日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

バブル雑感

2007年11月28日 | Weblog

今日の新聞にバブル紳士の、その後、が載っていた。平家物語の昔から栄華の花が咲き続ける筈が無いのだが、

町がきれいになった。バブルは一つの幻想であり、そこから勢いが生まれた。そのパワーのお陰で古いと感じていた家や建物を立て替えたり改装したり、金をかけた。
これは時の勢いに乗っで出来たことだ。当時は誰もが儲かっている気になっていた。だから財布の紐は緩く築後50年は経とうとする住まいに金をかけたことは自然なことであった。
こんな田舎でと思われるような地方のちいさな駅前でも、瀟洒なアパートが建っている。バブル後にたてられた建物はあか抜けしていて、きれいなものが多い。そんな設計になってしまっているから、戦後の遺物としての昔のような文化住宅は建てようがない。


山の麓の奥までブルドウザーが入り込み木々や竹をなぎ倒し住宅地にしてしまった。バブル経済を立て直すための実需を生み出すために、政府が住宅ローンの金利を下げて住宅建設に力を入れた結果、開発はさらに進んだ。おそらくその辺りに住んでいた狐狸達は住み難くなったことだろう。

負債の整理がそのまま10年や20年ですむとは思えない。国民全体が新たなローンを抱え込んだようなものだ。この返済が生活に重くのしかかって来る。その重圧が取り除かれたときに日本の経済はもとの元気を取り戻す。

元々こういう実態=実際の価格、とかけ離れた訳の分からないものに投機するというのは健全な考えかたではない。ばくちは人の生活を破壊し、だめにする。
バブルによって誤った経営をして倒産をした会社が多いし、人生を狂わせた個人も多い。だが、人は己の過ちを認めたがらない。認めると自分が惨めに成るだけだから。
欲を深くしないで従来の同じ生活を続けた者にはバブルの恩恵に浴さなかった代わりに負の遺産を背負い込む事もなかった。しかし娑婆に生きている人間が金に目もくれないで
座してバブルのあの熱気見るだけというのは、世捨て人的感覚の持ち主出なければ出来ないことで,常人には出来ない相談である。

淫行も均等で、二五歳の女性送検

2007年11月18日 | Weblog
二五歳の女性が一八歳の少年に、性的交渉を迫り、その少年を追いかけ回して警察に捕まり送検されたと言う夢の様な事件が起こった。
蛙が蛇を飲み込んだ類いで面白い。時として人間社会では面白い事が起こる。
私は何故こんなことが起こるのか、神様にお願い方々聞いてみることにした。
「神様。女が男を追いかけ回して性交渉を強要するという、面白い事件が起こりました。神様が人間に授けなさった性エネルギーの発現形態が違っているから、男は能動的で
女は受け身だとばかり思って参りました。が、これをみる限り、男女平等です。
神様。よくぞ、このことを今度の事件でお示しくださいました。何でも平等平等と言う御時世、それも結構でございます。
 そして願わくは、たとえ十年間だけでも、結構でございます。性エネルギーの発現形態を逆にひっくりかえして、つまり、女が能動、男が受動と言う形にはしてもらえますまいか
そうすると世の中の有り様が様変わりするのではないかと思います。
我々男には手出しができると言う特権だありますが、時としてそれは手負い傷となって心はうずきます。能動的に、積極的にモウションをかけると言うのも気分の良いこと
ばかりではありません。特に小生の様な、この面にかけてはドジな男は、自分で手だしするよりも、むしろ先方から、モーションを掛けられる方が気が楽です。気にいれば
うけりゃいいし、気に入らなきゃノーサインをだせば良いと言うのは気楽なもんですぜ。 それに自分のモテ具合が分かるのも自分自身を客観的に眺め、評価する上で必要な事
だと思います。
それよりも神さん。なんでっせ。現代の社会は男と女の現状に合わせてフィックスされているから、逆の行動パターンになると、いろんなところでチグハグがでて来て面白いじゃないですか。
何ですか。お前は暇人じゃと。仰せの通りです。
齢も五十を越えると、普通ならば第一線を退かなきゃならん年代。どちらを向いても
楽しい事などありゃしませんよ。金をかけた子供は巣立つわ、住宅ローンの支払い
はまだ残っているわ、それにくわえて自分たちの人生に向けて、なにがしかの準備
をせにゃならんわ、それはそれはほとほと疲れます。その上、心ときめく様な事が、
日常生活の上に起こってくるかと言えばそんな事一つもおこりっこない。せめて世の
中をひっくりかえしてみて、何か面白いものはないかと探すぐらいがオチです。
立場が逆になると言うのは逆転の発想にもなり、新鮮な気分にもなること必定、
中々面白いとはおもいませんか
 神様は私と違って、この位のことをするのは朝飯前の筈。一度いたずらにやってみられたら如何です


93・5・1・












ダブルブッキング

2007年11月17日 | Weblog
遅れることはあっても早くなることはない。けれども、ぼくは落ち着かなくて、目と鼻の先にあるプネ駅へは一時間以上も前に着いた。

 インドでは何が起こっても不思議ではない、というのが僕のインド観である。前回のインド訪問で僕はのことをしっかり頭に叩き込んでいる。あつものに懲りてなますを吹いているが、そのくらいでちょうど良いのが、インドの旅のタイムスケジュールだ。
 
 列車は定刻より1時間遅れで発車した。僕は車番を間違わないように何回も自分の名前が書かれているデッキの入り口に貼ってある、座席シート表で座席を確認した。33番。これが僕の席である。
 
 33番へ行ったら若い女がでてきて、ここは違うという。チケトに表記された番号を示してここだと、いったら他の席だという。念のため僕はもう1度予約シートを見に行ったら、その女の連れあいに出会った。彼はミスターの席はこの列車の33番だと言った。彼と一緒に座席に着くと女はもう何も言わなかった。やれやれ。これで明朝8時から9時にバンガロールにつく。約1000キロの旅だ。
 
 地図で見ると、プネからバンガロールまでは近いが、走れば1,000キロメートルの旅である。下関から東京へ行く距離だ。さすがにインドは広い。冷房は穏やかに効いていて居心地がよい。ああ、極楽。

 先程は駅まで歩いて10分もかからないというのに、汗だくになった。インドは日が昇ると暑い。日が沈むとさわやかになり、夜から朝にかけてはかなり気温が下がる。昼は35度以上あっても、真夜中になると25度以下まで下がることだってある。ファンを回したりエアコンをつけたりしたままで、水シャワーを浴びて、そのまま部屋に入ると寒くて身震いすることも何回かあった。

 ビヤ樽は僕にチケットを見せてくれと言った。僕はチケットを出しながら自分の座席は33番だと指さした。彼は2人分のチケットを示しながら、34番、33番だという。

 あれ、ダブルブッキングじゃないか。今さら俺の席だと言われてもハイハイというわけにはいかない。僕は少々あわてた。が、彼にとにかく座っていて、車掌がきたら聞いてみようと提案した。彼もそうだといった。
 なりは粗末だが、乗客にあれこれ説明していたから、てっきり車掌だと思ったので、この問題についてその彼に話をしたが、要領を得ない。彼は車掌の補助員で毛布やシーツを配りに来た。そうだったのか。だからわからないはずだ。僕は納得した。

