日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

芸術作品制作に没頭

2008年09月27日 | Weblog
飢えている人を見ると、芸術とはなんぞやと考え込んでしまう。これにかかる費用で飢えたる人を一人でも救えたらそれは芸術以上の値打ちの有ることではないかとは思うが、芸術作品ははその場で人を救わなくても幾時代にもわたって人を慰め励まし、勇気つける事がある。芸術作品はそのような力を持つ。とはいえ、飢えている人を前にして、僕は芸術作品制作に没頭することは出来ない。


捨身飼虎の図 

2008年09月27日 | Weblog
捨身飼虎の図 
我が身を虎に与えたら虎は生き延びるという保証が有ったのか。もし保証が無ければ捨身のいみは無いじゃないか。僕の考えそうなことである。
だが余計なことを考える必要はない。お釈迦様が無用な事をなさるわけがない。黙って捨身すれば良い。結果の当否は神に委ねるとして。

9月30日午前9時半頃

2008年09月25日 | Weblog
9月30日午前9時半頃からKBSラジオ京都から放送します。編曲はママサンコーラス用だけど、ギターでフオーク調で歌うのも面白いでしょう。当日は私も出演して作曲の由来など解説します。良かったら聞いて下さい

滋賀のさざ波

1,匂いもやさしい ふるさとの
  滋賀のさざ波  漕ぎ行けば
  瀬田の唐橋   懐かしく
  ああ  琵琶湖の 水の青さよ


 風のハミング  聞こえますか
 青春(ハル)の歌声 聞こえますか
 ミミを済ませば聞こえてくる
 なつかしいふるさとの唄


2,皇子山の   いただきに
ささやく風を  訪ねゆけば
あの日の姿   そのままに
ああ 思い出す あなたの面影

あの人の唄 聞こえますか
愛の歌声  きこえますか
  後振り向けば かけてくる
  優しいふるさとの人

3,堅田の里の  浮き御堂
  鈴を鳴らして 手を合わせ
幸多かれと  祈れば
ああ  浮かび来る  観音浄土

三井寺(テラ)の鐘の音 聞こえますか
幸の歌声    聞こえますか
目を閉じれば  胸に浮かぶ
美しい     大津の街
なつかしい   ふるさとの街

平成時代

2008年09月25日 | Weblog
平成時代、

昭和64年1月8日、は平成元年1月8日である。昭和に変わって平成が誕生した。率直に言って、平安とか平城とか、に結びついて古くさいイメージがある。これもまた古い中国の叡智の結集である。書経とか史記からとられたらしい。

出典が中国のページというところが嬉しい。日本と中国は暗黙の中につながっている。日本文化の根元に、中国文化が大河のように流れているからだ。

元号がいかに変わろうとも、日本の出発点は1945年8月15日である。それが歴史を語る上で最もふさわしい出発点である。明治よりもさらにさかのぼって、日本人が、形成してきた価値観を一変させ、人権が憲法の原理に明確な形で位置づけられて以後の価値判断に大きな役割を果たすようになったからである。

韓国で起きた話

2008年09月24日 | Weblog
韓国で起きた話

もうだいぶ前の話だが、生活苦の家庭の子供が、気をきかせて、服属自殺を図ったというニュースが新聞に載った。(1989)


自殺を図ったのは、5人姉弟のうち、女4人で、弟一人を残し、あとの女は皆、自殺することによって、家計を救うというのである。その心根が、哀れで、なんともやりきれないものがある。

