日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

信じる事は難しい

2009年05月31日 | Weblog
信じる事は難しい

目に見えたり、音で聞こえたり、舌で味わったあり、
いわゆる五感で受け止め、感じられるものを信じることは、比較的易い。
と言うのは、毎日がそれの繰り返しで、疑問を挟むことはめったにないからである。

ところが、目に見えないものいわゆる五感で感じないものを、信じるとなると、それは難しい。そういうのは人間は感覚、五感で大半を感じていないからである。

ご先祖を仏といえば、(一口でいえば)、先祖として、彼らはこの世に、いつの時代かに、必ず実在した人たちであるから、それらを仏として、受け入れても、それなりの時間がかかるであろうが、やがては受け入れることになるだろう。

神となると抽象的すぎて、なかなか受け入れて信仰することは難しい。儀礼的に拝むということを除いては、

存在するかしないかは、信じることができるか、できないかによって決まる。神仏の存在は五感で感じられる世界とは程遠いので、信じることが難しいのである。

お経

2009年05月30日 | Weblog
 お経

お経は釈迦の教えである。彼がこの世のありとあらゆる体験をして、その後に、宇宙の真理を明らかにし人間の生き方についてノーハウを教えた。お経はそのエッセンスを凝集したテキストである。
あらゆる思索と体験をしてその後に、釈迦が悟った人生の根本原理と生きがいのある、悔いのない人生を送るための考え方や実践の仕方、それを満載したものがお経である。

 われわれはこれを、誤解して陰気臭いもの、抹香臭いものと思っているが、それはお経の本質や、実態から離れ過ぎたものである。
お経が悪いのではなくお経を読む、現場が悪いのである。我が国ではお経は葬式や法事など死者を弔ったり、死者を偲んだりする時にかぎられて用いられる。
だからわれわれは、お経に対して偏見を持つのである。

人生はどういうものであるにしろ生き方は、個人にゆだねられている。生きがいのある人生か、つまらない人生か。それは、すべて個人にゆだねられ、個人が決めていくことになっている。ということは人生については、各人がおのおのの人生に対して責任を持たなければならないということである。
より有意義な人生を送るためのノウハウ、や智慧が経文の中にたくさん盛り込まれている。
もともと、インドで生まれたものであるからインドの、言葉で、書かれておりそれが、玄奘によって、中国語に翻訳され ほとんどそのままの形で日本に、輸入され中国語で書かれたお経にぶっつかるから現代の日本人にとってはとても読みにくく、しかも難解なのである。
 歴史上の大天才が体験し、思索した物の集大成だからそれは決してやさしいものではないが、日本語でわかりやすく解説すればもっともっと、現代の日本人にも受け入れられるように思われる。

この世に生まれて、生きる目標がたくさんの富を得る事であり、社会的な地位を得ることでありというような世俗的な事ばかりに関心が奪われているような人にはお経は一見して無用に見えるが、それは全く逆のことで、そういう俗世の確かな物を得るためにも、お経は必要な物なのである。

しかしながら、僕はあらゆる人にとって人生読本だと思うにも関わらずこれが不思議なもので、極少数の人にしか縁のないテキストなのである。
考えてみると、これも縁なき衆生と、縁のある衆生とに分かれていて、縁なき衆生はとことん縁のないものなのであろうか。
しかし生き甲斐のある人生を送るための、すばらしいアイデア集であり、賢く生きるための知恵の宝庫であるものだと思うから僕はどなたにも読むようにお勧めしたい。
そのためには何の知識もない一般衆生が日常生活の中で困った時に問題解決の為の手引き書として、つまり漢字が判らないときに漢和辞典を引くように、人生辞典としていつでも手元で活用できるような、日本語訳が不可欠である。