 その後でチケットチェックに来た人は制服を着ていた。
 ビヤ樽は車掌にしきりに説明している。車掌は33.34と書いたチケットを見ながら、うなずいている。僕は自発的にチケットを見せて33は僕の席だと主張した。しばらくすると車掌は46番に移ってくれと言った。ただそれだけをいって詳しい説明をしなかった。

 どんな席かわからなかったが、僕はしぶしぶ荷物を持って46番を探したら、なんと1人用のシートである。これはありがたい。
 座席を寝台に作りかえ、毛布を重ねて枕を高くして横になった。ここは列車の出口に1番近いところなのでエアコンが効きすぎている。そういうマイナス面もあるが、窓の位置がちょうど顔の位置で、
寝ながらにして外の景色が楽しめる。エアコンのため窓を開けるわけにはいかないが、サンシールの張ってある窓からは、外の景色がみんな黄色がかって見えた。
 
 やっと落ち着きを取り戻した僕はシートの移動について考えた。ムンバイで取ったチケットは2人用寝台である。つまり4人掛けのうちの1人が僕である。この一画はすでに新婚旅行の若夫婦が二席をとっており、残る二席が僕と他の1人という形になっていた。
 そこへビヤ樽夫婦が来たのである。チケット売り場では、気を利かして
夫婦に33.34番の席を売ったもんだ。そこで彼は僕に座席ののチェンジを申し込んだのだ。だが僕は意味が分からないから、ここは僕のシートだと一歩も譲らず頑張った。インド英語を解し得ないとこんな馬鹿みたいなことが起こる。
 
 おれたちは夫婦連れだから同一区画の上下で寝台が欲しいんだ。君は1人ものだから、チェンジしてくれても実害はないはずだ。俺達は別々の席よりはこのほうがいいんだよ。

 言葉が分かれば、たったこれだけのことなんだ。が、意味がよくわからなかったばかりに、ダブルブッキングだと車掌にクレームを言わなくちゃなんて大げさな自分に僕は苦笑した。結果として僕は得をした。

 ひとりで景色を楽しみながら体を横にして、ペン走らせることができたから、コルカタからムンバイまでの2,000キロを二晩列車で過ごし、さらにムンバイについてからは、その晩の夜行バスで13時間かけて、徹夜でアウランガバードまで走った。なれない土地でスケジュールに縛られて、すべてを忘れて突っ走った。当然疲れた。特に睡眠不足からくる神経の高ぶりは簡単には鎮まらなかった。不便、暑い、汚い。そのどれもがいらだちの原因だった。

 だが今は違う。エアコンのよく利いた1人用の寝台で景色を楽しみ、列車に揺られながらエッセーを書く。暑かろうが、寒かろうが、汚かろうが、清潔だろうが関係ない。このコンパートメントこそが地獄の中の極楽なのである。

 列車は1時間遅れのままで走っている。18時だというのにまだ日が暮れない。もう少し立てば真っ赤な火の球となって地平線に落ちていくことだろう。外は何百キロ走っても似たような風景だ。果てしなく続く平野は熱帯の樹木と、畑と、実った小麦と、レンガ造りの粗末な家いえ。
 暑さにもめげず働く真っ黒な農民の姿。川もなければ海もない。何の変哲もない画一風景。林もなければ森もない。そのくせ所々に蛍光灯の明かりが見えるのは、何かアンバランスでユーモラスだ。列車は荒野を疾走している。初めて極楽の旅をさせてもらった。これもインドの旅なんだ。旅にも色々あるなー。


ソンクラーン

2007年11月16日 | Weblog
タイでは4月13日から15日までの3日間、ソンクラーンというお祭りがある。

華やいだうかれた雰囲気は、正に正月である、この間は役所も会社も商店街も皆休みで、オープンしているところはほとんどない。何処もないといってもよいだろう。

このお祭りは水掛け祭りで、トラックの荷台に水瓶をつんで、町中走り回り、道行く人に水をかけて面白がっている。いやお祝いをしているのだろう。

それだけではなく、歩いて街ゆく人にも後ろから、前から無条件に水をぶっかける。若い女の子などは
ブラウスが掛けられた水のために、体にぴちゃっとくっついて、ボデイラインがはっきりと浮かび上がり、膨らんだ胸のあたりは。すけすけで黒い乳房が二つ丸見えだ。

これは面白い。タイの若者はいいことをやってくれるじゃないか。高見の見物を決め込んで、僕は腹の内でにやにやしながら、バスの手すりにもたれて眼の保養をした。

ここ何年かバンコックには来ているが、僕がこの祭りにぶっつかったのは、今回がはじめてある。市民はバケツを持った水掛けゲリラとなり、市街戦を繰り広げる。もちろん無礼講である。

大人も子供も、旅行者も関係なく、全員が水浸しになる日だ。水かけと言うくらいだから、水をかけるほうも、掛けられる方も、それによってお祝いをしている気分に成るのだろうから、特に掛ける方は遠慮会釈は無い。何処でもいい、だれでもいい、辺り構わず水をぶっかけるだけでなく、追いかけてきて水を掛ける。

標的は同胞だろうが、外人だろうが全くお構いなしである。バスの中から水掛けの様子をいくつも見ていたので、今日は注意して歩かねばと、出来るだけ細い道を選んで歩くことにした。

車が通らない分掛けられる危険が少なくて済むからだ。

 バスを降りて路地に入り込んで、うまくかわそうと思ったが、僕は地理に詳しくないために、結局は大通りを歩く羽目になった。

車のとおる道は後ろからやってくる車に、いつ何時おそわれるかわからないので、僕は後ろを振り返り振り返り前へ歩いていた。その時急に少年が前方から、僕に近づいて来るのが眼に付いた。

やばいと思うまもなく、彼は後ろ手に隠し持っていたブリキの缶の水を僕の首を捕まえて背中に流し込んだ。
 
「ちきしょう。何をするんだ。」僕は叫んだが、水はベルトのところで、だぶだぶになって止まった。
そして水は背で抱えていたバックにも進入した。

昨日日本で買ってばかりで、持ってきた未だ使ってもいないビデヲカメラも水浸しになったのだ。
ベルトの水は、そのままにして、すぐさまバッグを逆さまにして水を出して、ビデオカメラを取り出し、腰にぶらさげていたタオルで綺麗に拭いた。

バッテリーをはずして、中のなかまで綺麗に拭いたが、水が機械の中に入ったらしく、電源を入れてもピクリともしない。

あーあ、やられたか。ためし取りもしていないのに使えないとは。
情けないというのか、腹立たしいというのか、僕はここがバンコックだという事も忘れて
「馬鹿野郎、野蛮人。」と怒鳴った。