男を跡継ぎにして、女は不要であるという考えには儒教の思想が入り込んでいるのかもしれないが、基本的人権から、男女なんら命の貴さは変わりがない。そこが哀れである。

次に自分たちの死をかけて、家を守ろうとする姿勢である。今日の日本では、やはり受け入れられないだろうか。100年前には、わが国でも、美談になった出来事である。

韓国のマスコミは、国民の5%はこういう状態だと報じ、これがドラマでないことを強調した。

神様

2008年09月24日 | Weblog
私をこの世、現世に送りだされた神様。どうか次のことをお守り下さい。

1、手足が不自由に、なりません。ように、

2、頭がぼけないように

3,目がいつまでも見えるように、

4,あなたが、私を人間として、この世に、送りだされた時に、私が持っていたすべての機能が完全に、うまく働くように、

満たされない心

2008年09月23日 | Weblog
満たされない心

現代の経済システムは、ものと心のバランスが、崩れやすい。マスプロ、マス消費

は生活を豊かにはしたが、物欲の肥大化を伴い、心がやせ細ってしまうような結果を生んだ。

金さえあれば、、、、という考えが、「人間らしく生きる。」ことよりは優先し、ものを追いかけ、高度成長を求めて、「現代」を実現してみた。

ものに関しては、社会も個人も豊かになったが、それに比べて幸せ感がなく、心の渇きを感じるのはなぜだろうか。

一体、心の渇きをいやすなどというものは、幼稚園や小学生などには問題にならないことである。

それを問題にするのは、人生というものが、ある程度、わかった人が感じることであるから、やはり人生の後半部分を迎えて突き当たる問題ではなかろうか。

もしこれが、人々の通るお決まりの人生行路である時点だと言うのなら、最も効果的に遍路するのは、タイミングというものがあってしかるべきだ。

私の人生経験からすると、第1戦を退いて、己の人生をある程度のメドがつく、定年前後のすなわち60歳くらいから、遍路するのがよい。

この年代ではまだ体力に余力があり、また今までと違った観点から、己を見つめることができるからである。

観光旅行と言うのは、体を休め、気分転換をする。美しい景色 ゴージャスな調度品や雰囲気 、ゼイタクともいえる見た目に、美しくおいしい食事を求めての旅

それに比べて遍路旅は、目標は、寺寺をめぐり歩くことであり、遍路する88の寺寺は必ずしも、平地ばかりではなく、山あり谷ありの自然の姿の野山をめぐり歩き、それを通して己の人生に、何か得る。特に満たされない心や人生のもろもろの疑問や未知の問題に、取り組もうとする旅である。

おうす

2008年09月22日 | Weblog
       おうす

 緋もうせんの上に、透き通るほど、白い指が、ハの字を作っている。
黒髪は、芳香を放ちながら、畳まで垂れ下がるみたい。いやこの美しさはまるで、芸術作品だ。早春、障子を通して見えるなごり雪に、目を向けているふりはしているものの、さきほどから座っているこの茶室に漂っている眺めの良い雰囲気に、私は浸りきっていた。
 由緒ある茶道の本家であってみれば、おそらくこの器も高価なものに違いない。器の底に泡立っている浅緑の美しさと、漂ってくるおうすの香が解け合って、私はしばし夢幻の世界へ誘われた。
ベージュいろにかがやく器、緋もうせんの深紅、 おうすの緑、白い指 華やかな和服の柄の色、戸障子をすかして見える白い綿帽子をかぶった雪が見えるセンザイ(前栽 )。
喧噪な日常生活から隔絶されて、ここは別世界を作っている。


 私はさきほど出されたおうすの飲み方の作法を知らないで、 もじもじしている。しかし、腹の底では開き直っているから、いざとなったら、ぐい飲みするだけである。
難しい作法を知らないから、そう思うのであろうが、器の値打ちも全く分からないから、気が楽といえば、言えなくもないが、頭に霜をいただく年頃であってみれば、それ相応のカッコだけは付けたいものである。

なんだか崖っぷちにたたされたような気分がしないわけではない。心の中では何がしかの、ためらいがあったが、私は目の前にあるおうすを、ぐっとひとくち口に含んだ。
 
そしたらモロモロが舌にさわた。それはかなり大きいもので、一気に飲み込んでしまうことはとうていできない代物である。小さければ舌触りを我慢してぐっと飲み込んで、知らん顔をするのだが、塊があまりにも大きすぎて、そのまま。飲み込みはできないので、舌に丸めて、飲むようなふりをして、茶碗を口元まで持っていき、舌に丸めて吐き出した。

固形物は底にたまった茶の中に姿を消したが、あのぶんだとそれはおそらく溶けてしまうことは無かろう。

 なぜこんなことが起きたのだろう。私はその原因はおそらく粉茶を良くかき混ぜてないで、手短にしゃか、しゃかとやって客に出したために客はあわくって、座り机をはさんで対座する女主人の目を盗んで、こんな芸当をしなくてはならない羽目になったのだと思う。

私は別におうすに興味があってここまでやってきたのではないのに、マンが悪いことに、当家としては最高のもてなしをしたつもりだが、逆に客が目を白黒させながら気を使わなければならないい結果を生むことになったのだ。