出よ。お経の日本語翻訳者

良寛さんはやっぱり哲人だ

2009年05月29日 | Weblog
良寛さんはやっぱり哲人だ。

人は必ず死ぬ。201歳まで生きた人など、洋の東西を問わず、いつの時代にも一人もいなかった。

すなわち、人は例外なく死ぬのだけれど、あなたは死ぬといわれたら気分はよくない。
自分が不死鳥でないことはよく知っているが、それを言葉に出して言うことは、はばかられる。
良寛さんは、「死ぬ時節になったら死ぬが良い。」と公然と言い放つ。
これは非常識ではあるが、あえてこの非常識をいう良寛さんには、世間の常識を敢然と破ってあまりある哲学がある。

心が通じ合う人達であるならば、世間の常識の世界を越えて、自己の信ずるところを披瀝しあえることが何の不快感も伴わずに、できたのであろう。
そしてそれが、心の通じ合う人に限定されず、万人に対して、というならば、やはり良寛さんは哲人だったというほかはない、

心が楽しければ

2009年05月28日 | Weblog
心が楽しければ、

ウキウキする。心がくらければ表情もくらい。まったくその通りである。もし毎日が心楽しければ、人生は極楽である。だがそうもいかないのが人生じゃないか。こんな事、大人だったら誰だってわかっている。

上手くいかない。思うようにならない。それが人生であり、それを超えるための努力が、大切であるとよく言われる。

思うままならない人生を努力によって乗り越えようするが、努力することによってすべてが乗り越えられるものでもない。

死にもの狂いの努力をしてもどうにもならないものは、どうにもならないのであり、それを可能と考えるところに甘さを感じる。

人間は迷いの人生を過ごしている。その迷いから、目が覚めると、人生が明るくなると言われるが、それでは迷いとは何か。人間は何を迷っているのか。迷ってないとはどういうことなのか。

そういうことに明確な解答を与えないで、ただ迷っている、迷っていると言われたってどうしてよいかわからない。
ということは結局人間は、その時々の情勢に合わせて、ふわふわしているというのが人間が生きているということの意味ではあるまいか


先制攻撃

2009年05月27日 | Weblog


国民の間に「攻撃される前に北朝鮮の基地をたたくべきだ」という声が出るのも、感情論としては理解できる。

 しかし、このような時だからこそ、政治には冷静な対応を求めたい。感情論に乗った短兵急な議論は避けるべきだ。

 先制攻撃をも可能にする敵基地攻撃論は「自衛の範囲」の見直しにつながるだけではない。日本が防衛政策の基本としてきた「専守防衛」を空洞化してしまう恐れがある

ある人はこのように主張した。この人は国土防衛をなんと考えているのだろうか。今問題になっているのは北朝鮮の無謀な軍事主義だ。

6カ国協議のずっと以前からアメリカも交渉はしてきたが、それで良い方向へ議論が進んだか。1990年代からいたずらに時間ばかりかかって外交交渉では何一つよい(北朝鮮を軍縮方向へ導いた)事が結果として残っていないではないか。北朝鮮はこの間に時間稼ぎをして、ミサイルや核の開発をどんどん進めて、軍事力をますますパワーアップしているではないか。

その現実を直視したとき 、攻撃される前に北朝鮮の基地をたたくべきだ」という声が出るのも、当然の理屈で何故これが 「 感情論としては理解できる。」
ということになるのか。こういう考え方こそガキのユートピアだ。非現実的な夢物語的論理だ。

相手は無法者のならず者だと指定された国だ。そして今迄の経過の実績はそれを実証しているではないか。

どこに北東アジアの平和と安定に寄与しているのだ。この地方で唯一平和を乱す軍事国家ではないか
直近では国連の決議を無視してミサイル発射や地下核実験を行っているではないか。これは非常な危険な軍事国家が隣国に存在していると現実を目の前に突きつけられたのではないか。