 アジャンタ

2007年11月15日 | Weblog
 アジャンタ   
 
 エローラを見学した翌日、バスを利用してアジャンタに行った。
アジャンタはデカン高原の北西、アウランガバードから北へ100キロほどのところにある、仏教の石窟寺院である。
 馬蹄形をえがいて流れるワゴーラー川に沿って、600メートルにわたる岩の断崖をくりぬいて、塔院窟5つと25の僧院・ビハーラからなっている。サルナートの根本香積寺の壁画を描いた野生司香雪も、大正時代にここを見学したとか、日本とは、古くから付き合いの有る遺跡だなと感慨深かった。
バスの発着所前から少し階段を上って入り口に到着。入り口には、入場料のオフィスがあって、ビデオカメラの使用料は大した額ではないが、また別に徴収される。

 エローラに比べると、穏やかで静的である。最初から最後まで、すべて仏教に関するものであった。 
 作りは大きく分けて前期、紀元前1世紀から1世紀にかけて、と後期5世紀中頃から7世紀にかけての、2つに分かれる。おとなしい感じがしたが、その中に秘められた力強さは不気味なほどであった。
 到着したのが11時過ぎで,ものすごく日差しが強く、暑い。ところが窟院の中に入ると極暑を忘れる。これは極楽と地獄じゃないか。
大袈裟だが、僕は本気でそう思った。ここにいて仏道に励んだ修行者達も、きっとそう思ったことだろう。たしかに酷暑を避ける人間の知恵には、
違いないが、これを作る段階では、どれほどの苦労があっただろうか。
その大変さが偲ばれた。
 
前期には仏陀の姿を表すものはなく、卒塔婆や舎利などが、仏陀のシンボルとされていた。
後期になると、仏像が刻まれて鎮座している。特に第1窟のライトに浮かび上がる壁画は、これが日本の法隆寺壁画の原画かと感動した。
この遺跡の壁画は日本に直結している。
第1号窟と第二号窟の壁画をみて、法隆寺の金堂に描かれた壁画そのものが、ここにあるとも思った。こちらのものは法隆寺のそれに比べると、
かなり大きい。しかし実に良く似ている。
それに何番か忘れたが、大きな釈迦の涅槃像がある。僕はこの前に立って、こっそり写真を写してもらった。そしてこれがアジャンタの唯一の記念になった。
この当時の仏教芸術は、ここからはるばる、日本までやってきて、日本で止まった。太平洋は渡らなかった。
ブッダン サラナン ガッチャミー   (仏に帰依したてまつる)
ダンマン サラナン ガッチャミー   (法に帰依したてまつる)
サンガン サラナン ガッチャミー   (僧に帰依したてまつる)

 断崖にほられた洞窟の奥に、祭られた釈迦像の番をし、説明していた中年の女性は、この三宝に帰依し奉るという経文を、ソプラノの美しい声で唱えた。それは洞窟の中で反響し合い、神秘で荘厳さを増した。よく問題にする仏の世界の音楽とはこのことか。
それだけではない。疲れた僕の心に甘露の雨を降らせた。聞きほれるというわけでは無いのに、疲れた体はくぎ付けになった。 
 外は猛烈に暑い。しかし今の僕には暑さも、小商人がまつわりつく、
あのうるささも何も無かった。
あるのは耳の奥でわーん、わーんと響くこの経文の響きだけだった。
 僕は三帰三きょうを唱えてみた。
でし、むこうじんみらいさい 帰依仏 帰依法 帰依僧
でしむこう じんみらいさい 帰依ふっきょう 帰依ほうきょう 帰依そうきょう
意味は同じだが、響きの美しさには雲泥の差があった。
女性は続けて三回歌った。いや唱えた。

 お釈迦さんの説かれたお経には、なん曲か、メロデイをつけて合唱曲を作曲した経験のある僕だが、これほど単純な節が、これほどまでに心に染みるとは思ってもみなかった。きっと今後作曲する際に1つのクライテリオンになるだろう、そんな気がして、そこを立ち去るのは勿体無いような気がした。
もし僕が現地の言葉に堪能なら、心からお礼をいったことだろう。しかし僕はお礼の言葉もかけずに、そして僕の感動を伝えることも無く、またドネーションもせずに、そのままそこを立ち去った。沈黙を保ち、感動を逃がさないように、他の事に気を奪われないように、自分を覆い囲んだのだが、あの女性に感動を伝えなかったのは、返す返すも残念なことだった。

 アジャンターの見学は3時間ほとで終わった。
エローラのカイラーサナータ寺院が持つ、男性的で迫力のある作りには、否応無く圧倒されて感動した。それは心臓が波打ち、呼吸が荒くなるような激しいものだった。それに比べてアジャンタの石窟で受けた感動は、低周波の振動のように、大きなうねりであった。波長が長いために深い海の底から伝わってくる、あの大きなうねりで、感動が体全体を包んでしまうようなものであった。動的と静的、と対照的に表現しても、その感動の大きさは優劣の差がでるものではない。
ブッダン  サラナン  ガッチャミー  (仏に帰依したてまつる)

ダンマン  サラナン ガッチャミー   (法に帰依したてまつる)

サンガン  サラナン ガッチャミー   (僧に帰依したてまつる)

421号室

2007年11月15日 | Weblog
話はバンコクの中央駅の西の、ごみごみした所にあるkホテルの421号室のことである。ここのホテルで殺人事件があったらしいという噂が流れたことがある。
 
なんでも金を持ち逃げした犯人が見つかって、ここにつれてこられて、リンチを受け死亡したという話しで、それから3ヶ月ほど、此の部屋は開かずの部屋だったとか。

 彼はソウルから乗り込んできて、飛行機の中では、僕のひとつ前の席に座った。
日本人のよしみで、気安く、お互いに話を交わしたが、彼はドンムアン空港に着くなり、そのまま夜行列車に乗って、ノンカイ迄行くそうである。ノンカイからは川を渡ってラオスに入る。

その列車が8時にバンコク空港駅・ドンムアン、出発するのだという。わずか30分ほどしか時間がないのだけれど、トライしてみると張り切っている。

飛行機は7時40分に空港に着いた。大急ぎで、彼と僕は入管のところまで走った。手続きを待っている間に彼は次のような話をした。

 「最近kホテルに泊まったが、噂によると、このホテルで殺人事件があったらしい。なんでも、金を持ち逃げした奴が捕まって、このホテルに連れてこられ、421号室でリンチを受け、殺害されたらしい。

そうとは知らずに彼は、その部屋に泊まった。別段異常も何も感じなかったけれども、あとでそのうわさを聞いて、ぞっとした。
 
 やはり、値段が安いだけのホテルを探すのは問題がある。小さくとも信頼がおける、なじみの安宿をバンコク市内で探して、決める必要がある。」
と言うような意味のことを彼はいった。これには僕も同感だった。
いくらバックパッカーだといっても、何が何でも、安ければいいというものではない。
 