おそらくこの白い指の持ち主は、こんなことが起きて客が困惑しているとは夢にも知らないだろう。自分のたてたおうすの中にかたまりが溶けないでそのまま残っている塊のために客が困惑しているなんて想像すらしてないに違いない。それだけに、私は誰にもこのことを知られたくはなかった。もし、茶の湯に溶けていない、パチンコ玉くらいの大きさの粉茶の塊が目の前にいる。女主人の目についたならばどうなるだろう。またこの美しい娘さんがこの傍らにいて気がついたらどうなるだろう。
 家の風格からして、きっとこの家の女主人も娘さんに小言を言うのが目に見えている。娘さんは自分のした粗相に恥ずかしい思いをするだろう。私としてはこの美しい娘さんが茶の湯の師匠から叱られるのを見るには忍びない。私の心にえもいえぬほのぼのとしたある種のムードを醸し出してくれるこの娘さんが傷つくのは何としても嫌なことで避けたいことである。

好意で出してくれたおうすの中に、塊があったというだけのことなのである。茶道にも華道にもにも全く無縁の私だが、善意の人の行為に対しては、どこまでも感謝していくのが、礼儀であり、エチケットだと思う。緋もうせんの上に並んだ若鮎のような指のこの娘さんに心がときめいて、私は先ほどから熱っぽいまなざしで見つめていたのだから。この娘さんに恥をかかせるようなことは、したくはなかった。そうしないと自分が傷つくと思ったから。そして、ついぞおうすはうつわのそこが見える事にはならなかった。
 
客が去って後片付けをしたときにあの塊を娘さんが発見したとしたら、果たして私のとった気配りの行動を理解してくれるだろうか。しかし私は後がどうであろうと、それに頓着する前に、おうすをいただく作法の難しさよりも、なにげなく過ごしている日常生活の中に、考えれば難しい問題が隠されていることを知って、人生の複雑さや奥の深さを知ってため息をついた。  





孤影

2008年09月21日 | Weblog
人生を共有する事が出来たら素晴らしいことだ。これが実現できたら、人生につきまとう孤独の影は消え失せる。

時々刻々、移り変わる人の思い、感情の流れというものは、その人にしかわからない。

私にしかわからない思い、それを共有できる人がいたら、私の孤独は大部分癒される。

共有できる人とは一体誰か。

共通体験者 恋人 妻子 友人などが考えられるが、果たして心の底から、人生を

共有できる人はいるのか。共有者を見つけない限り、心は、孤独の中に閉じ込められる。

総合の意思疎通は十分できている。お互いに反発したり、論争するような状況は少しもない。加えて、生活の不安も緊張もない。なのに、

私の心に孤独の風が吹く。それは、いつでも、どこでもつきまとう影の一部。

だから私はもう、それを愛しはじめてすらいる。

癒やそう 消そうなんて思わない。虚しいだけだからである。

影を消すことができないのと同様に、孤独の寂しさを消すことは不可能だから、

いちばん心の底から暖まる、家庭においてすら孤独。心の孤影を消せないで、

一体 どこにそんな場所を求められるのか。、、、、ない。どこにもない。

あの教員制採用は

2008年09月21日 | Weblog
大分県教育委員会のあの教員制採用は、表向きだれもが認めない。それは不正だからである

あるべき姿の建前と、あって欲しい姿の本音とは、本質的に相受け入れない部分がある。
入試においては、人は誰でも情実を排除する。
高得点者から、順番に合格させる。これが最もみんなを納得させる合理性を持っている。
しかし一方で、受験生には、親がいる。親は本能的に、採用されたいと願う。よしんば、それが悪いことだと分かっていても、成績が達しないときは、金を積んででも、裏口採用を考える。

日頃は裏口入学をなり悪いことだと、明言できる人でも、親ばか(子供を対する低い次元の本能)に負けて、自ら不正だと思うことを敢えてやる。悲しいことだ。

親の心情を思うとき、これを親ばかの一言で片付けられない。世の中にはこのたぐいのものがたくさんあるからだ

世の中はほんの少し濁っていた方が住みやすそうだ。
それによって不公平が、起きたとしても、建前一本槍で割り切るよりも、居心地がよさそうだ。一方ではそんな考えも、浮かんでくる。さて、どうだろう。

アプローチの仕方には2通りある

2008年09月21日 | Weblog
アプローチの仕方には2通りある。
真実に、迫る場合のアプローチ

一つは知的アプローチ。論理によって迫る場合

もう一つは、情的感覚的アプローチ。直感によって本質を見抜き真実や真理に、アプローチする。

名詩と言われるものには、情的アプローチによって、本質をえぐり出し、真実に直通するものが多い。

霊魂について考える8-36

2008年09月20日 | Weblog
霊魂について考える


先便で靖国の事を取り上げたが、日本人の大多数が仏教徒であるにもかかわらず、神を祀る靖国神社に神として祀られるという奇妙な現象を通して、神とか仏とかについてちょっと自分の想いを書いてみたのですが、いかがでしたでしょうか。

