日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

ソンクラーン祭り 0

2019年05月31日 | Weblog

      ソンクラーン祭り  


 もう10回以上もバンコックには来ているが、水掛け祭りは今まで、唯の1回も遭遇していなかったので、このソンクラーン祭りのことは知らなかった。 4月12日から13、14、と3日間はタイのソンクラーン、水掛け祭りで、それはここタイでは日本で言えば、正月みたいなものらしい。水を掛けあって、お祝いをしているのだろう。市民はバケツを持った水掛けゲリラとなり、市街戦を繰り広げる。もちろん無礼講である。大人も子供も旅行者も外国人も関係なく、全員が水浸しになる日だ。 タイ人同志だけではなく、たまたま通りかかった外国人も巻き込んで、歩いて街ゆく人には誰でも、後ろから、前から無条件に水をぶっかける。  若い女の子などは掛けられた水のために、ブラウスが体にぴちゃっとくっついてボデイラインがはっきりと浮かび上がり、膨らんだ胸のあたりは、すけすけで黒い乳房が二つ見えている子もいる。 おっととっと。これは面白い。タイの若者はいいことをやってくれるじゃないか。  高見の見物を決め込んで、僕は腹の内で、にやにやしながらバスの手すりにもたれて眼の保養をした。  水かけと言うくらいだから、水をかけるほうも、掛けられる方もそれによってお祝いをしている気分に成るのだろうから、特に掛ける方は遠慮会釈は無い。何処でもいい、だれでもいい、辺り構わず水をぶっかけるだけでなく、追いかけてきて水を掛ける。標的は同胞だろうが、外人だろうが全くお構いなしである。  バスの中から水掛けの様子をいくつも見ていたので、今日は注意して歩かねばと、出来るだけ細い道を選んで歩くことにした。 車が通らないぶん、掛けられる危険が少なくて済むからだ。  バスを降りて路地に入り込んでうまくかわそうと思ったが、僕は地理に詳しくないために、結局は大通りを歩く羽目になった。  通りでは、あちこちで誰彼かまわず水をかける。トラックに水瓶を積んで行き交う人に見境なく水を掛ける。町はそんな若者であふれている。バンコックの4月は最も暑い季節らしく、連日38度前後の気温だった。この祭りにとけ込めば、暑さ忘れの面白い祭りかもしれない。


 さて、今回のバンコック滞在はタイ旅行が目的地ではなくて、単なる通過地点に過ぎなかった。カオサン通りで格安キップを買った方が、安く昆明に行けるから立ち寄った迄である。昆明が目的地だったから、1日も早くバンコックを出発したかったのに運悪く ソンクラーン祭りにひっかかってしまったのである。12、13、14、と3日間は官庁はおろか商店も閉まっている。  勿論中国大使館もお休みだ。ビザはとれない。仕方なくバンコクに釘付けになってしまった。  格安キップには有効期間があるので、自ずと帰りまでの日数には制限がある。1日も早く昆明につかないと中国に滞在する期間は それだけ短くなるのだ。僕は内心すごく焦っていたが、焦ったところでどうにかなるものでもない。体こそバンコックに置いているが心ははるか彼方の雲南省に飛んでいる。