 以前僕は窓もない囚人部屋のような、ゲストハウスに泊まったことがある。
 普通の所は200バーツほどしているのに、そこはたった70バーツだった。その日はあいにく、どのゲストハウスも満員で、仕方なく、泊まらざるを得なかったのだ。
 
結論から先に言えば、そこはダニの巣のような所だった。あちこちかまれて、方々の体で逃げ出した経験がある。あれ以来僕は清潔第一にして宿を探している。例えば毎日必ず掃除はされていて、
シーツは洗濯されたものかどうか、風通しはよく、ベッドのシーツは色柄模様や、色つきのものでなく、真っ白な病院のベッドのようなものかどうかなど、チエックポイントにしている。

ところがその部屋で、もしくはそのホテルで殺人事件や自殺があったかどうか、チエックを入れると言う事までは、今まで気が付かなかった。
ホテルで、人が死ぬということはたまにはあることだ。病気の場合もあるし、自殺することもある。
 日本ではよく、ラブホテルが殺人の現場になっている。痴情や物取りのあげくの犯罪である。

 確かに、日本と違って警察制度が確立されていても、その機能が不備なために、人口1000万人のこの大都会の場末では、犯罪者が殺されたって、表ざたになって事件になるよりは、闇に葬り去られることの方が多いのかもしれない。
 
 つまり、そのような、無法で危険な部分も影として、この大都会は、その中に内蔵しているのである。めったに表面上に浮かんでこない事件なのかもしれないが、ひとり旅の僕は気を付けなくてはと心を引き締めた。しかし具体的にはなんの手だてもなかった。

実はその噂のホテルには、僕は何も知らずに、泊まったことがあった。何か異様な感じがして、目が覚めた。部屋は明かりを消しているので真っ暗だが、見れば廊下の蛍光灯の光が真っ暗な部屋に漏れてくるのであるが、ドアの隙間から漏れてくる明かりが波を打つと言うのか揺れているのである。

 おかしいなとは思ったが、しばらく様子を見るために、体を横にしてその扉を見ると、光はそのままで動かなかった。やっぱり僕の寝ぼけか、勘違いだったのかと思って、寝ようとすると、廊下と扉のすき間から漏れてくる光が、また波を打つ。それはドアの向こう側て懐中電灯を揺しているみたいである。そこで僕はカバっと跳び起きて、急いでドアを開けて、廊下の方を見た。

 廊下には人は誰もいない。いつものように、天井には蛍光灯がついているだけで、その蛍光灯が、チラチラしているわけではない。蛍光灯は天井でじっといつものように、光を放っている。
外国に来ると、日本では見ないような夢を見ることがあるので、きっと、疲れているのだろうと思って、またベッドの上に寝た。

そして以前と同じように、すき間の光を眺めていると異常はなく、光はじっと漏れてくるだけである。先ほどのように、その漏れてくる光が波うついうことはない。きっと疲れていたのだろう、これは気のせいに違いない。僕はそう思って目をつぶらうとした。

 ところがまた漏れてくる光が波打ち出した。気味わるかったが、
その光の揺れを、見ないようにして放っておいて、ぼくは眠ることに専念した。
 
 何のサインかは知らないが、その光が自分の体にまとわりつくとか、馬乗りになって息苦しくなるとか、そういうことは一切なかった。だが僕はこの経験もだれにも話さなかった。
ところがこの若者の話がきっかけになって、あの夜の不思議な体験を思い出した。

件の部屋が421号室だったかどうかは記憶にないが、いずれにせよ、殺人という犯罪が、その部屋で行われたという事は根も葉もない噂ではない、とぼくは思った。
それから、僕は、そのホテルには一切泊まらない事にした。

 僕の経験と、彼のうわさを付き合わせて考えるならば、どこかで符合しているように思えてならなかったのである。

 ここにもう一つの体験談がある。僕の体験と似たような体験をした人の話である。彼は香港ではかなり高級なホテルに泊まった時に体験したことらしいが、やはり、廊下の蛍光灯がドアのすき間から漏れて、波うったというのである。彼は、気持ち悪くなって、夜が明けると同時に、早速とそのホテルをチェックアウトした。後で聞いてみると太平洋戦争で、香港に進駐した日本軍が、スパイとおぼしき現地人を何百人か殺して埋めてたそうである。つまりそこは刑場であり、墓場だったのだ。

 その上にこのホテルが建ったということである。観光ブームによって、香港では土地がないために、古いものは全て壊して、そこに新しい、ホテルやビルを建てたらしい。

 この話を聞いたときに、ひょっとしたら、僕の泊まったホテルも都市の膨張に従って、もとは墓場だったのかもしれない。あるいは単に彼が言ったように、ひとりの人間が殺害された、その現場だったのかもしれない。

 いずれにせよ、旅で疲れた神経を休めるためのホテルが、薄気味悪いようでは話にならない。
あれ以降、僕はできるだけ調べるようにして、安宿を決めることにしている。
同じ宿に10回も泊まれば、こういう話しはどこかから聞こえてくるものである。

幸いなことに、僕の定宿は今のところそう言う気配も噂もない。眠れないのは、僕が勝手に興奮して、神経を立てているせいだ。


方言

2007年11月14日 | Weblog
言葉とは面白いものである

江戸っ子の語る江戸弁は、気質を表してちゃきちゃきしている。
きつくも聞こえなくはないが、ぴちぴちしてて気持ちがいい。
どういうわけだか、関西人が聞くと怒られているような強い感じを受ける。

京都弁は表面を雅で飾って非常のやわらかい感じがする。だからといって京都人の心根がやわらかいとは思えない。言葉のやわらかさ来る感じとは裏腹 に革新色が強い

大阪弁は一口で言えば、えげつないし品がない。本音をずばり言うところが面白い。いいにくいことを、あけすけなく言い放つところが品を落とすが、面白いところでもある。

象徴的にいえば、挨拶代わりの「もうかりまっか」は言葉の表面から受ける感じでは印象はよくないが、そのものずばりで、なかなか面白いものがある。

僕は話し言葉についてはこんな印象を持っている。

朝の通勤ラッシュ・プラットフォーム

2007年11月08日 | Weblog
とにかく急いでいた。この列車に乗り遅れると最終駅に到着するまでには、実に3時間以上も、遅れて着くことになる。私は時間表を見て調べるより、駅員に尋ねた方が早いと思い、駅員を探した。すると
階段を下りた最も混雑ところに、歳の頃、30前後の若い駅員が、すずめのお宿みたいな頭をして、一人突っ立っていた。見るからにぶっきらぼうな感じのする青年だったが、愛想面では、悪評高い国鉄とは違い、乗客にこたえる応対をちゃんと教育されて、サービス精神をたたき込まれた私鉄職員だから、きっと丁寧に分かりやすく教えてくれるだろうと期待して、「伊勢にいくには、どの電車が早いですか」と尋ねた。彼はおおむ返しのような口調で、「普通」とだけ言った。続けて何らかのコメントを期待して待っている私に対して、彼は再び口を開かなかった。答えは、ただ、それだけだった。あまりにも簡単な案内で、あっけにとられて、私は彼の顔をじっと見つめた。彼は身動きもしないで、ただ一点をじっと見つめている。
 気分を害した私は胸くそ悪くなって、反対側に入ってきた電車に飛び乗った。がらがらにすいた電車の座席に腰をかけながら、私は今の出来事を頭の中で反芻してみた。

