指導力は発揮できない。こういう総理のやり方に国民は反発を覚えているのである。ご指摘の通り。

不倫7-3

2012年05月24日 | Weblog
不倫

確か中曽根総理の時代だったと思うが、不倫を、ふーりん,ふーりんといってかしましい。
と面白おかしく、茶化して、不倫に封印したことを覚えている。
不倫というと倫理にあらずということから、結婚している男女双方か一方かは別にして
お互いに夫婦関係とは、別な男女を求めることを意味するのだろう。

結婚すると日常の惰性が出てきて、あんなにすばらしい女はこの世にいないとまで思い詰めたことが、なんて世間知らずの、のぼせあげりだったんだろうと実感する。永続する毎日の生活の中では、天女と思えた妻も、そこらそんじょの主婦になる。
つまり天女がただの女になるのである。男(女も)はそれでは幻滅するのは当然だが、この世に天女がおるはずはなく、単に錯覚していただけのことである。目が覚めただけの話である。
夫は仕事疲れや、毎日みている女房の現実の姿に、飽きも来るだろうし、女房だって同じである。つきあいと称して酒の席や麻雀やゴルフで非日常へ逃げ込む。
女房は,女を忘れて子供の世話や毎日の炊事、洗濯にかかりっきりにならないと、生活が回っていかない。おめかしをしてと言う独身気分になるまでには20年の月日が待っている。もうその頃にはたぶん色気はずいぶんと減退していることだろう。

こういう生活事情の中にあっても、人間という生物はやっかいなもので、どこかに自分をときめかせてくれる異性はいないものか、心の底にはいつもそんな感情が残っている。
それにこの頃は通信手段が発達して、手軽に不倫相手を探すことが出来る。メール、携帯電話。通信手段は不倫の相手探しにはもってこいである。このような便利な機器を使わない手はない。あちらこちらで不倫や不倫のまねごとが起こる。近頃は肉食系の女性が増えてきているので、なおさらのことで、どんどん不倫がしやすくなる。

一夫一婦制がはっきりした形で我が国導入されたのは明治時代だろうが、富や権力を持っている男は(女は)いつの時代でも別宅さん関係があった。それは今も昔も変わりはない平安時代の貴族なんて、いくつもの不倫を重ねながら、宮中で色事遊びをしていた。源氏物語や、その前に生まれた万葉恋歌を見れば、おおよその見当は付く。
ところで不倫は本当に悪だろうか。僕は本質的な部分では悪だとは思わない。別宅さんを持つことの出来る力や能力のない人間が、羨望やねたみ、そねみなどのマイナス感情を使ってそれを悪と決めている節がないでもない。現実的には社会道徳的な見地から見ると不都合なだけである。不倫によって女性が女を取り戻すことは生き様として決して悪いとは思わない。というのはそれは人情の自然に沿っているからだ。

「 ふぐは食いたし、命は惜しし」。のたとえ通り不倫と自分の関係はいつもこの一句がついて回る。要するに金も力もない色男に過ぎないのだ。そういうことで、不倫。それはあこがれの箱にしまっておこう。



左手だけのピアニスト7-5

2012年05月23日 | Weblog
左手だけのピアニスト

常識に反して、左手だけでピアノ演奏するピアニストのことがNHKで放映された。65歳で病にかかり。右手の自由を奪われ、恐らく絶望の淵に立ちながら、2年間の空白を過ごことだろう。その間、心の底から音楽に飢えていたそうだ。
もともと、世界を演奏旅行で駆け巡る有名なピアニストであった彼が、脳梗塞によって、右手の自由を奪われたのである。この時点で、医者はもうピアニストとして活躍はできないといった。ところが、医学の常識を破って、彼は右手は使えないが左手で、ピアノを弾くことができた。

厳しい訓練の後、再度、ピアニストに復帰したのである。彼はそれによって音楽の本質に迫るといった。こういうことを成し遂げた人しか言えない台詞である。75歳になって左手ピアニストとして復活し、コンサートを始めた。僕は、ここに彼の音楽に対する飽くなき執念を見る。このように「音楽に飢える」と言うのは、まさにピアノ=音楽は彼の生命そのものだ。その執念があったからこそ、どんな困難にも打ち勝って左手ピアニストとして復活を成し遂げたのである。

