日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

中央官僚再編考

2013年01月31日 | Weblog
中央官僚再編考

キャリア公務員になろうとすれば、難しい試験を突破して合格する必要がある。合格した公務員は知能指数の面では優れているが、その優秀な集団が日本国をだめにしたということが言われている。
日本全体をにらみながら、国家の政策を計画を立案するわけだが、官僚組織は縦割りになっているので、国益的立場よりも省庁の立場に立つことになる。
こうして国益的観点から見ると、官僚に対して悪評が立つ。
また東京にいて、許認可権を一手に持っているから、地方の実態や現実にマッチしていない、頭の中の産物を押し付ける。全省庁が各自思い想いに地方に対してもの申すので、実態と齟齬をきたす。

くわえて各省庁から上がってくる案を国家的見地からマネージメントできる政治家はいない。
政治家は自己、自党の党利党略、私利私欲をめぐっては裏で手を組む。
こういう形で国の政治が行われる。
地方のことは地方に沸かせば良いが、地方分権からすると権益がなくなるから、自己権益を手放しはしない。こういう状況で長年政治が行われてきた。その結果日本は国際的地位が下がり始めた。

政治家と官僚を比べれば、アマチュアとプロほどの違いがある。
1,930年代以降の日中関係史を知らない政治家が大臣になったりして政治家の質にも問題がありすぎる。
こう考えてくると、中央政府と言うよりは地方分権で責任を地方に委ねる方が現実の諸問題が解決されやすい。大治療としては一度官僚組織を解体し新しい理念のもとに再編してみるのも1つの手である。
つぎはぎだらけの官僚組織をすっきりさせる意味から改変、再編するのも日本再生の近道の1つかもしれない。



背中で聴いた子守歌

2013年01月30日 | Weblog
背中で聴いた子守歌

人間が歩いていて、こけると言うのは前に転ぶで後ろ向きに転ぶことはまずない。
しかるに最近の若いママは前向きに子供を抱いている。転んだときまず子供が頭をぶつけないか気になる。
背中におんぶするのが長い間の習慣で、我々は背中で聞いた子守唄というのが常識である。
母の背中におんぶされて、ねんねこをかぶせてもらってそだてられたが、母の体温が伝わって温かく、そしてカナダがほどよく揺られるので今から考えてみると人生の極楽時代だ。
だから余計に背中おんぶなくて胸おんぶされている赤ん坊を見ると不安な気持ちになる。
子守唄は背中で聞くに限る。


銷夏漫録6-47

2013年01月29日 | Weblog
銷夏漫録

じいさんが自著「銷夏漫録」の中でいう。
暑い夏をいくら暑い暑いとぼやいてもどうにもならない。ぼやく前に暑さに飛び込んでいくことこそ、夏の暑さを忘れるものだと。なんだか訳のわかったようなわからないようなことを言う。

今は一年中で最も寒い季節だ。中でも1月末から2月中旬にかけては最も寒い時期である。
テレビを見ていると、零下五度の気温の中で裸でかき氷を食べるコンテストが行われた。見物人はぶ厚いオーバーにマフラーを巻いている人もいる 。なんでまたこの寒い時期にかき氷などの食べ食い競争をするのか。
テレビはおもしろがってそういう場面をながしても、見ている方には寒さだけが伝わり、とても見られたものじゃない 。

暑さには暑さの中に飛び込んで行く。寒さには寒さの中に飛び込んで行くという考え方もあろうが、冷暖房で温度調節して暮らしている向きには、そういう根性が欠落している。夏の盛りに暑さに飛び込んで暑さ忘れをするというのは、現代から見ると野蛮である。じいさんは武士だから心身の鍛練にこんな考えでいたのだろうが、一旦文明の利器の恩典によくした僕からするとじいさんの考え方が野蛮にみえる。