 大通りで水の掛け合いをしているのを見て、これはやばいと思った。満足に着替えも持たない僕に、水が掛けられたら、それこそ パンツ1丁で町を歩かなければならないことになる。どうしても水掛けから逃れなければならない。 そこで僕は大通りを避けて路地を通ることにした。それは車からの襲撃を避けるためである。しかし路地のどこから水が飛び出してくるかしれたものではないので、立ち止まっては警戒をおこたらなかった。だが、途中でどうしてもスリウオン通りを歩かなければならない所が有った。しかたなく歩いていると、路地から中学生風の子供がかんずめの缶に入れた水を、僕の背後から背中に掛けた。というよりはそそぎ込んだ。彼はにやりと笑って僕を見つめたが、僕は驚きと怒りに声をふるわせた。水は背中から足下まで直行したお陰でびしょびしょということではなかった。 「やれやれ、たいそうなことをしてくれる。この野蛮人めが。」 僕はぶつくさ言いながら、なおもスリオン通りを歩いていたが、 次に来たのは強烈だった。車に若者が数人乗って、こちらに向かってやってくる気配を感じた僕は、右折してタニヤ通りのほうへ小走りに逃げた。多分此処なら安心だと思ったのもつかの間、1団は歓声をあげながら、僕を追いかけて来るではないか。これはいかん。僕は走って逃げた。蛇に追いかけられたら、横に逃げるに限るという具合に、僕は車が入れないような小さな路地に逃げ込んだが、 そこにはバケツを持った若者がいた。これはいかん、僕は驚いてまたもとの路を引き返さざるを得なかった。が、運悪く丁度そこへ先ほどの車が通りかかった。すかさず歓声と共に水がドバっと飛んできた。避けようもなく僕は頭から水を被った。あわてて僕は肩に掛けたカバンからタオルを取り出して急いでふいた。しかしカバンの中まで水が入ってしまっていた。 急いで取り出したが、ビデオカメラが濡れている。 「やられた。」 僕は大急ぎでカメラを取り出し、タオルでふいた。綺麗にふいたが水は中まではいってしまったらしく、どんなにさわっても微動だにしなかった。 「畜生。馬鹿者め。手前ら野蛮人か。水を掛けたいのならタイ人同士でやれ。俺は外国人だぞ。誰もかけてくれと頼みもしないのに。いやがる俺にまでかけやがって。一体どういう了見なんだ。」 僕は怒りまくった。びしょぬれの上に、カメラまでやられてしまったのだ。腹が立たない訳がない。通り過ぎていく車に向かって 僕は唾を吐いてやった。  ビデオが動かないのにはさすがに参った。自室に戻って僕は電池をはずし、本体をフアンの風に当てて、乾かそうと懸命につとめたが、ビデオは動かずじまいだった。買ったばかりで今回が初めて使うのだ。それを楽しみにしていたのに。僕は何重にもむしゃくしゃした。  自分の都合でかってにタイにやってきておきながら、こんな事をいうのは、はなはだ不謹慎ではあるが、僕にとっては祭りは出来るだけ早く終わって欲しかった。  ソンクラーンはタイ人にとっては、1年一回の無礼講の祭りで暑い盛りのフラストレーションを、発散させる楽しい祭りかもしれないが、僕には不愉快な祭りとしてしか映らなかった。  「ところ変われば品変わる」というが、日本の正月とタイのソンクラーン祭りは大違いである。日本の正月はあくまで歳の初めとして、威儀を正し、歳の始まりを祝うもので、そこには格式というものがある。水掛祭りのようなエネルギー発散の要素はない。 それでもやっぱり「所変われば品変わる」で片づけなくてはならないのか。実害を受けて腹立ち紛れの僕は素直に、このソンクラーンを楽しい喜びの祭りとして受け入れることは、ついぞ出来なかった。                                 


ポルノ映画5-44

2019年05月29日 | Weblog

            ポルノ映画
 ポルノ映画専門の映画館に入った。見に行ったというよりは、冷房のよくきいたところで、暇つぶしをした、といった方がぴったりだ。こんなこと、生まれて初めてである。
 ポルノ映画というのは、どういう種類の物かよくわからないが、何とか想像はできる。男と女の関係を扇情的に、刺激的に、直接的に表現した安物の映画のことだろう。全く関心がないといったら嘘になるが、はじめからストーリーがわかるような気がして、のっけからばかばかしいという思いが先にたった。
 顔見知りに会わないように、あたりをきょろきょろ見渡して、こそこそっと足早に中に入った。場内は100席もあろうか、それでもパラパラ2、30人はいた。
 予想以上のあまりにも低級なストーリーにすぐ飽きた。映画の画面より入り口のポスターのほうが、よほど迫力がある。
 
 退屈した僕は、画面を見るより客の表情を見ている方が面白かった。
客席の年齢層は50歳から80歳くらいまでか。居眠りしているセールスマン風の人を、ちらほら見かけるが、きっとさぼっているんだろう。暇つぶしか、居眠りをして睡眠をとっているのだろう。そういへば、さっきから鼾をかいている人が、何人かいるが、彼らにとってここは、700円の休憩所なんだ。僕と同じように映画を見る為の映画館ではないのだ