「 専守防衛」を空洞化してしまう恐れがある」という夢物語で何百発ものノドン攻撃を受けて壊滅状態になってから攻撃に転ずると言うのか。
それがどれほど非現実的で日本国家に重大な損害を与え 、日本国民を害するのか、考えて見ればすぐ判ることだ。事の重大さを軽視しすぎている。
目を覚まして、この無法国家の無法に対して如何にするのが現実的に日本を守ることになるのか、考えて見るが言い。相手が国際的に名うての無法国家で東京を火の海にしてやると公言してはばからない輩の集団であることを認識して、決して侮ってはならない。

既にノドンが日本に向けて発射できるように配備されているという現状を踏まえて対処するのが現実的常識であり、それが日本を守る唯一の方法である事をしっかり理解しておく必要がある。日米安保に頼るのは次の段階の話である。我が祖国は第一義的には我々の手で防衛しなくては。




宿泊所

2009年05月26日 | Weblog
宿泊所

バックパッカーは、たいていはドミトリーに宿泊する。1部屋に何人もの人間が一緒に寝るのである、

いびきをかくものやら、寝言を言うものやら、傍若無人に、大きな音を立てて、屁をぶっぱなすものやら。やっている本人は気づかないかもしれないが、睡眠が浅く、一人寝が習慣となっていて眠るのはいつも一人静かに眠る習慣がついているので、一旦目を覚ますと再び眠ることがなかなかできない。

ドミトリーは僕にとって安眠できる場所ではない。だから多くは食費を削ってでも、一人部屋かツインをひとりで借りきって、安眠場所にしている。

ところで、都会ではよく見かけるが、道路端で、段ボールを敷いて安眠している人がいる。人が通る。車が通る。騒音やライトが、安眠の生涯にならないのだろうか。うらやましい。

解放

解放とは何から自由になることか
1,歴史の束縛を受けない
2,思想に縛られない
3,因習や習俗に拘束されない
4,旧道徳を漫然と受け継ぐ様なことはしない

へッドライト

2009年05月25日 | Weblog
            へッドライト

こんにち、車に乗っていてスピード違反を一度も経験した事ガないという人はまず、いないだろう
運わるく、スピード違反取締りの警官につかまったか、いないか、は別にして、車の流れに沿って走るなら最高速度制限時速40Kmでは.もたもたしていて、とても走れたものではない。

誰が車の流れを作るのかわからないが.4OKmの速度制限を無視した形で、一群の車は流れている。夜間か昼間か、空いているか混んでいるか、色いろな道路状況にもよるが、まぁ普通50Kmから60Km ぐらいで 走っているようである。
これはスピード制限をうわまわっていることは事実である。しかしこれが自然な車の流れみたいである。

猿が高い所へ登りたがるのと同様に人間は、出来るだけ早いスピードを出したがる本能みたいなものを持っているらしい。事実、直線道路で前方が空いていると、いつの間にか50Kmをオ一バーしているがこれ人間の習性ではなかろうか。

しかし諸般の事情を加味してスピード制限を科学的に割り出してみると、安全速度、4OKmということになるのだろう。この科学的数字として表示される速度と、人間の本能もしくは習性によって来るところの速度、あるいはそのときの道路状況の判断による速度との食い違いは、時々ネズミ捕リという不人気な方法でもってしても是正する必要があるのだろう。

 対向車がさかんにライトを点滅させてこちら側に何かサインを送ってくれているのに気がついた。  
ハッとしてブレーキを踏みスピードをおとし制限速度内の40Kmすれすれにした。
どこに警官がひそんでいるのか、見渡したが姿は見えない。だが、道路の端の方に細いコードが這っていたから、恐ら合図を受けたあたりだったんだろう。スピードを落した地点あたりが、見張りの警官が居たところに違いない。
 
やられた、と思ったが、パトカーや机を並べて十人ちかくの警官のいる前を呼びとめられることなく通過出来た。

見れば、3、4人が机の上の書類にむかって不気嫌な顔をして何かを記入していた。 いずれ五千円以上の金を指定金融機関に支払いに行くことになろう。法治国家において、自分が法律違反をして罰金を払うのは当然だが、腹の中はもっていき場のない悔しさや腹立たしさで一杯だろう。と、思った途端、ライト点滅によって事前にネズミ捕りを教へてくれた行きずりの対向車の運転をしていた人の親切心に感謝の気持ガわいてきた。