改めて文明の利器のありがたさが身にしみてくる。日常は極当然のこととして受け流していることも、時代を考えると如何に恵まれた時代に生きているかがよく分かる。

ケチ

2013年01月28日 | Weblog
ケチ

ケチは、その精神構造において保守的である。すべてにわたって保守的で、発展的でなく、こだわりが強い。一方、気前のよさは保守的な精神的構造からは生まれてこない。その性格の人は、物事にあまりこだわらないから、気前よく、自分の持てるものを人に開放する。そういう関係から積極性が生まれる。どちらを選ぶかは、個人の自由である

演歌は滅びるのだろうか

2013年01月27日 | Weblog
演歌は滅びるのだろうか

テレビを見ていると、 50年も昔に歌われた歌がリバイバルして、中高年の男女によって歌われている
酒場、女の涙、失意 失恋 などの、マイナー感情をマイナーメロディーに乗せてとろとろ歌っていると若者が離れていく事情がよくわかる。
だからといって、どんな新しい演歌があるのかというのだ。いまだに新しい姿の演歌まだは出ていない。

リバイバルを喜ぶのはその歌に馴染んだ世代ある。彼らはCDや、音楽機器を若者のように買わないから、ビジネス界からは敬遠される。

業界は掘り起こしをする前に、痩せ細っている現状を傍観し、模様眺めを決め込んでいる。それぞれはやっているのだろうが、決定的なマーケットにはなっていない。

こう言う現状をどうすればよいのか。やはり新しい演歌というより歌謡曲の歌手を育てることが第一だ。そして昔のように新しい気風の作詞、作曲家を専属にしてでも、養成することが大切だ。
今流行のグループによる歌唱は、演歌を受け入れない若者の姿であるとも言える。
若者の有り余るエネルギーの発散はできないかもしれないが、演歌には心に残る何かがあると思う。
歌手も50代60代がザラになってきた。見栄えは悪いし、声にも昔日の輝やきやパンチない。
何か悪循環が陥っているようだ。
演歌の将来性についていろいろおもい悩むことがあるが、明るい展望が未来に開けてこないのはどうしたことだろう。
所詮滅んでいくのであろうか。いや日本人の心情がそうたやすく変わるとは思えない。


時は戻らず

2013年01月26日 | Weblog
時は戻らず

蒼き髪も黒髪も白髪も、その長さを知らず。目が覚めて、髪の白さに驚き、時の速さに顔色をなくす。
捕まえんとて闇夜に姿をただし、紙と筆を持てども、諸々の想念は我が筆に乗らず。
ああ、無為の中に時は流れて、燃えたぎる青春の血はどこかに消え失せて再び我に戻らず。
無為の中に時は流れる。



抵抗

2013年01月25日 | Weblog
抵抗

昔、中国に大地主がいた。大勢の農民に田植えをさせていたが、もう少しで農作業が終わるのに、はや太陽は地平線のかなたに沈もうとしている。

そこで長者は扇をふところから取り出して、沈みゆく太陽が再度のぼって来るように、扇で呼び戻した。
ところが、不思議も不思議。沈みかかっていた太陽は扇につられてのぼってきた。という話だ。
この寓話は自然に逆らう人間の愚かしさを述べようとしたものだろうか。

一定の年齢になると、体力気力の劣化は避けられない。あたかも沈みゆく夕陽に似て。無駄なことだと分かっていても、自然にやってくる老いに対して抵抗をする毎日である。かの長者に似て。

断固として非難する

2013年01月25日 | Weblog
断固として非難する。

1,今回のアルジェリア事件 について、
首相も、官房長官も、日揮の社長も口をそろえて、こういった。
、武装勢力は宙に舞う言葉として、鼻紙よりも軽く見たことだろう
2、北朝鮮の核実験に対しても、アメリカは、このように発言した。
北朝鮮は無視するどころか、たてついた。
そこで思うのだが、非難は、言わなければならない言葉ではあるとは言うものの、中身が、何かあるのであろうか。
「断固として非難する。」言うのは、強い憤りを表すものであるが、それ以上の何物でもない。