今回は神だ仏だという前に、人間存在とは一体どういうものなのか考えてみたいと思います。

人間は肉体と精神から成り立っています。肉体の一部である脳の働きで肉体の働きが決まります。例えば物を見ると言うことを例に取って考えてみましょう。

目の前にある物体が網膜に移り、それが視神経によって脳のある部署に伝えられます。そうすると脳の働きで、その物体が認知され、それが何かが分ります。

このようにして、現代の脳医学では、脳の働きやどの部署が何を、どこの部分を司っているかということはほぼ解明されたと聞いています。

しかし脳の総体をコントロールする何かがあるということで、脳の働きは解明されてはいるものの、コントローラーは何なのか、未だに解明されてはいないようです。
何かある。しかしそれが何であるか分らない。

私たちが日常語として使っている、霊とか魂とか呼ばれている部分がこの部分に当たるのではないでしょうか。このことについて私は次のようなことを、調べて自分なりに考えたことがあるのです。
 伊藤正雄 東大教授(脳医学者)と立花隆の臨死体験についての対談を聞いていると
脳の各部署の働きはほぼ解明されているが、脳の作用を統括する部分の存在が解明されていない。何かあるのだが、それが何か未だに分らない。我々が常識的に魂と呼んでいる部分であるが、その存在が科学的に証明あるいはそれが解明されていない。世界的な脳医学の権威、ペンフイールドは生前、脳がすべてだと主張していたが、死ぬときにはそれを否定して、自分の学説を否定し訂正した。つまり脳の死滅が人間の全存在の消滅ということにはならない。そこには何かがあると彼は言う。だから彼は彼の脳に関する学説を自ら否定したのだ。

魂の存在について
結論的に言えば、その存在は現段階では、信じるか信じないかによって決まるようだ。
ヒトは肉体と精神から成り立っているが、精神のはたらきは脳という肉体と直結している。 従って肉体の死滅は脳の死滅であり、魂など存在しないと結論付けるのが現代の常識みたいであるが、ここで問題なのは、脳を統括して命令を下すものが存在するということである。

脳の死滅は脳を統括、命令するものの死を意味するか、消滅を意味するか。
現代の脳科学ではそこまで解明されていない。だから魂とか霊(脳の働きを統括し命令を下す)の存在は少なくとも科学的には否定できないのである。かといって存在の証明も出来ていないのが現実であるが。

一方ヒトは日常生活のいろいろな場面で、魂や霊(と呼べるもの)を実感することがある。
生涯において超常識的なことは幾たびか経験して、肉体や精神の働きをこえたものがあることを経験実感するものである。

それを中身はともかくも言葉で言えば霊とか魂と呼んでいる。詰まり超常現象においては霊や魂の存在を感じるのである。只それを信じるか信じないかは別の話ではあるが、得体の知れない何物かがある事は感じている。

現代医学で身体と脳の働きがほぼ解されてはいるが、依然として脳をコントロールするものの問題は残る。ひょっとするとその存在は実感できても、その存在の解明は永遠に出来ない物であるかもしれない。








ワット・プノン

2008年09月19日 | Weblog
     ワット・プノン
 
 

 昨日、単車で市内を回ったから、めぼしい物 がどこに有るか、
あらかた見当をつけておいた。
雨期の湿気で湯船に入ったような街を、地図を片手にマイペースであちこち、ここプノンペン市内を歩きまわった。
 ワットプノンはアチャミン通りを北上して、駅の北側の道を右、つまり東側に曲がり、それを少し北に行った所に有った。
 小乗仏教のにおいのするお寺で、タイのそれとよく似ていた。
サップ川から近く、小高い丘の上にたつこの御堂は、石段を作り、そこを上るようにはしてあるが、下からみると、自然の盛り土の上に、ちょこんと建っている風情で、どこからでも上れる感じがした。
 回りは濃い緑の大きな木々によって囲まれ、その木陰は何にもまして涼しさを作り、人々に安息の場所を提供していた。サップ川から時折吹いてくる川風は、すばらしい清涼剤、僕はしばらくここを離れることができなかった。