 「普通」それはまったく正解である。前もって調べておいた時間表でもたしかに、1電車乗り遅れると普通電車で行く以外に手はなかったはずだから、簡単明瞭である。お互いに忙しい身なのだから、正確で、簡単明瞭ならば、それに越したことはないのに、何故腹が立つのか、気分を害したのか、訳がわからないまま、私は駅員が無愛想でぶっきらぼうな返事をした理由を推測した。
 きっと彼は、徹夜マージャンで負けたのだろう。そのとばっちりが私にも当たったのだろう。いやひょっとすると、夫婦喧嘩でもして朝メシ抜きで家をとびだしてきて、いまだに朝飯抜きの状態でいるのかもしれない。あるいは訳もなく不機嫌な状態のところへ、せかせかした私が飛び込んで、彼の癇に触ったのかもしれない。

 いろいろ考えを巡らすことは、興奮した時に飲むコップ一杯の冷水の役割をするのか、私のかっかした頭のボルテージは下がり始めた。そしてほどなくして、私は人には、おのおの他人にはわからない事情というものがあると考えるようになった。彼には彼なりの、私には私なりの、ただそれがうまくかみ合わなかっただけの話である。だからそんなに目くじらを立てるほどの事柄ではないと、物わかりが良くなった自分を発見した。忙しい歳末のある私鉄ターミナルにある駅の朝のプラットフォームでの、1コマである。
まもなく正月、今年も大過なく無事に、くれようとしているとしている。

東洋のモナリザ

2007年11月07日 | Weblog
ガイドブックに紹介された、東洋のモナリザといわれるデバターは、シエムリアプの市街地から、北東の

方に向かって、40キロくらいの所にある、バンデアイ・スレイ寺院にあるという。

僕はバイタクの後ろにまたって、悪路をひた走りに走った。

普通なら時間と時速を掛け合わせて、大体の距離を出すのだが、なにせこの道は土の上に、にぎりこぶし

の5倍はあろうかと思われる石を、敷き詰めてというより、土の上に幾重にも転がして、今からブルドウ

ザーで平らな道にしようという工事を始めたばかりの道である。たいていのことは我慢するが、がたがた

と揺れる後ろの座席に、2時間もすわってると、もういい加減にしてくれと悲鳴を上げたくなった。

それは僕だけではない。ここ2,3日バンデアイ・スレイの遺跡を訪れる人は、みな同じ思いをするはずだ。

バイクだけにとどまらず、車とて条件は同じである。時速10キロで走れないから、

途中でオーバーヒートして立ち往生している車を何台も追い越した。

ブルドーザーで整地されて、まともな道路として使えるのは1ヶ月先のことだろう。

此の悪路に耐えかねて、バンデアイ・スレイってそんなに値打ちのあるところかと、何回も疑問に思った。

これ以上、この石道を走れというなら、見ないで引き返してもよいとさえ思った。そのころになって

ようやく、つまり走るのも限界に来て、やっとバンデアイ・スレイ遺跡は姿を現した。

ちょっと見は、赤色砂岩で作られた、こじんまりしたチンケイな寺院である。それは今まで見た、

どの遺跡よりも貧弱に見えた。確かに規模は小さいが、保存はましな方である。

東塔門を一歩入ると屋根近く、ひさしの辺りに彫られた、浮き彫り彫刻が目に飛び込んでくるが、確かに見事なものばかりである。完全にヒンズー教寺院である。こういうタイプの寺院はインドではよく見かけた。

紅砂岩で作られているので、建物も彫刻も皆赤灰色である。楼門をくぐると、主祠堂の両側に経蔵があ

り、中央にはシバ神殿、左側にはブラウマン神殿、右側にはビシュヌ神殿があり、どの建物にも浮き彫り

彫刻があった。その一つひとつに意味があるのだろうが、僕の頭の中は 東洋のモナリザでいっぱいだっ

たから何を考える余裕もなかった。

ただ全体的に見ると、これがシバ寺院であることはすぐ判った。というのは、

バンコクのメインストリート・シーロム通りにも、同じ形式の寺院がある。僕はその寺院の前を毎日のように通っているからだ。

バンコクにあるワット・00は、大抵は仏教寺院でこのような赤れんが色ではなくて、白壁と金ピカ仏で

ある。そのバンコックに在って、このシーロム通りのシバ寺院は孤立して、何か異様な雰囲気を辺りに醸し出している。

バンコクのヤワラ通りの中華街を通りすぎると、次はインド人街があるから、ヒンズー教寺院が在ってもおかしくはない。

正面向かって右側の神殿、即ちビシュヌ神殿の正面から見て左側に 東洋のモナリザ
は在った。

フランスの有名な作家・アンドレ・マルローがそのあまりの美しい魅力にとりつかれて、これを国外(多分フランスだろう)に持ち出そうとして逮捕され、それが王道という小説に書かれたと言う。

そのことが頭にあって、そんなデバターって、一体どんなものだろうという思いが強いために、胃腸がでんぐり変える思いを、こらえてここまでやって来たのだ。そのモナリザと今出会ったのである。

彼女は背丈が1メーターに満たないデバターで、顔はふっくらと丸みをおび、謎の微笑を秘めている。

胸は豊満で、全体的にふわっとした感じで、つられて心がふわっとなった。緊張がほぐれる一瞬だ。

1人の彫刻家の魂にふれて、僕の心は緊張感から解放された。

僕はいろいろ角度を変えて、出来るだけ多くの方向から眺めるように努めた。彼女は正面を向いているの

ではなく、首を少しだけ右に振って、物静かに何かを考え事でもしているかのようであった。聡明そうな上品な顔立ちと、高貴な姿態が僕を魅了した。

このとき僕はこの世から離れた別の世界の住人だった。忘我、そう、忘我の世界にいたのだ。
よかった。あの悪路を乗り越えて、ここまでやって来た甲斐があるというものだ。僕はつくづくそう思った。

これだけの芸術作品は、きっと1人の彫刻家の思いが、ここに込められているのだろう。どう考えても共同作業とは思えない。

もし何人かの彫刻家が集まって共同作業の結果、此の神像を作ったとすれば、どこかに作家の顔の端くれが見えるはずである。

モナリザは絵画であるのに対し、東洋のモナリザは浮き彫りの彫刻である。立体感がある分、素人に対しては迫力が在る。彼女は1000年の間微笑み続けた。

これからもこの遺跡が、この地上から消えてなく無くならない限り、ここにこうして鎮座して訪問する人に微笑みかけることだろう。

こんなすばらしい作品が、ポルポト一派の破壊の手を免れて、ようこそ昔のままの姿でここにこうして在ったものだと安堵の息がもれた。

審美に関しては東洋、西洋の別なく人間であれば美しいものはあくまで美しいのであって理屈はいらない。
ところで、此のモデルは一体誰だったんだろう。きっとなにがしかの、モデルがあったはずである。