その非難をうけた相手側が、無視さえすれば、それは空念仏に終わる。こういう発言には何らかの物理的打撃を与える。つまり、痛い思いをさせることが必要だ。なんだらの行動が実行として伴うということが、できないものであろうか。僕は実行のないから念仏は、言葉として、いくら言っても意味が無いように思う。

駆け込み退職

2013年01月24日 | Weblog
駆け込み退職

埼玉県内で100人超の教員が退職手当引き下げ前に「駆け込み退職」を希望している問題で、佐賀県と徳島県では教頭や学級担任を含む教員43人が既に駆け込み退職していたことが22日、毎日新聞の全国調査で分かった
例の4月施行を求めてきた埼玉教職員組合の倉持光好副委員長は「真面目な教員ほど不利益を被るとは現場をばかにしている」と批判。
今年度末に定年を迎えるさいたま市立中の男性教諭(60)は「生徒に迷惑をかけてしまうから踏みとどまったが、生活が苦しければ私だって早期退職を選ぶ」と退職希望者に同情した

どうもやり方がまずい。このような条件なら誰だって早期退職をした方が得だと計算するのは当たり前ではなかろうか。
教職員の場合確かに3月末までいて、生徒児童を卒業もしくは進級させて後に退職をする方を、教員個人ばかりではなくて学校側も生徒達も望むところであろう。
そこで3月末まで勤務しても退職金が減額されずに、軟着陸即ちプラスマイナス0という緩和措置がどうして講じられないのであろうか。
こんな形で退職すれば、なんとなくいやな思いを残すだろう。それは本人だけの問題ではなくて、生徒側にもいうにいわれぬ気まずい思いが残るだろう。ちょっとした工夫がないものか。

アルジエリアの悲劇

2013年01月23日 | Weblog
アルジエリアの悲劇

サバクにあるプラントで大きな悲劇が起こった。アルカイダ系の武装組織が攻撃してきて、今日現在で日本人7名が犠牲になり、なお3人が行方不明だという。
彼らの蛮行をどのように強く非難してみても、カエルの面にしょんべだろう。ここまで欧米に戦争を仕掛けてくるなら、こちらも聖戦の錦の御旗を掲げて、金輪際テロができないまでに、うちのめしてやらねばならない。
悔しいとか、次は敵をとってやるとか、そんなことで腹の虫は収まらない。

犠牲者の一人の家族にインタビューした場面が放送されたが、思わずもらい泣きした。母は東北大震災にあい、現在は一人で仮説住宅住まいだという。この母から愛する息子を奪った奴は八つ裂きにしても足りない気分だ。この母からは語らずして、いいようのない、言葉にならない悲しみが伝わってくる。
イスラム教徒過激派による欧米諸国に対する挑戦には、欧米諸国連合を組んででも掃討作戦を展開し根絶やしにする必要がある。9,11テロはアメリカ中心だったが、今回の様な事件に対しては、自由主義諸国の連帯の下に、対策を講じる必要がある。
ご冥福を祈る。

聖書主義

2013年01月22日 | Weblog
聖書主義

僕の信仰は聖書主義だ。間違っていれば、それは自分の誤りだから誤りをたたし自己訂正すればよい。神との直接対話によって自分の考えを実行するわけだから、その間によい意味でも悪い意味でも聖職者やそれに類する人の考えは入り込まない。信仰は何が起ころうとも、すべては自己責任である。
どうしても腑に落ちなくて、納得できないことがあれば、神に直接対話を試み、時によっては神を罵倒するのもよいだろう。
かんかんになって怒るというのは、それだけに神と真剣に取り組んだ証明にもなる。
基本的にこの世で苦しんでいるまじめな人を救わずして何が宗教だという冷静な考えは持ち続けて、いつの場合もこれを物差しにして信仰を眺めてみるのもいい。
信仰するにも中心は常識である。
健全な常識を持つことが健全な信仰をすることにつながる。言い換えれば健全な常識の範囲を超えた宗教には危険が潜んでいる。疑ってみるべきだ。
たとえば霊視や予知能力、超常現象など、超能力を身につけたなどということを公言する宗教はまず疑ってみて近寄らないことである。