 折角入場料をはらって入ったのだから、見なくちゃと、損得計算をして、再び画面に目をやったが、すぐ飽きが来た。何しろ60分の上映時間に3回も大あくびが出たのだ。
何故刺激を受けないのだろう。何故興奮がないのだろう。何故眠りかけている欲情をかき立てないのか、結構直接的な場面もあるのだが、何も感じない。
 まるで気が抜けた馬鹿みたいな話である。
 
 きょろきょろしていると、前列3列目の白髪の老人だけが、しっかり見ているのを発見した。彼は僕の注目を引いた。つえが左手にしっかりと握られている。右手は指が内側へ巻き込んでいる。きっと軽い脳梗塞でもおこしたのだろう。彼は右手と右足が不自由の身なんだろう。この人は今、病と戦っているのだ。いやこんな体で僕よりも、もっともっと枯れているはずなのに、こんな映画を見に来ているというのは、何か訳があるのだろうか。
 僕はその訳が知りたくなっていろいろ思案してみた。
しかし何の答えも見いだせなかった。そしてそんなことは、もうどうでもよかった。
 


 彼は今2つの敵と戦っているのだ。病の身ながら、攻め寄せてくる老いと、真剣に戦っているのである。こういう思いに、いたったとき、僕にはこの人の姿が美しく見えた。
 700円で僕は他人の人生の1断面を見せてもらった。それは若い男女の絡み合う姿よりは、余程僕の関心を引いた。
 また迫力があったし、生きることの1つの、生なましい場面を見せてもらって、考えさせられた。絡み合う姿と、人生のたそがれ時の人間の姿と、その対比は宇宙の陰陽の画面みたいだった。


ダブルブッキング0x

2019年05月29日 | Weblog

ダブルブッキング



 遅れることはあっても早くなることはない。けれども、ぼくは落ち着かなくて、目と鼻の先にあるプネ駅へは一時間以上も前に着いた。インドでは何が起こっても不思議ではない、というのが僕のインド観である。前回のインド訪問で僕はのことをしっかり頭に叩き込んでいる。あつものに懲りてなますを吹いているが、そのくらいでちょうど良いのが、インドの旅のタイムスケジュールだ。
 列車は定刻より1時間遅れで発車した。僕は車番を間違わないように何回も自分の名前が書かれているデッキの入り口に貼ってある、座席シート表で座席を確認した。33番。これが僕の席である。
 33番へ行ったら若い女がでてきて、ここは違うという。チケトに表記された番号を示してここだと、いったら他の席だという。念のため僕はもう1度予約シートを見に行ったら、その女の連れあいに出会った。彼はミスターの席はこの列車の33番だと言った。彼と一緒に座席に着くと女はもう何も言わなかった。やれやれ。これで明朝8時から9時にバンガロールにつく。約1000キロの旅だ。
 地図で見ると、プネからバンガロールまでは近いが、走れば1,000キロメートルの旅である。下関から東京へ行く距離だ。さすがにインドは広い。冷房は穏やかに効いていて居心地がよい。ああ、極楽。先程は駅まで歩いて10分もかからないというのに、汗だくになった。インドは日が昇ると暑い。日が沈むとさわやかになり、夜から朝にかけてはかなり気温が下がる。昼は35度以上あっても、真夜中になると25度以下まで下がることだってある。ファンを回したりエアコンをつけたりしたままで、水シャワーを浴びて、そのまま部屋に入ると寒くて身震いすることも何回かあった。