御礼の言いようもないから.私はこの感謝の気持を対向車線で.ネズミ捕りを発見した時は必ずライトを点滅させてサインを送ろうと思った。警官を向うにまわして取り締まられる立場にある市民が協力して.ネズミにならないようにする、これ、生活の知恵とでも言うべきか。

それにしても全く不特定の市民が協同して警察の網にひっかからないようにすることは.共同戦線をはったというよりはそこに何か人間らしい温かさのある連帯感を感じるのは、恐らく私一人だけじぁあるまい。
法を守る精神を持つのは、市民として当然の事ではあるが、法に縛られて身動きが出来ない、つまり人間の自然の情までも法によってガんじガらめに縛りつけるのは如何なものだろうか。

他人に重大な影響を及ぼさない範囲で.順法精神を忘れずに、ある程度の弾力性を持たせて法を理解するのが市民生活の知恵ではないだろうか。 
 
少なくとも私はこう考えて生活している。赤信号みんなで渡れば怖くない、というのではない。私の場合は赤信号を見ると安全性を必ず確認して危険がないと確信が持てたときしか赤信号を渡らない。

                


                    


ほんの小さな幸せ

2009年05月23日 | Weblog
ほんの小さな幸せ

幸せとは何だろう。人は誰でも、なれるものなら幸せになりたいと願う。
ところが、われわれは幸せの中身をよく考えたり、吟味したりすることなく、幸福を求めているように、僕には思える。

何が幸福か分からないから、幸福をつかむということは闇夜の中で、道に落とした10円硬貨をさがすようなものである。

現在の手中にしている幸福を無知なるが故に、気付かなかったり、それを自ら放棄してみたりして、だいぶたってから、その幸福の状況条件が、崩れ去ってはじめて、アレが幸福というものなのか。と気づくことのなんと多いことよ。

40代にさしかかると、僕は急に体のガタに気がついた。自然を相手にしていた昔の生活とは違って、今は机の上で字を書いて1日を過ごしている。脚を使うことはほとんどない。そのためだろう。まず脚にきた。両足が、共にガタガタになった感じがするので、何かいい対策はないものかと書物で、解答欄を調べてみると、歩くことが1番と書いてある。

理想的には1日1万歩。歩けと書いてあるから、片道5km位の所なら歩いて往復せよ。ということになるのだが、不幸に職場までは片道10kmよりちょっとあるので、自転車で通勤して運動不足、特に足腰の運動不足を補うように思って、雨の日を除いて、自転車通勤を試みている。

普通にペダルをこいで約40分の道のりだが、途中、ウォークマンでカラオケを聞き、それに合わせ、歌を歌いながら通勤する。時候の悪い時や強い逆風が吹いたりして、天候の悪い時はとても鼻歌どころの騒ぎではないが、幸いにも、「シラカバ朝霧、水車小屋」と歌える日が多い。

急いでペダルをこげば、息切れがして、歌などとても歌えないが、余裕をもって程良いスピードで走れば、結構運動にもなるし、ストレスの解消にもなる。
鈴なりの満員電車の通勤客をみたり、車が渋滞してイライラしている人たちを見ると、ざまーみろと言いたいくらい。こちらはマイペースで快適である。

今流行の色めがねもかける。これは走行中に虫が飛び込んできたりしないためのものだが、40男のおしゃれ心も、ちょっぴり満たしてくれる。

頭には鳥打ち帽子をかぶるが、これは雨が降ってカッパを着たときに、フードが頭に密着しないためのものである。

しかし、鳥打ち帽をかぶって通勤する姿など見かけることがほとんどないから、やはりこれも、目立ちたがり屋の心理をほんのちょっぴり満たしてくれるものである。

あとはサフアリジャケットにジーパン、ジャケットは筆記用具とウォークマンを入れるためのものであるし、ジーパンをはかないとすぐ尻のところが破れて穴があくからである。

サラリーマンのYシャツ、ネクタイ、背広という一般概念から程遠いようなスタイルで一石3鳥を実行している。今日は帰りは、「北酒場」でもうなろうか。これが僕のささやかな幸福である。