これだけの顔つきからすると、そこらそんじょの女性ではあるまい。

王妃か、王女か、位の高い女官か、いや作者の永遠の恋人か、作者が祈る女神像だったのか、僕には全くの架空の人物とはおもえない。

西洋人のマルローも、東洋人の僕も、共にこの像が放つ魅惑の虜になっている。この虜の思いが強すぎてマルローは国外持ち出しを決意した。

それに対して、僕は此の神像だけを切り離すよりは、此の壁全体を構成する1つの部分として、保存した方がより高い価値を生み出すように思える。

余計な事ながら、顔に注目した人は顔だけを切り離して持っていこうとするのだろうか、顔の部分だけが無くなっているデバター像はたくさんある。

もし今完全な形で保存されていたら、ひょっとしたら、僕の目の前に在る此の像よりも、もっと優れた芸術作品があったかも知れない。もしそうだとすれば、盗難や破壊から此の遺産を守るために、遺跡保存係の警官を配置する必要がある。

此の像や装飾品の価値が判らず、削ったり、切り取ったりして持ち帰ろうとする連中や、価値が判りすぎて我がものにしたいという、つよい欲望を持つ両極端の人間の思いから、此の人類共通の芸術作品遺産を守らなくてはならないと思った。 

恥も外聞も気にしないで、僕はこの東洋のモナリザの横に顔をよせて、記念撮影した。僕と同じような思いの人だろうか、僕と同じような事をする外人がいた。写真のシャッターを押してあげると、メルシボクーという謝辞が返ってきた。

そう言えば、ここはフランスが植民地にしていたところだ。この寺院を丸ごと本国に持って帰ったところで、大した金はかからなかった筈である。

でもフランスは大して保存もしなかった代わりに、持ち出しもしなかった。文化遺産というものは、そこの場所にあって、初めて真の値打ちをだすものだと考えたのであろうか。

その辺がイギリスのやり方と違う。ロゼッタストーンだって、イギリスはエジプトからちゃんと持ち返っている。

それは外国の宝物をうばって持ち帰るという考えのほかに、世界人類の遺産として王者・イギリスが完璧な保存をして、人類遺産を守るという決意をしての行動だったのだろうか。

確かにアンコールワットという壮大な建造物には、発見以後手を加えているが、このような小さなデバターに目をくれたという話は聞かない。

マルローがいうまで気が付かなかったのか、それとも価値を見いだせなかったのか、はたまた、この程度のものは無視したのか、

誰か物の値打ちの判る有名人が、それについて何かをかいてくれれば、それが人目を引くことになり
より多くの人が関心を持つようになる。

現に僕だって、マルロー逮捕という話は決して見逃すわけには行かない。逮捕という犯罪を犯してまで
この著名な作家が手に入れたかった神像彫刻作品とは、どんなものかと関心が集まるのは当然である。
見方を変えれば偉大なる宣伝だ。

もし彼のこの事件がなかって、ここに黙ってそのまま鎮座していたら、このように有名にはならなかった筈だ。なぜなら、アンコールワットを初め、カンボジャの遺跡群には数え切れないほどのデバターが在るからである。

一つひとつ丁寧に踏査する専門家がいても、いいくらいだ。しかし今のカンボジャは往年の王都とは比べものにならないほど、落ちぶれて往時との国力の差があり過ぎる。

現在のカンボジャの国力では、現状保存さえままならない。精々破壊や汚損を防いだり、自然崩壊を防ぐ手当が出来るくらいのことである。この地方にある膨大な石像遺跡群を守ることは、負担が大きすぎるだろう。

界遺産だというなら世界がまもる手立てを講じる必要があると思った。カンボジャはさしたる工業がなく、特産もなく今まで通り、当面は農業を続けるしかあるまい。

それはそうとして、偉大な先祖がのこしてくれた、これらの遺跡を観光資源として活用して、観光立国を目指したらどうか。僕はこんな余計なことまで考えた。

ところで、もし僕に東洋のモナリザを選べとお声がかかったら、僕は自分の美的感覚で、今目の前にある物とは違ったデバターを選んだだろう。僕には心に決めた楚々とした僕好みの美人デバターがある。

それはちゃんとカメラに収めて、自宅で焼き増しが出来るようにしてある。今後はアンコール遺跡群を自分なりの東洋のモナリザ探しに、歩いてみるのも面白いと思った。


(深い川より) チャムンダー

2007年11月06日 | Weblog
インドから帰国して、僕はインドに関する本を何冊か読んだ。
本の中に描写されているインドの風景だの、インド人の人情や物の考え方なりを、自分がインドで経験したものと、比較検証したかったのである。
中でも狐狸庵先生の、『深い川』にはホテル・ド・パリの描写が、僕が見たとおり、実に正確に描かれており、これには驚いたというより、懐かしかった。
ふんふん、そうだそうだ、僕は本の中に引き込まれて行った。なかでもこの中に描かれているチャームンダという名の女神には深く心奪われた。
日本では女神と言うものは、どんな神でも、美人で柔和に描かれいて、その表情には苦悩の跡がない。すくなくとも僕が知っている女神はそうである。
ところがチャームンダは違う。全身創痍の苦しみを背負い、その苦しみに耐えてはいるが、表情には苦悩がまざまざと表れている。胸近くにはさそりが噛み付き、両足は腐りかけて、赤く腫れ上がっていると描写されている。
自らをそこまで痛めつけながら、その苦しみの中にあってなお、現世で苦しみもがく人達を、すくわんとする貴い姿こそ、この像の真の姿であることを知ったとき、僕は深い感動を覚え、思わず写真の中の像に手を合わせた。
これこそ本当の神である。我々とともに生き、苦しみ、ともにもがき、ともに悲しむ姿こそ百万言よりも説得力がある。これでこそ我々とともにある神である。
現世、この娑婆の世界で、もがき苦しむ人々と同じ次元の世界に住み、同じ次元に立ち、同じ苦しみを味わい、苦しみに顔を引きつらせ、それどころか民衆の何倍もの苦しみを背負い、しかもそのうえに、苦しむ人々を救おうとする強力な意志をもち、敢然と苦しみに立ち向かう貴さを、何故僕は見落としたのか、何故その表情から苦悩を読み取らなかったのか。
僕は非常に残念に思った。
単に像を目で見るだけなら小学生だって出来ることだし、することである。その像に託された作者の意図、願い、希望など、要するに作者の目的を何故探ろうとはしなかったのか、作者はこの像を作り、何を言いたかったのか。こういうことに思いをいたして初めてこの像と対面した値打ちがあるというものだ。
実物はデリーの博物館にあるそうだが、見ないままに帰国してしまった。次回インド訪問の時は必ず見たいものである。