 ビヤ樽は僕にチケットを見せてくれと言った。僕はチケットを出しながら自分の座席は33番だと指さした。彼は2人分のチケットを示しながら、34番、33番だという。
あれ、ダブルブッキングじゃないか。今さら俺の席だと言われてもハイハイというわけにはいかない。僕は少々あわてた。が、彼にとにかく座っていて、車掌がきたら聞いてみようと提案した。彼もそうだといった。
 なりは粗末だが、乗客にあれこれ説明していたから、てっきり車掌だと思ったので、この問題についてその彼に話をしたが、要領を得ない。彼は車掌の補助員で毛布やシーツを配りに来た。そうだったのか。だからわからないはずだ。僕は納得した。
その後でチケットチェックに来た人は制服を着ていた。
 ビヤ樽は車掌にしきりに説明している。車掌は33.34と書いたチケットを見ながら、うなずいている。僕は自発的にチケットを見せて33は僕の席だと主張した。しばらくすると車掌は46番に移ってくれと言った。ただそれだけをいって詳しい説明をしなかった。
どんな席かわからなかったが、僕はしぶしぶ荷物を持って46番を探したら、なんと1人用のシートである。これはありがたい。
 座席を寝台に作りかえ、毛布を重ねて枕を高くして横になった。ここは列車の出口に1番近いところなのでエアコンが効きすぎている。そういうマイナス面もあるが、窓の位置がちょうど顔の位置で、
寝ながらにして外の景色が楽しめる。エアコンのため窓を開けるわけにはいかないが、サンシールの張ってある窓からは、外の景色がみんな黄色がかって見えた。
 やっと落ち着きを取り戻した僕はシートの移動について考えた。ムンバイで取ったチケットは2人用寝台である。つまり4人掛けのうちの1人が僕である。この一画はすでに新婚旅行の若夫婦が二席をとっており、残る二席が僕と他の1人という形になっていた。そこへ
ビヤ樽夫婦が来たのである。チケット売り場では、気を利かして
夫婦に33.34番の席を売ったもんだ。そこで彼は僕に座席ののチェンジを申し込んだのだ。だが僕は意味が分からないから、ここは僕のシートだと一歩も譲らず頑張った。インド英語を解し得ないとこんな馬鹿みたいなことが起こる。
 おれたちは夫婦連れだから同一区画の上下で寝台が欲しいんだ。君は1人ものだから、チェンジしてくれても実害はないはずだ。俺達は別々の席よりはこのほうがいいんだよ。
言葉が分かれば、たったこれだけのことなんだ。が、意味がよくわからなかったばかりに、ダブルブッキングだと車掌にクレームを言わなくちゃなんて大げさな自分に僕は苦笑した。結果として僕は得をした。ひとりで景色を楽しみながら体を横にして、ペン走らせることができたから、コルカタからムンバイまでの2,000キロを二晩列車で過ごし、さらにムンバイについてからは、その晩の夜行バスで13時間かけて、徹夜でアウランガバードまで走った。なれない土地でスケジュールに縛られて、すべてを忘れて突っ走った。
 当然疲れた。特に睡眠不足からくる神経の高ぶりは簡単には鎮まらなかった。不便、暑い、汚い。そのどれもがいらだちの原因だった。だが今は違う。エアコンのよく利いた1人用の寝台で景色を楽しみ、列車に揺られながらエッセーを書く。暑かろうが、寒かろうが、
汚かろうが、清潔だろうが関係ない。このコンパートメントこそが地獄の中の極楽なのである。


 列車は1時間遅れのままで走っている。18時だというのにまだ日が暮れない。もう少し立てば真っ赤な火の球となって地平線に落ちていくことだろう。外は何百キロ走っても似たような風景だ。果てしなく続く平野は熱帯の樹木と、畑と、実った小麦と、レンガ造りの粗末な家いえ。暑さにもめげず働く真っ黒な農民の姿。川もなければ海もない。何の変哲もない画一風景。林もなければ森もない。そのくせ所々に蛍光灯の明かりが見えるのは、何かアンバランスで
ユーモラスだ。列車は荒野を疾走している。初めて極楽の旅をさせてもらった。これもインドの旅なんだ。旅にも色々あるなー。


 


乱暴者

2019年05月29日 | Weblog

何があったんだろう?

 男はぶすっとした顔をしていた。 女が何か言ったら、

男は彼女を汚い言葉で罵り、女の顔を素手で殴った。

満員電車の人混みの中で、人目をはばからずに、 こんな愚かしい男とくっついた女は、碑害者になる。

 私はすぐ横でこんなことを思った。

口先ばかりで甲斐性のない男も困るが、さりとて、粗野と乱暴な精神しか持ち合わせていない男も困りもの。

女にとって男は不可欠か。男にとって女は必要なものか。

暴力は腕力だけではない。精神的な暴力もある。

しかも暴力というものは、我々人類が進化し始める以前から、

動物的な部分として、体の一部としてくっついて持っているものである。

そういう状況の中で、女も男も生きていかなければならないのだ

 