千日回峰

2009年05月22日 | Weblog
千日回峰

比叡山で行われる荒行で、最難関は堂入りといって、お堂に籠り、不眠不休で不動真言を唱えることらしい

食べない、飲まない、寝ない、横にならない、ないないづくしで9日間、普通の人間生活を遮断する行だ。

娑婆で不平を鳴らしながら生きているわれわれ凡俗から見ると、これはご苦労以外の何物でもない。だから不眠不休の行をする人には驚異の目を見張り、アジャリ様生き仏様、お不動様の生き仏と仰ぐのも無理はない。俗界とは違った次元の世界を往還した人だから。


富山の先生もそうである。修行はもう長い。「立山に上れ」という声が聞こえると、何があろうと立山に登らなくてはならない。とても出来ないと拒否すると、体の自由がきかなくなって、その苦しみたるや、立山に登るしんどさの何倍というものであるそうな。凡俗には経験の出来ないことであるから、唯体験話を聞くだけである。この人も俗界とは違った次元の世界を往還した人だ。


星野師は13日午後から、食事や水を断ち、不眠不休で不動真言を10万回唱え続けた。21日午前2時56分、星野師が両脇を支えられ、堂内からゆっくりとした足どりで姿を現すと、待ちわびた約600人の信者らは、手を合わせて真言を唱和した。

 「堂入り」は、千日回峰700日終了後の行で、最難関の苦行とされる。満行した行者は生身の不動明王とされ、「当行満阿闍梨(とうぎょうまんあじゃり)」と称される。

天台宗総本山延暦寺大乗院の星野圓道住職(32)が13日、過酷な荒行で知られる「千日回峰行」でも最大の難関の「堂入り」を始めた。大津市の比叡山・無動寺谷の明王堂に9日間こもり、水と食事を断って、眠ることも横たわることも許されない中で不動明王の真言を10万回唱え続ける。堂入りした行者は6年ぶりで、戦後12人目。
 千日回峰行は天台僧の相応和尚(831~918)が創始。深夜から明け方にかけて比叡山中の堂塔などを巡拝し、1000日間で地球1周にあたる4万キロを歩く。中でも堂入りは行の700日目に始める荒行だ。
 
この日の星野師は浄衣(じょうえ)と呼ばれる白装束姿。堂入り前最後の食事となる「斎食(さいじき)」の後、半田孝淳座主や先に満行した阿闍梨(あじゃり)ら約60人に先導され、無言のまま明王堂に入った。堂の前では信者約300人が一心に手を合わせ、命がけの荒行に臨む星野師を見送った。

 21日未明にも満行の予定。満行後は「当行満(とうぎょうまん)阿闍梨」となり、不動明王の化身として信仰の対象となる。星野師は75年、東京都生まれ。03年に千日回峰行に入った。【武井澄人記】

比叡山の荒行「千日回峰」のうち、山中の明王堂(みょうおうどう)(大津市)に9日間籠(こ)もる「堂入り」に挑んでいた延暦寺大乗院住職、星野圓道(えんどう)師(32)が21日未明、満行した。

 達成は6年ぶり、戦後12人目。


ミッテランの言葉

2009年05月21日 | Weblog
        ミッテランの言葉

{卓越した学者や知識人は科学を通じて信仰をもった。それ以外の人達は逆に、科学が信仰を遠ざけた。} ミッテラン

 