僕の師匠の山田耕筰先生も同じく60才代で脳梗塞をわずらい、言葉と左手がやられた。ろれつが回らないし、左手は内側に向かって曲がっていた。足も不自由で、杖なしでは歩行も困難だった。
当時、先生はグランドオペラ「香妃」の作曲中で、左手が使えなくなったから、その作曲は弟子の團さんが引継ついた。一つの作品を先生と弟子が作ったのである。戦後の混乱期で、リハビリもできなかっただろうから、病状はそのまま固定されてしまったのだが、先生は右手を使って生涯最高の歌曲。美しいというよりは神々しいとさえ感じる名曲。「バラ花に心をこめて」を作られた。
片や左手のピアニスト、片や右手だけの作曲家。両者は執念で音楽を追及された。意欲のある人間には障害も年齢も関係ない。唯ただすごいの一言である。

延命治療に思う。

2012年05月22日 | Weblog
延命治療に思う。12/05/2

本来なら、人間の機能を失って、一人では、自分の生命維持もむつかしい人に、医学や、医療技術の進歩によって、高額の費用をかけて、延命治療をする必要が果たしてあるのだろうか。

自分の見繕いどころか、100%、他人の助けを借りて、生命をつないでいると言うのは、異様である。自然の原則に反するように思う。
それも、治療効果をもってしても、植物人間以上には良くならないと言うのならば、それは、生きていること自体、他人に厄介をかけることになる。

年齢が若ければ別だが、85歳も過ぎて寝たきりになってしまう人のことを考えて見ると、果たして延命治療を考えることが本人のために成り、介護者のために成り、少しでも社会的に意義があるというならば、それも在りかなとは思うが、、、、。


延命治療の善し悪しについて意見が出るのは当然だが、人間の尊厳、を尊重すべきだと僕は思う。人間の体をなさない場合、自然の摂理に従うのが、最も自然な人間のあり方だとおもうのだが、、、、。

フイシャーデイースカウ7-4

2012年05月21日 | Weblog
フイシャーデイースカウ

もう何十年も昔の話になるが、一時期同氏に凝ったことがあった。と言ってもシューベルトが大好きで、未完成はじめ彼の歌はほどんど聞いた。夜中誰もいないところで、薄暗い電球を頼りに聞いていたが、その時の歌手が彼だった。
大きいところは大きく、か細いところはどこまでもか細く、同じ人間としてどうしてこんなに上品に歌えるのだろうかと思い思い、作品はほとんど聞いが、もうすでに忘れたものも大部ある。でもただ{冬の旅」だけは頭の中にのこっている。彼の曲は何時も深夜過ぎに聴くことにしていたが、どうしてこれだけ僕を引きつけるのだろうかとその魅力について考えたことがあった。新聞にも書いてあるが{冬の旅}とシューマンの「詩人の恋」を筆頭にドイツ歌曲の分野では完成度の高さと解釈の深さで並ぶ物がない。そうだろう。僕もドイツ人ではしらない。僕の場合つまるところ彼の持っていた歌唱哲学に魅せられていたのだろう。

彼は単なる美声の持ち主で,声のコントロールがうまいだけではない。彼の歌唱にはそれ以前に哲学がある。少なくとも芸術がある。洗練されたその知性の上に歌が載せられているのだ。シューマンは余り好きでないから聴かないが
シューベルトは僕の作曲の原点でもあるので、レコードはすり切れるほど聞いた。
ルイ・アームストロングのジャズも聞いたが、人間の叫びを地声で歌うジャズにくらべて、デイスカウの歌は数段上の格式があった。

彼は来日したが講演会で直接話を聞くチャンスは逃した。、朝日新聞にかれの談話が載ったのでそれを読んだ。思ったことは歌の前に作詞作曲があるので、それを如何に解釈して自分の声で表現するかと言う発言はその通りだと思った。声楽家の話としてでは無くて作曲家についての心構えを説かれているような気がして、彼を先生と呼びたかった。