村木精神

2019年05月28日 | Weblog

  命の共生き 村木精神

「自分が支えられる立場になって、世の中には支える人と支えられる人の2種類の人間がいるんじゃなくて、みんな支えてもらわなきゃいけないことがあるし、逆に誰かの役に立てる、お互いにそうなんだっていう。

だから困ったときには助けてって言いやすくて、自分のできることで誰かを支えるということを誰もが少し気軽にできると、みんなすごく楽になるんじゃないかなと思ってます」(村木厚子さん)            インターネットから引用

村木さん。事務次官まで登られたあなたが、無実の罪で拘置所に入れられるなんて不条理も甚だしい。

 しかしその不条理をいかることだけではなくて、反転して 命の共生きに気づかれ若草ハウスを作って困難な事情を抱えた女性たちに宿を提供されたことは、とてもすばらしい。

心が熱くなる。絶賛に値する。 村木さんのこの考え方を行政や国がバックアップする方法はないものだろうか。

個人の善意に頼るだけでは、限界がある。 村木精神は永遠に引きついて行けることを心から願うものである。


がれきの街から5-46

2019年05月27日 | Weblog
鎮魂曲  がれきの街から
1,17 阪神淡路大震災 の犠牲者の御霊に捧げる。
 第一楽章   震災前の阪神地方の美しい風景  バイオリン中心の弦楽器 ピアノ
第二楽章        マリンバ  ハープ  突如としておこる大地震    ドラムス シンバルン
 第三楽章          弦楽器   白い水仙 鎮魂       ベース バイオリン
 第四楽章  羽ばたけ明日に向かって   トランペット 金管楽器   ドラムス
演奏時間 一五分くらい 以上の構想で作詞作曲し始めた。
まず作詞を仕上げて第三楽章まで  作曲もし終えた。 作品は出来るが果たして奉納演奏が出来るかどうか、気になったので事務局に足をを運んで都合をうかがった。
何があったのか知らないが音楽なんて不要だとののしられるような返答が返ってきた。 いわれてみれば頼まれた覚えはない。だから音楽は邪魔だという個人的見解もわからないわけだはない。
しかしこういうたぐいの作品はたのまれる前に、自分の気持ちに従って作るものである。 音楽に関しては小学生と大学生の開きがある。話にならない。
僕は踵をふりかえして、家路につた。悔しい。歯がゆい。いじいじする。
 第四楽章の作曲はそこで止まってしまった。 ご縁がなかったのだろう。

金、金、金

2019年05月26日 | Weblog

金、金、金


 金では買えないもの、価値を求めているのが文化生活。
金、金、金、で金を追い求めて生きるのが金生活。どちらも大切だがとりわけ金がなかったら 、生きていけない。

その上に文化生活の花を開かせることが出来る。だから人々は金儲けに血眼になって走るのだ。
下部構造は上部構造を規定するというのはこの辺ののことを指しているのだろう。