人生の目標は人さまざまですが、私はかけがえのない、たった一度の人生でどの程度の事が分かればよいのか、達すればよいのか、また味わえればよいのか、自分が決めることではありますが、いろいろ思い悩んで来ました。
 そして、この世には人知を越えた何物かがある、すなわち私たちが身をおいている人間のこの現実世界が霊界と現実界とによって構成されていて、それがお互いに影響を及ぼしあっていると言うのが、正しい見方ではないかと思うようになりました。
  しかもこんな見方をする背後には、己の限界を思い知らされるというぎりぎりの所まで何かをした、あるいは追い詰められたという経験や実感があって初めて出来るものではないでしょうか。つまりある程度のレベル迄達していないと解らない世界だと思っています。
  そういう経験や実感がない人にはこういう世界観は理解出来ないと同時に存在さえしな い世界だ思います。人知を越えた世界は見えない、それゆえ存在しないという物の見方しか出来ないということです。
この見方が間違っているのかどうか私には分かりませんが、真面目に人生を考え、味わいながら生きて来た人ならば、恐らく避けて通れなく、どこかで、またいつか突き当たった問題であると思います。 それを自分では如何に考えたか、如何に自分なりに解決したかどうかと言うことになろうかと思います
幸い私には人生の良き師匠といだく人との巡り合わせがあり、師匠の姿、生きざまを冷静に見つめて来たのが、こういうことを考える上で非常に役に立ちました。人生上の多くの示唆を得たのです。それが他律的に私をこのような人生について考えるチャンスを与えてくれたことにもなりましたし、一方その影響で自ら進んで、つまり自立的に人生について考えるようになったのかも知れません。若いときからそうでしたが、ずっとそれを引きずって今日に至ってお・ 蒻ます。
 解けない永遠の謎を息が途絶えるまで説き明かそうともがき続けることになりましょうや。そしてそれはそれでよいと思うと同時に、こういう考え方や問題意識を持てることに喜びを感じております。
 とにかく人は己(己の限界)というもの、を知るべきです。それがすべてのはじまり出発点です。
  先述のミッテランの言葉にしても、己を知らない人にはミッテランが何を言わんとしているか、決して満足な理解は出来ないでしょう。恐らくすこしも理解出来ないだろうと思います。
 私はミッテランは左翼思想の持ち主だとばかり思っていたからこのフレーズを知ったとき意外な感じがしていました。しかし考えてみると左翼だとか右翼だとかで理解出来る事柄ではありません。己の限界を越えようとして自分なりの究極迄行った人にしか、解らない世界だから、思想には直接的には関係がありません。何かを通して、例・ 遖ば芸術や学問や政治や会社経営、あるいは大勢を率いる集団のリーダーなど、何でもよいのですが、その道を極めた人にしか、かいま見ることの出来ない世界なのです。そして私の実感ではそれはいつもはっきりと見えて居る世界ではなく、見えたり見えなかったりする世界だとも思います。
仏の教えにある八正道の一つ、正見とはこういうことをさして言っているのではないでしょうか。
  自分がこの世に存在する謎を説き明かす事なく、無明の闇をさまよう身であればなおのこと見えにくい世界ではあると考えています。
 どうも駄弁を弄するようになってしまったきらいがありますが、絶えて久しくこういう話が出来る人が少なく、腹を割って話をすることはありませんでした。
 そこで今日ばかりは思いの丈を率直にぶっつけて見ました。いかがでしょうが。私個人のドグマでしょうか。一つ率直なご意見を伺いたいものです。

東条メモを読んで

2009年05月20日 | Weblog
東条メモを読んで

東条メモが朝日新聞夕刊2008年8月12日に掲載された。全体を読んだ感想は、この程度の人物に日本の国家の運命を託したのは間違いだったと言う思いが強い。
第一哲学がなさ過ぎる。もし彼の中にあるとすれば、それはフアナチックな偏狭哲学という他はない。多くの人間の生死が直接関係してくる戦争という殺し合いを軍部が国民を恨むから、とか国体の護持とか、。この東条なる人物は原爆を投下されて多くの死傷者が出ている最中に、まだこういう認識だ。