大分長い間、大阪市内の映画館では、『深い川』が上映されていた。それは新聞の広告で知っていたが、そのうちに、そのうちにが重なって、ついつい見逃してしまった。
僕はどうしても見たかったので、ある日、わざわざ電車にのって遠い貝塚まで見に行った。興業はよい『映画を勧める会』みたいなところが主催して観客の層は五十歳代以上の年齢層の人達に限定されていた。
彼らは映画が終わると、考えさせられた、と一様に口々に言いながら帰って行った。 人々から漏れ聞くまでもなく、感動もので、いい映画であった。
僕はと言えば、実際に訪れて、感激を受けたバラナシの沐浴風景や、町の様子や、ホテル・ド・パリを知っているだけに、その場面が映るにつけて懐かしさが込み上げて来て、遠くでおぼろ気にかすみかけていた記憶は鮮明に蘇って来た。
特に印象深かったのは、やはりチャムンダーという女神である。
映画で映ったあの場所に安置されていたのかどうかはしらないが、満身創痍の苦しみを体全体で表しながら、なお現世に苦しむ人々を救おうとふんばる姿は、映画であるとはいうものの、思わず合掌したくなった。
インドは現在の日本に比べて、確かに貧しい。カルカッタでも、バラナシでもよい、町を歩けばその貧しさは一目瞭然だ。貧しさのなかで苦しむ人は多いが、特に女性はいまなお根強くのこる、カースト制度という社会構造からくる重圧に抑圧されながら、この女神の苦しみのように、現実生活の貧困の中で苦しんでいる人が、多いことだろうと、思わずにはいられなかった。
ところで我々日本人は女神というと、端正で美しい女人像を思い起こす。すくなくともチャムンダーのように苦しみもがく女神など、お目にかかったことはない。どの女神も美人で、いかにも福ふくしく柔和である。弁天さんにしても、観音さんにしても、吉祥天女にしても、みな見とれるほど美しい女神像ばかりである。拷問を受けている真っ最中のような苦しみの表情をしている女神など、お目にかかった事はない。そういう意味からすると、日本の女神さんは神の世界の住人であり、娑婆の住人とは違っている。
 ところがインドでは、この女神は娑婆の住人もいいところで、人間世界、特にインド社会の日常生活のなかで、のたうちまわっているインド女性の苦しみを一身にうけて、現実そのものを表しているようだ。
インド女性が天上世界の女神よりも、ともに苦しみもだえる地上に、このチャムンダー という女神の出現を願望して、この女神を迎え、作り出し、親しみを覚え、礼拝供養して、救いを求めるのは人情の自然にかなっていると僕は思った。
僕はこのチャムンダーこそが、真の意味で救済の女神だと思う。神が姿形をとって、人間を救済している瞬間を目撃したことなどないが、チャムンダーこそは神が人間を救済する姿かもしれない。
『深い川』はクリスチャン、狐狸庵先生の作品だ。先生はさすがに目の付け所がちがう。 僕はかぶとを脱いだ。






ジャパンナイズ

2007年11月05日 | Weblog
日本人は創造は不得手だが、それに改良を加え、ジャパンナイズして、うまく活用する才能にたけている。

古代は漢字や仏教伝来の時代にはじまり、現代では電化製品
(その原理原則の発明発見は欧米だが)において応用技術に優れているから、高品質それに見合うコストで、たちまちにして、世界市場で、日本製が溢れるようになる。そして日本製はブランド品として世界に通用する。

外来文明をうまく取り入れて、それを咀嚼して、日本のものにしてしまう。つまり、ジャパンナイズして、日本文明の一部として定着させてしまう。

日本は加工工業国としては、世界に冠たる地位を占めている。それが日本の誇りだと思うが、どうだろう。

マニラ空港にて

2007年11月02日 | Weblog
(1) 
トランジットのために、はじめてフイリッピンの土地に踏んだ。空港内には土産品の免税店があるが、何もほしいものはない。
 トイレには行っても行かなくても良いという感じだったが、念のためと思って行ったら満員だったから、ロビー内を1周してから再びに行った。今度はすいていて、職員とおぼしい青年が2人いた。

 用を足して手洗いに行くと、青年が手招きして、蛇口をひねってくれた。なかなか親切な所もあるものだと思い、ありがとうと言って出ようとしたら、呼び止められて、マネーと言われた。

1瞬何の事やら分からず、キョトンとしていたらマネーと催促された。やっと意味が飲み込めた。私は蛇口をひねるだけで料金を取るなんて、せこ過ぎると思いながらも財布を取り出した。しかも2人がかりで、と言うよりは1人が蛇口をひねり、もう1人が金を受け取るシステムになっているような感じがした。

苦々しく思いながらも私は財布から金を取り出した。運悪くバーツはない。日本円でしかも1000円札しかない。それを渋々彼に渡した。
ュ    
(2)
どう考えてもペテンである。トイレを出てからむかむかした。こんな輩が空港職員か
。こういうインチキをしていると誰も来なくなるぞ。私は心の中で叫んだがそれは犬の遠吠えにも似て、怒り狂う感情の吐露には程遠い。

この場に居るとむかむかするので足早に立ち去ることにした。金持ちケンカせずか。腹立ちが収まりかけると苦笑いとなった
         
(3)
あんな汚らしいベッドでわずか200バーツで身を売っているという娘に倍の400バーツあげても、ちっとも惜しくは思わない、善意と見せかけて、金を要求する雲助まがいの奴らに、半ば強制的に金を巻き上げられるのは、どうしても納得できない。いや何よりも腹立たしい。私は真剣に怒った。

この空港の雲助よ。お前たちがしていることの意味をよく考えてみよ。お前たちの貧しい行いが1層我が身を貧しくすることになるということに気がついていないのか。
心ない一握りの人間がする行為でもその国全体のイメージをどれほど悪くしているか。早い話が私はフイリッピンにこようとは思わない。まずくることはないだろう。
私は一人ごちた。腹の虫が収まらない私は、ある日、友達にこの体験を話してみた。
         

(4)
 「こんなことはよくある話じゃないか。お前の気がたるんで居た証拠だよ。貧しいと、こんなことでもして金を巻き上げるものなんだよ。つまり日本人は日本の感覚で、ものを計り考えるが、広い世界にはいろいろの価値観があってね。

例えば金持ちから金をもらうことは当然だと考えて居る奴はいくらもいるさ。たとえその手段が良かろうと悪かろうと、そんなことは問題じゃなくて。
良い奴も居るが悪い奴も居る。それが人間社会というもので、どこだって同じだよ。わずか1000円で良い経験をしたじゃないか。これは授業料だよ。要はお前の注意力が足りなかっただけのことさ。

例えわずかな労力でも私はあんたの為に水道の蛇口をひねって上げたではないか。これは立派なサービスだ。その代価として金を要求しても、なんらおかしいことはない。いやならそう言えばいいじゃないか。俺たちは当然の事をして金を要求して受け取ったまでのことだ。多分彼らはそう言うだろう。身勝手な理屈ではあるが、彼らの言い分はこんなところだろう。」 ・
         