生まれてこの方ずっと貧乏で生活をしてきた。借金の怖さも経験した。
金がない故に苦労したことも多い。

今金があったら借金を全部支払って清々するだろう。借金は何時も頭の片隅にいて、頭を重くする。

金金金の亡者にはなりたくないが、金がほしい。文化生活をするためにも。
そんなことをかんがえながら、日々を送っている。しけてるな。とつくづく思う。


28歳の老婆5-46

2019年05月26日 | Weblog

このタイトルには矛盾がありますね。28歳では老婆とは言わないものです。でも、アンシャン・レジームの頃、この言葉が現実にありました。
1787年から1789年にかけて、イギリス人の農学者であるアーサー・ヤングがフランス各地を旅行しては、農学者の目で革命前夜のアンシャン・レジームを鋭く観察しました。このエピソードのその最も有名なものです。
さて、時はバスティーユ襲撃が起こる2日前の1789年7月12日。ヤングが馬を休ませるために長い坂道を歩いて登っていたとき、貧しい女性と一緒になり、さまざまな話をしました。
「私の夫は小さな土地と、牝牛と小さなやせた馬を一頭ずつしか持っていないのに、ひとりの領主様には42リーヴルの小麦と三羽のひなを払わなければなりません。もうひとりの領主様には、90リーヴルの燕麦と1羽のひなと1スーの貨幣を払わなければならないんです。もちろん、この他にも人頭税や他の税金があります。子供は七人いますから牝牛のお乳はスープを作る足しになってくれます」
「それならなぜ馬を売って牝牛をもう一頭買わないのかね」
「とんでもございません。そんなことをしたら、夫は作物を運ぶことができなくなります。偉い人たちが私達貧乏人のために何かをしてくださるらしいけれど、誰が何をしてくれるのかさっぱりわかりません。でも、神様がもっと良くしてくださるにちがいありません」
この女性は、労働のために腰が曲がり、顔は皺で硬くなっていました。近くで見ても60歳か70歳に見えました。でも、本人は28歳であると言うのです。実年齢よりも30歳以上老けて見えることは異常なことです。
当時の農婦達は男性よりも厳しい労働をしていたそうです。その過酷な労働は、体の均整や女性らしさを完全に破壊していました。この農婦一人が特別に老けていたわけでもないのでしょう。イギリスの農婦も大変な仕事をしていたはずですが、フランスの農婦の過酷さはすさまじいものがあったようです。ヤングはこの両国の差異を「政治による」と言い切りました。本質をずばりと突いた鋭い指摘です。
と書いてある。それでフランス革命が起こる。当たり前の話だ。一部のものが贅沢すために、大多数がその犠牲になるというのは、キリスト教の教えは許したのであろうか。もしそうなら、神は死んだと言う他は無かろう。時代が何時であろうとも、この地上の富は出来るだけ公平に分配されるべきもので、特権階級が独り占めすることは許されるものではない。もし宗教が全ての人間に出来るだけ平等に、富を分配するように教えなければ、宗教の社会的役割というものは、無きにに等しい。個人の救済が主たる役割だというなら、布教なんて必要がない。個人は自分の好きな方法で救済を求めるだろうから、布教というのは大きなお世話だ。
この豊かな日本の社会で、昨日60才台の姉妹が飢え死にしたと言う報道がテレビで流れた。お金に困って、行き着くところまで行ったという話だ。社会体制によって追い詰められて、フランスの老婆のようになったのではない。僕から見ればもっと積極的に生きる知恵が働かなかったものかなと思う。何せ暗い話だ。ついでに言えば、フランス革命は起こるべくして起こったのだ。歴史的必然と言ってもよい。 聖職達よ。もっとしっかりして人間の命を見つめよ。

鶴富屋敷5-47

2019年05月25日 | Weblog

鶴富屋敷

深い山と川にはさまれた崖の中腹を、何時間走ったことか。
途中峠を超えたこともあり、上り詰めた峠の上から、山深い山脈を四周に見て、ボーぜんとしたこともある。
地図でたどれば、感覚が狂う。自然の厳しさは、地図からは、読みとれない。


こんな山深い谷間の土地で、再び戦力を蓄えて、復讐戦などと考えるほうが、無理である。
狭い家で、農業をして、自分たちが生きるのが精一杯である。


那須大八が、戦意なくして静かに、自然に溶け込んで暮らす平家の落ち武者・落人の姿を見て、討伐を止めたのは、いかにもそうだろう。


ここで暮らせれば、敵味方の意識はなくなるだろう。この山奥には、自然の力が満ちあふれ、憎しみ、殺し合う人間の愚かしさを、いやがうえにも悟らせてくれる。
太陽の光 四季の自然の移り変わりなど、自然の営みの中でしか生きられない人間の本当のあり方について、気づかしてくれる。


おこれる平家、ひさし必ず
武士の分際で、天下を掌握した時点で、貴族化して平家は武士を失う。それは歴史の単なる気まぐれであって、本流ではない。

一般大衆は、貴族社会を望んでいない、新しい社会を望んだが、平家は、我が世の春を作り出すために、天下をとった。
平清盛というリーダーがいてこそ、平家はその体を保つが、リーダーを失うと坂をころげ落ちるように、平氏政権は、崩れ去っていった。
何時の時代も登り坂を上り詰めると必ず下り坂に向かう。それは自然の法則である。世界の歴史を見ると、このことがよく分かる。歴史開闢以来栄え続けた国など、どこにもない。
超大国だと言われたアメリカにも下り坂の影が忍び寄る。 うちかわって19世紀から20世紀かけて、衰退の一途たどった中国が最近急速に力をつけてきて、往年の輝きを取り戻そうとしているかのようである。