こういう輩に国の運命や国民の命を託したなんて不幸の最たるものではないか。軍人でも山本五十六のような現実を読み切れた人物もいれば、国民の財産や生命を預かるという観点からすると、狂人にも等しいお粗末な哲学しか持っていない偏狭で自己主張の強い人物は自分の世界でこそ生きリャいいのであって、多くの人々の生死に関わるような重大な場面に出てくるべきではない。

それが判ってないところに悲劇の原因がある。それは責任感のなさに直結する。責任を取って自殺する。そんな程度の軽い責任感で、どうして300万人と言われる戦争犠牲者の霊が弔えるか。

開戦前に犠牲者数の計算予測はしたのか。イケイケどんどんで突っ走ったというならバカとしか言いようがない。己の采配の下には、外国の犠牲者数も含んで数千万人の命があるという重みの計算は出来ていたのか。

とかく軍人というのは教条主義者が多いが、それは戦争の現場でのみ、通じる話で国を治めると言う観点の哲学が脱落している場合が多い。国民の命を守るという観点は全く見いだせない。

新聞から引用して本稿を締めくくろう。

無条件降伏すれば「国民が軍部をのろう」とし天皇制を中心とした「国体護持」がうけいれられないなら「敢然と戦うべき」と戦争の継続を昭和天皇に訴えた様子がうかがえる。

宴の後

2009年05月18日 | Weblog
         宴の後

他の銀行よりは金利が高かった。そのためかそこらのおばちゃんがよく出入りしていた。にぎわった店だった。

ところが今日支店の前を車で走ったら、シャッターが降りたままで、横の空き地にはぺんぺん草が生えて空しいというのか、はかないというのか、寂しさが漂っていた。
にぎわいの落差がおおきいだけに寂れようはうらびれもはなはだしい。
今振り返ってみると一夜の夢と言うべきか。人生万般かくの如しか。

金余り現象が分かったのは専門家、玄人のはなしで日本の経済がどっち向こうが一向にかまわない庶民にはバブルが始まったころにはバブルのバの字も分からなかった。そして庶民はその程度で良かったのである。

というのはどっちに転んでも物の値段はあれよあれよと毎日のように上がり、日本列島は株も土地も絵画もとにかく1億総投機家になり金もうけに奔走したのである。土地が値上がりし、株が値上がりし、おうよそ資産と名のつくものはそろって値上がりしたし値上がり曲線は右肩上がりだったから、よほどの玄人でない限り皆このカーブの延長線上で経済を考え、わが家の財産価値が増えるのを喜んでいた。

そしてバブルが弾ける前に投機を畳んだ者は確実にもうけてうまく逃げた。1部ではあるがそんな目先の利いた奴らや、運の良い奴はうまくおいしいところだけをつまみぐいして逃げ切った。

後は日本国民が全員金持ちになって何が悪いまじめに思い、バブルとは知らないで最後まで付き合った連中がそろってババくじを引いた。もちろん専門家の間でもタイムラグのため大きな痛手を被ったところが銀行を中心に続出した。


最終は金が戻って行くところ、銀行が不良債権をしこたま抱えることになった。経営者の乱脈経営によって、あるいは不正な経営によって、庶民相手の体力のない信用金庫がまず倒れた。今から考えるとこんな経済状態がいつまでも続くはずがないのだが、バブルの最中にはバブルが弾けるなんて丸で気がつかなかったのだ。

国民全体がうなりをあげてバブルの中に飛び込んで行った。それはあたかも華やかな宴であった。 素人は日本経済の順調な発展成長としか考えなかった。今から考えると皆よくぼけだった。こうなってみて初めて金が人を支配する力の大きさは想像以上のものであることが分かる。


急激な右肩上がりの経済環境のなかで、何をやってももうかるとなれば事業を拡大するのは当然でその渦中にいては先の判断などでできない。それを求めたら求め過ぎというものだ。