 こんな所でどうして、小鳥をかご一杯に積めて売りにくるのか、鳥かごを持った少年がうるさくつきまとい、なにかしゃべりかけてくるのを、うとましく思い、僕は少々怒気をふくんだ顔をして、
あっちへいけと怒 った 。何回いやな顔をしても、懲りずについてくる少年には、堪忍がならなかったのである。最後はじっと立ち止まって彼をにらみつけた。彼は悲しそうな顔をして、うるさく騒ぐ小鳥篭をもって、黙って去っていった。1人になると、またもとの静寂は戻ったが、なにか悪いことをしたような気がして、心のなかは必ずしも穏やかでは無かった。
 こんな所で小鳥を買ってどうしろというのだ、餌をやるやる訳にもいかないし、第一飛行機に乗せて持って帰るわけにもいかないじゃないか。買えばたちまちにして、処置に困る僕に対してどうして買えというのだ。所詮君は小鳥を僕に売りつけて、僕から金を巻き上げれば好いと思っているのだろう。君はそれでも好いけれど、
期待に応えたら僕は大いに迷惑をする。だから買わないのだ。
心の中で、なにかにひっかている僕は、そう自問自答した。いや言い訳ををした。しかしもしこの時に放生と言う言葉が思い浮かんだなら、誰かが、たとえばさっきの少年でもいい、なにかそれらしいヒントをくれていたら対応はまた違っていただろうに。
悲しいかな、放生ということはまるで眼中になかった。

もし昨日キリングフイールドや、ツールスレンを訪問しないで、
大量虐殺の事実を知らなければ、僕はワットプノンはよいところだとしか、書かなかっただろうが、ポルポトの所業に対し、心から怒りを感じていた僕は、この世に一体、神や仏は有るのかと強い憤りに、身も心も包まれていた。罪無き人々を救うことができない宗教に対して怒っていた。こんな無力な宗教なら、お布施の必要は無い。生きている人を救わずして、何が宗教か。僕は怒りを神や仏に向けて、悪態をついた。そうでもしなかったら気が収まらなかったのである。
 
 幾時間が過ぎたのか分からなかったが、袖を引っ張られて気がついた。海外旅行では、よく経験する事だ 。いつのまにか自分の横に人が立っているのだ。韓国でも、インドでもそうだった。それは突然地中からわき出るという表現がぴったりで、大抵の場合、結果は悪い出会いになる。
またか、思わず口から、チョロと言う言葉が飛び出した。
インドで繰り返し、繰り返しいやほど使った言葉で、あっちへ行け、という意味である。
 チョロの意味が分からない青年は、つったったまま片手を出している。情けを掛けるというよりは、付きまとわれてはうるさいので、100リエル札を2枚渡して、立ち去る振りをした。小鳥売りの時もそうだったが、普段考えていることと、現実の場面とでは、丸で違ったように振る舞ってしまう。この青年の場合もそうだ。きっと少年の時に、兵隊にかり出されたか、遊んでいて地雷を踏んだかで片足を無くしたのだろう。同じ世代に生きている者として、どうしてもっと優しくできないのだろうか。そろそろ自分がいやになってきた。
 吹く風はさわやかで、辺りは静かでのんびりしている。旅の疲れをいやすには、もってこいの場所であるにも関わらず、心の中はなにかもやもやしている。肉体的には快適でも、心の中はブルーで、何ともいえない、いやな気持ちである。
 小1時間もいたであろうか、僕はまた旅人にもどった。小乗仏教はいかんな、僕は訳の分からないことを言って、自分をごまかしながら、サップ川の方をめざして歩き出した。

8重

2008年09月18日 | Weblog
好ましくない事 仏教で悪と説かれていること 8重

1、殺人
2、ぬすみ、
3、邪淫
4、嘘

 +尼の戒律違反 
1、愛欲の心で男と触れ合うこと 
2、愛欲の心で男に手を握らせる
3、他の尼が、重罪を犯したのを隠す。   
4、教団から、指弾された僧に従うこと

これらはいずれも規範のスローガンとして掲げれるのは、ある程度理解できるが、人間そのものの実相からあまりにもかけ離れていて、これを求めることの可否は議論されるべき事だろう。

仏教では一般的に是認されている上記4つに加えて、
尼の戒律違反の4つを加えて8重というらしい。

人間というものを動物の中で一番進化したものと認めても、人間の遺伝子には動物が持っている野獣性が残っていて、我々は常にそれを引きずりながら日々を送っているのである。

そういう現実から、人間の姿を眺めてみると、我々の現実と8重とはほど遠い。
だから極端な形で宗教的なスローガンを掲げられると、しらけると言うよりは腹が立ってくる。反発を感じながら無視したい気持ちになる。もうすこし、説得力のあるスローガンを掲げることはできないものだろうか。
仏教者集団関係者はモット考えるべきじゃないだろうか。足下のことをおろそかにして、遙か彼方にある理想ばかりに走ると、仏教信者の仏教忌避作用が加速するだけではないか。 良くも悪くも人間はあくまで人間である。すべての出発点の原点はここにある。