中華思想によって東南アジアに絶大な影響を及ぼした、中国は中華思想を裏付けた哲学や宗教や文化といった方面の力は消え失せたようだが、経済力をつける事によって発言力を増し、ふたたび周辺国に影響を持とうとしている。小は平家の権勢から、大はアメリカの国際社会における発言力の影響の大きさまで、スケールの規模を大きくしてみると、どれもこれも歴史の理の軌道上を歩いているように思える。


こんな事を平家の落ち武者の里山深い椎葉の鶴富屋敷にたたずみながら考えた。


安珍清姫0

2019年05月24日 | Weblog

c    清姫ってストーカーじゃないの


 


紀州路線走ると、御坊の次が道場寺である。ここには、安珍・清姫物語伝説が、ある。


 


恋にくるう女が男を追いかける。思いついたら、彼が隠れている釣鐘を恋の炎で、焼き尽くす。


 


何もかにも忘れて、命をかけた恋の情熱は一体どこから出てくるのであろうか。


 


この物語は、何を語ろうとしているのか、


1,女の恋の情念の激しさ


2,なぜそこまでエネルギーを集中して、釣鐘を焼き尽くすのが、女の内なる世界は、閉鎖的だから、一点集中したエネルギーはすべてを焼き尽くすほどのパワーを持っている。


 


女にかかわらず、恋という情念のもつエネルギーの大きさ。そこには、男と女という差は無いと思うが、


一点集中となると女の情念の方が、大きいのかもしれない。


 


命をかけてもという。望みが、押しつぶされて、解放されない情念の塊は、今年という形をとれば、幽霊になる。


清姫は、死んでから、蛇になるのではなくて、生きて、情念の炎を安珍が隠れたとする釣鐘を焼き尽くす。


 


 


 


現代の清姫に、この問題を尋ねたら、彼女達は何と答えるであろうか。


安珍代わりはいくらでもいるよ。 さっさと、乗り換え、するのだね。それが、かなわないのなら、生涯独身で過ごす。


結婚しても、離婚率が高くなる現代だったら、結婚していてもいなくても大差は無い。(本当は大差がある。)


離婚したと思えば、独身でいても、なんらさしつかえない。


 


女の執念


清姫  おいわ  お菊


 


 


 


 



 昔昔、熊野権現へ参詣に来た男前の旅の僧 安珍が、


紀伊の国牟婁郡 眞砂の庄司の家に一泊させてもらうことになった。その家の娘 清姫が、安珍に恋をし夜半に寝床まで行って積極的に迫った。


 


驚いた安珍は「修行中の身なので、熊野からの帰りにはもう一度ここに寄るので、それまで待って欲しい」とその場は免れた。 


 



9-26世間というものは

2019年05月24日 | Weblog

         世間というものは


   Sさんが自殺したという衝撃的な話を新聞報道でしった。 私は「やはり」とあたかも彼の自殺を予感してきたかのように、そしてこの悲劇が当然であるかのごとく、素直に受け止めた。


彼は京都大学の工学部をトップの成績で卒業した、スーパーエリートであるという話を私はあちこちで耳にした。また実際に彼と交わした会話の中でも、その噂が単なる風評でないことをしばしば感じた。 しかし、私は彼と交わした会話から「果たしてこのままでよいのだろうか」と首をかしげたことが一再ならずあった。


自分に対して自信を持つことはよいことだが、それが昂じて、他人との調和を欠いて、自信過剰になり、うぬぼれが強くなると、必ずや他人が馬鹿に見えたり、世の中のことすべてが矛盾に満ちて、不平不満しか残らないように思えるようになる。そうなれば、自分もこの世も疎ましく、えーい面倒くさいと捨て鉢とも、やけともつかない気分に襲われて、取り返しのつかないことをする危険性があると私は感じていたのである。