確かに科学が万能でないことは誰でも知っている。だからといって、科学以上に宗教が力を発揮して人類の幸福に寄与したかというと必ずしもそうはいえない。
宗教戦争などという現実を見ると、宗教などない方がよほど平和に暮らせると思うのは僕一人だろうか。
人類始まって以来、どれほど多くの人が宗教の名の下に倒れていったか、
歴史を見るとよくわかる。キリスト教でも、イスラム教でもユダヤ教でも、我の信仰する神しか認めない宗教は必ず他の宗教とぶっつかり、人命が損なわれるのを見ると、宗教そのものが存在しない方が良いとさえ思う

 集団的自衛権

2013年01月21日 | Weblog
 集団的自衛権

1、集団的自衛権とは一般に、自国と密接な関係にある国に対する武力攻撃を自国に対する武力攻撃とみなして被攻撃国を支援し、共同で防衛する権利をいうとされている。

2、政府解釈は「国際法上、主権国家として保有していることは当然であるが、その行使は、憲法上、許容されない」というものだ。

なんという理屈だ。理解に苦しむ。

政府がこうした解釈を固めた最初は、昭和47(1972)年10月で、非武装を唱え衆議院で三桁に迫る90議席を誇っていた当時の社会党からの再三の要求に応えたものだった。以来、40年余が経ち、時代状況、周囲の安全保障環境も国内世論も一変している。
考えてもみよ。米艦が他国に武力攻撃され、近くの自衛隊艦船に救援を求めたにもかかわらず、救援は憲法上、行使を禁じられている集団的自衛権に当たるからできないと言って、放置するという選択肢はあり得るだろうか。
わが国の上空を越え、米領土に達するであろう弾道ミサイルを、レーダーで捕捉し、技術的には迎撃可能であっても、何もしないという選択肢は取り得るであろうか。
 いずれの問いにも、「否」の答えが常識というものだろう。否という答えを出さないと同盟国から相手にされないだろう。
前述のような事態に際して、現行解釈の範囲内での選択肢しかないとすれば、米国との同盟関係は破綻する以外の道は残されていない。
(インターネットから引用)
指摘されるまでもなく現実にこれを実行したら、我が国が攻撃されてもどの国も助けてはくれないだろう。 極論すれば一旦戦争が起これば、この論理は亡国の論理になってしまう。空想的、夢想的理想論が通用するわけがない
政府がこうした解釈を固めた最初は、昭和47(1972)年10月で、非武装を唱え衆議院で三桁に迫る90議席を誇っていた当時の社会党からの再三の要求に応えたものだった
果たして社会党は国を守るということについてどう心得ていたのであろうか。終戦後7年の社会党の要求らしいが、今から見ると、熱ものにこりて膾を吹いている状態、であるこ。れは冷静さを欠いた論理である。
友達が殴られたも知らんふりではどんな友達関係が生まれようぞ。
友達がやられたら、加勢するから、付き合いができるのである。
当時は厭戦気分が国中に蔓延していたのはわかるが、だからといって、友達がやられていても、助けを求められていても知らんふりという道理はいつの世でも通用しない。幼稚すぎる理屈である。即刻解釈を変えて、憲法上の国土防衛の意思を示す必要がある。すなわち集団的自衛権を認めるべきである。

高齢者の金の管理

2013年01月20日 | Weblog
高齢者の金の管理

医療法人社団「真匡(しんこう)会」(東京都新宿区)が、元本保証をうたうなどして医療機関債(医療債)を販売し、多額の金を不正に集めたとされる事件で、同会は約380人から10億円以上を集めたとみられ、府警は実態解明を進める。
約10人は2011年4~10月、計15回にわたって発行した医療債(1口50万円)を、同会が運営する新宿区内の診療所「戸山公園クリニック」の改装費に充てるなどと偽って販売し、高齢者らから金を詐取した疑いが持たれている。