まじめな男だと定評があった男の地位と金が人生を狂わせた。よもやこの年になって手錠をかけられる羽目になるとはだれが想像したであろうか。

ある信用金庫の話である。

羅漢さん

2009年05月17日 | Weblog

                                                    華亭寺

 

昆明市の西の外れにある西山公園の近くに華亭寺がある。お堂の中には五百羅漢があった。五百体あっても同じ顔は一つとしてない。僕は同じ顔をさがすのをやめて、自分はどんな羅漢になりたいのかを考えた。ほほえんでいる者もあれば、憂いに沈んでいる者もある。哀しみを満面に浮かべている者もあれば、若さと希望に燃えているような顔つきのものもある。悟った顔もあれば、娑婆で大活躍しそうな顔もある。 色々迷ったが、何事が起きようとも、やはり若さと希望に満ちたあの顔にしよう。僕はその羅漢さんにお経を唱えておいた。


実感したこと

2009年05月16日 | Weblog
実感したこと

今回の中国旅行で思ったことは、なによりも豊かな心を持つことの大切さだった。

お金や地位の大切なことは言うまでもないことだが、それらでカバーし切れないものがある。

心が通い合い、お互いに、信頼と信用で結びついた人間関係の上に立つものは、金や地位を遥かに凌駕して、国籍や人種の違いは一気に、跳び超えることのことができる。

やはり孔子がとく大同の精神が、永久不変であるように、自分には思えた。どこへ行こうが、何をしようが、つねに、大同の精神を忘れずに心がけよう。

それが異国の人々と気持ちよく付き合う基本的なマナーだと確信した。

やはり中国の聖人の教えは、いつになっても、どんな所でも、時間空間を越えて、通用するものであり、これに勝るものはないと、つくづく身にしみて感じた次第。

ムンバイの乞食

2009年05月15日 | Weblog

                          テロ事件のあったタージ・グランド・パレス

 

 

その時僕は必死になって列車に遅れないようにインド人のバスガイドと打ち合わせをしていた。インドでは僕ら日本人が立ち止まると何処からともなく乞食が周りに集まってくる。その中の一人。西洋中世の魔法使いみたいな格好をした老婆の乞食がうるさく僕につきまとった。お恵みを受けなければ今日の食事にもありつけないという事情でもあるのだろうか。 片方の目は白濁していた。長いマントのようなぼろを身にまとい彼女はしつこく手を出した。僕は自分のことで精いっぱいで乞食の相手する余裕はない。無視したが執拗に手を出して物乞いをする。ただでさえ気が立っていらいらしているところに、こんな邪魔が入って僕は切れて爆発した。乞食はそれでも何事もなかったような顔をして、食いついてくる。もう逃げる他はなかった。  夜行バスに乗ってから僕はあの乞食のことを考えた。こちらが余裕のある時ならまだしも、顔をひきつらせて、ばたばたしているときによくもまあ物乞いが出来たものだと感心した。僕は今乗っているこのバスに間に合うかどうかが大問題で、これに間に合わないと、ボンベイで1泊する羽目になる。それがいやだから38時間も掛けてカルカッタからここまでやってきたのに、そして今そのバスに間に合うか、合わないかの瀬戸際なのに。 よりによって、どうして僕につきまとうのか。もらえるか、もらえないかは与える人の自由である。与えてくれそうな雰囲気を作らないともらえないことは自明の理だ。だのにどうしてあんなにしつこくつきまとうのか、僕はあきれてものがいえなかった。 アウランガバードでこの話をしたら、僕以上に乞食はもらうことに一生懸命だったんだよと誰かが言ったが、その通りだ、と僕は思った。そうだ。乞食も今日生きる事に精いっぱいなんで、人の事情を斟酌する余裕はなかったのかも知れない。だけどいくら一生懸命になっても、それでルピーにありつけるわけではない。やはり考えて行動すべきだ。其れが僕の結論だった。