小学校に上がる年齢から彼はおそらく群を抜いて、学業成績が良かったことだろう。親からも、教師からも級友からも常に良い子、よくできる子とチヤホヤされそういう雰囲気の中で、己の知的才能のみを磨くだけで、この世はバラ色に輝いていたのであろう。 だが、玉石混交の実社会は、知的能力だけで勝負ができるほど単純なものではないし、狭くもない。 百人百様という言葉があるが、人は何か一つの特技を思ってそれだけを武器にして、他を圧して生きるなんてことは、普通のビジネス社会では至難の業である。 実社会は総力戦、いわばすべての能力を集約した人格で勝負するのが現実で、京都大学工学部をトップで卒業したというだけではどうにもならない。  知的能力よりはむしろ現実社会で要求されるのは、現実との対応の上手下手で、その方が大きなウェートを占めているように私には思えてならない。


 案の定、彼は会社の中で、色々な部署を渡り歩いて、そのいずれにも満足ができず、会社を辞めた。 それ以降、いくつかの会社を転々としたらしいが、その何処にも安住の地を見いだすことはできず、結局死を選んだようである。


表面上、友人たちは彼の死をいたんだが、誰もが彼に釈然としない気持ちを持った。 本音を言えば「世の中そんなに甘くはない。そんなことぐらい50歳を過ぎて、分からなくては大人じゃないよ。東大や京大を出た人間ならば、誰だって我こそはというプライドは持っているし、その辺を内側に隠して表面を繕い、ないしは忍び難きをしのんで、うまくやっているのが世の中の現実というもんじゃないか。」という冷ややかな反応である。 よしんば彼の弁護を試みようとしても、心の虚ろは隠せない。 世間ではあまり頭が良くても困りものだというが、案外こういうことを指して言っているのではないか。


 私が思うに、要は知的才能を上手に使う、つまり、にっちもさっちもいかないほど、自分を追いつめるないように、できるだけ事実を客観的に眺められるように、訓練することがたいせつである。  ひるがえって、もし彼が心の底から神仏の存在を固く信じていたとすれば、この悲劇は起こらなかったのではないか。  なぜならば、神仏の次元の世界を、この現世に導入しておくと、自分の未熟さや、無力さを知ると、同時に思いあがりを目覚めさせる効果があるからである。


  


 生きることの終わりが見えてきた

2019年05月24日 | Weblog

c

地平線に太陽が沈むように、自分の命も生から死に向かってひた走りに走っている。 近頃は命についてよく考えることがある。そして生命現象の不思議に突き当たる。

そこでまた考える。生きていることを全てが、歓喜に満ち溢れ、明るい明日しかないと思うのも人生で、その逆もまた人生である。

そして確たるプラス思考があっても、それが現実の場面で貫けるかと言えば、弱いもので、挫けては立ち上がり、立ち上がってはくじける日々である。 日常生活がどのように波うとうとも、信念を大切にしたい。なぜなら信念は未来について大きく影響するからだ。

 

        。

  


八百万の神様

2019年05月23日 | Weblog

八百万の神様

「こんなことを言うと、バチが当たるかもしれないが、この世を作りなった神さん。ちょっと殺生じゃありませんか。」

「またいつものように、余計なことばかり考えて、生きて居る。ただひたすらに、生きて寿命を全うすれば、それでよいのだ。」

「神さんの言い分はそうかもしえませんが、この不自由な属性に、身を置いている身になってもみてくださいよ。 第1出発点がそもそも不自由じゃないですか。このように生まれるか,生まれないが、選択の自由がないじゃないですか。人間は問答無用で、この世に生まれさせられただけじゃないですか。」

「何?それが不満か?お前はこの宇宙の原理原則をまったく理解しておらん。お前をこの世に人間として送り出したのは確かに神だが、 人間に、生まれることがいかに難しいことか。

そこの辺が分かっておらん。人身受け難し。今すでに受く。とお経に、書いてあるではないか。

輪廻転生のことわりの通り、人間としてこの世に生まれてくることは、希有なことだ。なぜかというと、この地球上の生命の一生考えてみろ。そのあらゆる生命の中から、人間として選ばれて、この世にでてきているわけだ。それだけでも感謝のはずだ。」

「神様。輪廻転生とおっしゃるけれども、これは仏教の考え方ではありませんか。」

「違う。仏教のみならず、ヒンズー教もバラモン教も、こういう考え方をする。つべこべ言うな。神との問答は不要じゃ。

こんなことを思う前に自分の命を考えたらどうだ。」

「やっぱり神さんと人間とでは異次元のすれ違いだ。今後神様,問答は控えます。」