騙されている高齢者はみなお金持ちである。、高金利か、高配当か知らないが、甘い言葉に騙されて金を出す。どこにそんな大金があるのだろう。
もし金を持っているなら、欲につられないで、しっかり財産管理をしてほしい。
この種の事件は以前から多発しているのに、何も学ばないで、甘い話につられて、金を出す。犯罪はこういう欲の面が厚い高齢者を狙い撃ちにする。
ちょっと考えて見れば、世の中にうまい話がそう転がっているはずがない。うまい話で安全であれば、高齢者が手を出す前に、大手が話に乗って儲けるだろう。
ぼけてもいいが、欲ボケだけは騙される.元だから、気をつけてほしい。少なくともこの種の犯罪の撲滅に協力してほしい。うまい話には乗らないことである。

盆梅

2013年01月19日 | Weblog
盆梅

身震いする、この一番寒い時期に、盆梅の展示会が行われる。
老木の中に小さな枝がでて、可愛い花を付けている。
美しさ、優雅さに見とれたが、立ち止まって考えて見ると、これまで育て上げた人の思いが伝わってくる。
梅の命に手入れをして、丹精込めて、作り上げられたのが、いま目の前にある見事な作品群である。
もしこれが手を加えないで、梅の意志通りに、育つままに放置していおいたら おそらくこんな芸術作品にはならないであろう。心を込めて人間の意志に近づくように、育てたからこういう盆梅ができたのだろう。

人間だってそうだ。子供を教育するには親が丹精込めて大人に仕上げなくてはならない。子供は子供の人生があるから、自然に任せれば良いという意見もあるが、それはある程度おおきくなって、ものごとの判断力が付いてから、後の話である。乳飲み子の時代から成長するがままに教育もせずに放っておけば果たして、人間としての成長が見込めるだろうか。
身体はともかくも、心の成長には親のしつけや、大人の感覚を子供に伝えていかなければ、心は野生児に育ってしまう。子供を一人前にするということは盆梅を作りあげるのと同様に、親は子供の生育に丹精を込めて教育しなければならないと言う事だ。

鳩山由紀夫元首相訪中

2013年01月18日 | Weblog

鳩山由紀夫元首相訪中

鳩山氏がいかに国益を害してきたかは枚挙にいとまがない。
 彼の言動には僕の理解が及ばないところが多い。世間で宇宙人と言われるのもむべなるかなと思う。そんな彼が、中国から招待状がきたから行くという。
当節なんのことが話題になるだろうか。尖閣問題だあろうことは
火を見るより明らかである。
中国の術中にはまって、中国寄りの発言になることだろうことは誰でも推測がつく。このややこしい時期に訪中する神経が理解できない。
首相経験者でもあり、その発言は、時期が時期だけに中国寄りの言質なんて許されるものじゃない。
中国を利するだけではないか。案の定問題なしとする政府の立場を超えて問題ありと表明した。もし彼が現時点で、そう信じて尖閣問題は係争の地であると、いえばその発言は国賊ものだ。実に不愉快な発言だ。
「領有権問題は存在しない」という政府の立場を踏み外し、中国側の意向に沿う発言を行うことがどれほど国益を損なうか。まだ、わからないようだ。
それ以外まだある。オバマ会談のときはっきりとTVの前でトラストミーといった。基地を沖縄以外のところで探すから、私に任せよという趣旨である。結果は基地問題は県外という発言とは裏腹に沖縄に舞い戻ってきた。
こういう状態になるのとトラストミーは実行の伴わないものであり、アメリカの大統領にさえも嘘をついた結果になった。
これはスミマセンで済む話か?アメリカは不信感を持っただろう。ということは日米同盟にヒビを入れたことになる。
彼の言動は、私の常識から大きく外れている。それはそれで良いが、政治の場で非常識なことをされては迷惑この上ないのだ。彼は一体自分というものがわかってちるのだろうか。結論はやはり宇宙人か。それなら住むところが間違っている。まして政治の場においては。異邦人としか呼べない。