今日の新聞に20世紀最高の歌手の一人とされるデイスカウさんの死が報じられていた。86才。安らかな死だとか。 ご冥福を祈る。

頭脳

2012年05月20日 | Weblog
頭脳

人の頭脳は大きく二つに分けられるように思う。
1つは地頭
これは人間関係には是非必要な能力でありそのための頭脳である。人間らしく生きようと思えば相手の感情や気持ちや,ハラの中や本音を十分察知して理解し関係を結ぶことが必要である。
それは社会生活の中で、大人の生き方として必要なものである。それがスムーズに出来るか。そこまで知恵がまわらないかでは、社会生活は特に対人関係は、大きく変わる。

企業経営とか金儲けとか、とにかく自分以外の多くの人の仲でうまくやっていくの知恵である。極端に言えば人間関係をスムーズにする知恵であり頭脳である。

それにもうもう一つはIQ頭と言おうか、学生時代に勉強するのに適した頭である。
これは学生時代が終わり、社会に出てからの頭脳としてはそんなに重要ではない。 
研究者、や学者などには重要な頭脳であるが、社会のリーダーたるにはそれほど重要ではない。実生活ではそれほど難しい数学や物理の知識がなくても十分生きていける。

ところがである。社会は不思議なことに、IQレベルの高い大学出身者のことをエリートと呼ぶ。何をどこでどう間違ったのか、日本では東大を頂点としてエリートとして決め彼らには何をさせても優秀だと決めてかかっている。もちろん優秀者もたくさんいるが、社会の中には社会に出て全くうだつが上がらない人もかなりいる。
やり玉に挙げられるのは中央官庁の役人である。彼らがどの程度のおつむかは原発事故やその処理過程でいやと言うほど見せつけられた。

なぜこうも政権常識とかけ離れたことを、言ったりしたりするのか。それは社会というものを知らなさすぎるからである。つまり社会常識が欠如質得るのである。最近では国交省の夜間長距離バス運転のあり方、薬害エイズなど枚挙にいとまがない。
そのくせもっともらしい理屈はこねるのだ。IQ頭脳で考えたことと世間一般の人が考えたこととの乖離である。そしてたいていの場合、経験で学んだ知識を積み重ねた頭脳のほうが現実にそっている。そういうことを考えてみると、エリートという言葉はお飾りである。色が白いか黒いかその程度とあまり変わらないのじゃないの。

宗教の反人間的な部分側面

2012年05月19日 | Weblog
宗教の反人間的な部分側面

宗教によっては、人間の自然なありように反するような部分がある
この禁忌を守らないと、その宗派の教えに反するというから、それによってこの宗教集団から仲間はずれにされることがある。あるいは別な形で陰にに陽に、迫害や差別を受ける。例えば、イスラム教信者の女性はベールで顔をすっぽり覆う。

年頃の女性は自然な姿として美しい顔や、輝く肌を白日のもとにさらして人々、特に男性の注目を浴びたり、関心を十分に引きつけたいと思うのが本能に近い自然な姿である。
ところが教えではベールで顔を隠さなければならない。教えを厳格にもまれば、自己矛盾が起こる

高価な化粧品や、あでやかな服装に身を包み、香水を振りまいて闊歩する西洋の女性は、イスラム教の女性に比べてどれほど恵まれていることだろうか。そしてそれこそ女性の自然な本能である。

でも僕の考え方からすると、それが自然な姿であるにもかかわらず、言い換えれば、それは犯してはならない禁なのである。その宗教は自然な人間のありように反しているので間違っているのじゃないのか。と思うことがある。

まぁ、人はいろいろなので、何をしようとそれはそれなりにちゃんとした理由すらあるのだろうからそれはそれで良いのであろう。僕がとやかく言う事では無い。、僕は人間の自然なありようが一番大切だと思うから、道徳によって、宗教によって、なんだかんだの理由付けによって、それが、禁止されるのは好ましい事では無いように思う。