(5)
友人の見方はそれなりに理解できない訳はないが、釈然としない。頭では解っていても、感情がついて行かないのだ。

それにしてもだ。日本だけが通用するルールではなくて人類に共通して通用する普遍の法則がある筈である。私は特別日本人を意識して、日本人のルールにしがみついている訳ではないのだが。私に言わせれば、日本人は金持ちだから吹っかけたっていいとか、金持ちから巻き上げてやれというのは、納得がいかないてんである。
金銭の授受というのは、それ相応の理由がある時に、なされるものであるからだ。そしてそれにはそれにふさわしい物やサービスがあったときに、金銭は支払われるというのが1番自然ではないか。どんな理屈があろうとも、私は今回の件には納得しない。

何故なら彼らのしたことには、私を納得させるだけの根拠が無いからだ。要するに私はフィリピンには行かない、行きたくない。それだけだ。

いろいろ思うところはことはあるが、私はやはりフイリッピンに行こうとは思わない。
思い出すと今でもむしゃくしゃするから。
                 

信太の森の物語 葛の葉伝説

2007年11月01日 | Weblog
昭和62年、2月13日の毎日新聞に連載された歌枕シリーズの一つに、葛の葉伝説が取りあげられた。信太の森の狐の話 。関西人なら誰でも、 父や母や、いやもっと古く、おじいさん、おばあさんから、子供の時から直接伝え聞いて、物語の詳細は知らないまでも、何となく、頭に残っている民話である。

信太と言えばキツネとあぶらげの代名詞の関係で あぶらげを甘辛く煮てその中に寿司飯を入れた、いなり寿司はあぶらげとキツネの深い関係を物語っている。油あげのことを別名しのだとも言う。
そして関西では子供の頃からこの伝説のことをなんとなく知っている。

阿倍保名や清明の話は小さい頃から、私の記憶の中にあったが、その語り伝えを、現実のものとして、受け止めたのは、毎日新聞論説委員の記者によって書かれた記事によってであった。

巧みな文章に引きずりこまれて、私の心は平安朝の昔へとさかのぼっていた。
信太の森は、泉丘陵いっぱいに広がって、素晴らしい郷をなしている。車も走らないし、電車も通っていない。大阪の南に住む阿倍氏にとっては、日帰りの狩りを楽しむには、絶好の狩り場となっていたが、信太の森は、本人や狐やその他の小動物と人間の共存の場所でもあった。

阿倍保名だけではなく、平安貴族やこれに類する人々は、この優雅な狩りというレジャーを信太の森の周辺で楽しんだに違いない。
典雅な貴族が、狩りの衣装を身につけた姿で、狐やウサギを追いかける姿は、追いまわされる動物の立場に立てば、命をかけた大変な出来事には違いないが、人間の側から見ると、優雅そのものである。

そういう時代背景をバックに狩りにきた阿倍保名が、傷ついた白い狐を助けたことから、狐と人間のドラマが始まり、それが、男と女の愛情物語に変わり、はては陰陽師・安倍晴明の誕生と、夫別れ、子別れの話に変わっていくのが葛の葉伝説のストーリーである。


本来、動物と人間の結婚生活などは、あり得ない話であるが、伝説の作者は、人間に姿を変えた狐と、人間を結婚させた。ここが面白い。さらに狐は人をばかすという。
本当にそうだったら、動物園の狐飼育係となって、バカされる体験をしてみたいものだ。

それは、現代人にはとても信じられない話であるが、先人はそういう夢をすでキツネに覆いかぶせた。そのせいか、私はいまだに狐といえば、他の動物にはない神秘性を感じるのであるが、この葛の葉伝説にはもう一つのきっかけがあるように私には思える。

すなわち、安倍晴明という陰陽師の存在である。陰陽師の持つ神秘性と、狐の持つ神秘性。これが輻輳をして、この物語を一層ロマンチックなものに仕上げている。少なくとも現代からみると、表向き現実離れしたこの伝説は、現代人にも通ずる子別れ、親別れの悲しいテーマをその中にかかえこんで、現代人の心にも共感を与えるのである。

私はともすれば、忘れられがちなロマンあふれる民話に今一度、現代人の目と心をもって、見直すことが、我々の心をリフレッシュし、豊かにすることへの一助になると、かねがね考えてきた。

だから、この記者の穏やかな論調から、すぐさま、彼と心の会話を交わした、つまり敏感に反応したのかもしれない。

狛犬の代わりに狐が巻物をくわえている写真と、それを支えている記事は、直ちに私の楽興を呼び起こしたのであった。真偽の詮索や理屈はそっちのけで、私は、驚くほどの速さで、曲を完成させた。


日本人の心情は舟歌.。演歌の大作曲家古賀政男先生が、言われたように舟板の1枚下は地獄。そんな苦しい状況を抱え込んでいるがゆえに、日本人の心には常に哀愁の風が漂い、それがもの悲しい演歌の歌詞や、メロディーになって表れる。

そのためか、あるいは、私の個人的な好みが、そのいずれかは分からないが、私の心の琴線は決まったように哀愁に彩られて、奏でられる。だから悲しいメロディーがついても不思議でないと、自分に言い聞かせたが、またまた悲しい歌が出来上がった。
作曲し終わったばかりのホヤホヤの曲を聞いてみると、平安朝の雅と共に、悲しみがあふれている。

新聞を片手に、私は葛の葉稲荷明神を訪ねた。人影のまばらな境内を一巡すると、目につく巨木が、平安朝を彷彿とさせる。
5月の空に映える巨木の若葉の黄緑が、目に眩しい。境内の中ほどに立つ碑文に書かれた、
「恋しくは、訪ね来てみよ、和泉なる、信太の森の恨み葛の葉、」  
という古歌を眺めているせいか、私は今、信太の森に、立っているのだという実感が、足元から立ち登ってくる。
巻物をくわえた狐の石彫が、目の前にある。その姿から、子別れ哀話を連想するには5月の緑は余りにも、明るすぎた。

葛の葉伝説、私はこの作品を地元いずみ市民の手によって歌ってもらい、育ててもらいたいものだと考えた。
その昔から和泉を有名にしたこの信太の森伝説をいつまでも語り伝えていくのは、やはり地元の力だ。そのために、和泉に生まれ、育ち、生活し、文化を守り育てる事に、尽力されている方に、会いたいと強く望んだ私は、氏の有力者に、紹介を受けた。

論説委員が紡ぎ出したこの物語は私の心に、曲を紡ぎ出した。さらにそれは、地元和泉の皆さんの協力によって合唱曲として、歌われる事になった。

クズのは伝説は、時間空間を越えて、多くの人たちの心の輪を広げることになった。さらに、それが、郷土和泉の文化に、一点の花を飾ることにでもなれば、私は作曲家冥利に尽きると、思っている。