ドラムスは不可欠だが

2012年05月19日 | Weblog
ドラムスは不可欠だが

近頃の歌は体をうごかすものが多くなってきたのでリズムは不可欠だ。リズムというとドラム系だ。ベースで代替は出来なくもないが、迫力がない。

今日大学の軽音が演奏していたので、立ち止まって聞いていたが、トランペットやトロンボーンがいかに音響を響かせようとも、ドラムスにはかなわない。
観客の方をみてみると、一様に足でリズムを切っている。肉体に内在するリズムが演奏しているドラムスに同調しているのだ。

人間は肉体と精神から成り立っていると言われるが、近頃の歌はリズムの方に重点が移ってきている。心静かに歌を聴いて、気持ちがしびれるなんて経験はあまりないだろう。しかし考えてみると、ふと口をついて出る歌はメロデイだろうか、リズムだろうか。恐らくメロデイを口ずさんでいるのではないか。リズムを刻む場合でも必ず、歌っているはずだ。とすれば歌の根源はメロデイにあるのだろう。そしてメロデイこそ脳細胞と直結しているのではないだろうか。いや魂と直結しているのだろう。

歌作りはやはりしっかりしたメロデイを作り、それを支える、あるいは最も適した、リズムにメロデイを乗っけて、結果的にはメロデイとリズムを渾然一体として曲を盛り上げると言うことになるのだ。

今の歌のようにグループで、アクロバットをやり、奇妙な衣装を 身にまとい、オーバーなパフーマンスや、舞台装置でカバーしようとするとこころに無理がある。パフオーマンス付の歌は鼻紙と同じで、その場限り。10年間持つはずがない。いかに流行歌といえども心に残り、月日を経て再び我知らず口ずさむ歌こそ聞く人の財産になるのだ。

日本作曲家協会会員

2012年05月18日 | Weblog
日本作曲家協会会員

日本作曲家協会員会員は加入条件として、レコードを出していること、二人の推薦者が必要であることであった。
一人は「、さようならダタンスの後に」、の作曲者小川寛興先生 、もう一人は「、お富さん」で有名なと渡久地正信先生のお二人に、推薦人になって頂いた。

何十年か会員になっていたが、近藤正彦の[愚かもの]がレコード大賞をとったときは、協会の権威が傷つけられたような気がした。この頃は、作曲家以外に、マスコミなどの関係者が審査員に、加わるようになっていた。
古賀政男先生が、作られ、山田耕筰先生も会員になっておられて作曲家同士の研鑽の場や交流の場が、このレベルまで落ちたかと思うと、腹がタツやら情けないやら。
もう退会してもいい。こんなところにしがみついていたって自己研鑽には程遠い。少なくともその年の品格ある、名曲を排出しないで、低俗なコマーシャルリズムに、乗っ取られた大賞なんて意味は無い。
作曲家の気概や良心や曲の重みなどは、レコード大賞の埒外にあった。
昔はレコード大賞は大衆が歌い継いだものだ。僕は今は大賞曲の名前すら覚えようとしない。僕にとっては、何の期待も持てないからだ。

そこで渡久地先生や小川先生に僕の気持ちを伝え、退会を願い出た。
古賀先生がいわれたれたように曲を引っ張り出すよう良い歌詞がどこかへ行ってしまった。先生はレベルの落ちた歌詞に作曲するよりはお経に作曲した方が良いと言われた。まさしくその通りである。
そこで僕はお経を作曲した。例えば、四天王寺聖徳太子讃歌、延命十句観音経 、舎利礼 法句経より我らのよるべ、西国33カ所観音霊場巡礼歌 弘法大師讃歌 、その他
寺にまつわる御詠歌や古歌 など。数えてみれば七〇曲ほどある。そのうちのいくつかを選んでキーボード伴奏で、奉納、演奏した。是は俗に言うイベントではない。
奉納先は東大寺 西大寺 四天王寺 金剛峯寺、清水寺など。
関西の名刹には奉納演奏させて貰ったが、やはり作曲することは素晴らしい。古賀先生が言われたとおりだ。
まあこれからは人様に受け入れられるような、大衆歌も作ろうか。